2008年07月06日

バッグしかもってくれない

 週刊文春に連載されていている伊藤理佐さんのひとコマ漫画「おんなの窓」には、いつもクスッと笑わされる。でも7月10日号は、笑うというより「さすが、鋭〜い!」と感心させられてしまった。

 並んで歩いている若いカップルの後ろ姿を見て、理佐さんがつぶやいている。

『 ああ やっぱり
 
  女のバッグをもってあげる男って

  バッグしかもってくれなさそう…
 
  そーよ

  彼女の重い他のもの、

  大切なものは

  もってくれないのよーー (ひとり言) 』


 絵をよくみると、男性が女性のバッグを左肩にかけ、右手を彼女の肩にまわし、何か話しかけている模様。

 ほんとだ、この彼、確かに大切なものからは逃げてしまいそう。

 なぜそう思うのか、自分でも説明できないけど、そう納得できてしまうのだから仕方ない。

 とにかく、名言だわぁ。

 

2008年07月05日

ブッシュ大統領へ

 私もひとのことは言えないのだけれど、アメリカのブッシュ大統領はひとの名前を覚えるのが苦手らしい。読売新聞(WEB版)の「編集手帳」(7月5日付け)に、そう書いてある。

 会見中、福田首相の名前が出てこなかったり、過去にも重要人物の名前を間違えたりしたことがあったそうだ。

 一方、映画監督の山本嘉次郎の、エキストラの役者さんひとりひとりをも名前で呼んだというエピソードも紹介している。

 そういえば、元総理の田中角栄は一度でも会った人の名前を覚えていて、それも人々が惹きつけられる要因だったという話を思い出した。自分の名前を覚えていてくれた、というだけで、ひとは感激する。地元の人々であれ、官僚であれ、それは同じことだっただろう。

 話が脇道にそれました。
編集手帳さんは、ブッシュ大統領に向かってこう結んでいるのだ。


 誰にも苦手はあるから映画監督の記憶力は望まないが、忘れてほしくない名前がひとつある。母親の切ない訴えを聴いて、目を潤ませた日のことは大統領も覚えておいでだろう。「メグミ」という。


 忘れたとは言わせない。

2008年07月02日

本を読んでいる人

 パソコンやケータイ画面の文字はどことなく頼りなく、長文を読むとしたら紙に書かれたり印刷されたものでないと落ち着かなのは歳のせいかな。そんなことをよく同世代と話す。私たちにしてみると、保存という意味でも、デジタルのものよりも紙の方が安心なのだ。

 浅草キッドの水道橋博士は紙問屋の息子だそうだ。「紙と私」(日本製紙連合会のPRページ)【週刊文春2008年7月3日号】に、紙への愛着を


 僕が、芸人のかたわら、本を書くのも、紙が、時代を経ても残っていくという感覚に惹かれるからです。


と語っている。

 水道橋博士ってこういう感性の持ち主だったのか、と見る目が変わったのが次の文章。


 紙に向かうといえば……昨年、亡くなった親父が社交下手で、読書だけが唯一の趣味でした。その血なのか、僕自身は、本を読んでいる人の姿を見るのが好きです。紙面に時を奪われて、心、此処にあらず、現実からぶっとんでいく。紙の中で繰り広げられる、総天然色の物語の中に入りこんでしまっている人だけが発する気、その瞬間のオーラが好きなんです。


 オーラかあ…。林真理子さんのだったかなあ、正確な言葉は忘れたけど、「一人でいても孤独に見えないのは読書をしている人だ」という意味の文章を読んで、なるほどと感心したことがある。その理由が、今わかった気がした。

2008年06月28日

お疲れさまです

 満員の通勤電車の中で、「ウッ、肋骨が折れるぅ〜」と思ったことが何度もある。ブレーキがかかり、ドアのところの手すりにたくさんの人たちの重みで押し付けられたときとか。

 そう、池袋で乗り換えるときも新宿で降りるときも、電車からまさに吐き出されるようにホームに降り立ち、やっと呼吸ができたような気がしたものだ。6年以上もよく通えたものだと思う。

 もうずっと昔のことなのに、そんな痛さや息苦しさが蘇ってしまったのは、北尾トロさんの「ガラスの五十代」【週刊文春2008年7月3日号】を読んだせいだ。

 ふだん通勤電車には縁のない北尾さんが朝7時半ごろの超満員電車に乗り合わせ、パソコンなどが入った荷物を持ったまま、長身の男性(壁男)と小柄な男性(坊主頭)に挟まれ身動きができない様子に、「そうそう、そんな感じだったなあ」と思い出した。


 電車が大きく揺れた反動でパワーアップした坊主頭の体当たりで、パソコンの角がみぞおちを直撃したのだ。く、苦しい、息ができん。壁男からのプレッシャーもますますきつく、身をそらせることもできない。

 よせ、そんなに尻を突き出すんじゃないよ。こ、腰が。キャリーを握る左手も、すでに感覚がなくなり始めている。


 北尾さんの目的地は四ッ谷だったのにとても耐えられないと、新宿でいったん降りてしまった。

 いけない、私がこのエッセイを取り上げたのは、なにも満員電車の辛さだけを語りたかったのではない。車内で泣きそうな顔をして耐えていた痩せた男性のことを、北尾さんが温かく描写しているところに、ちょっと感じるものがあったからだ。新宿で降りて…。


 車内を見ると、スダレおやじがつり革を確保し、髪の毛をかきあげているところだった。年齢は50代後半くらい。よく見ると優しそうな顔をしている。家庭は円満、会社では部下にも愛されていそうだなあ。

 スダレおやじはバッグから新聞を取り出して読み始める。オレの通勤タイムはこれからだよ、と言わんばかりの余裕しゃくしゃくな表情だ。

 こりゃ一本取られたな。発車する電車を見送りながら、ぼくはスダレに軽い尊敬の念を抱いていた。


「尊敬の念」という言葉は、けっして皮肉や茶化したものではないと思う。

 私からも、多くのビジネスマン、特に長年勤め続けているみなさんに、心から「お疲れさまです」。

2008年06月22日

心と身体の性

 自分の体験したことのない世界について想像するのって難しい。

 何日か前、たまたまつけたテレビで性同一性障害について放送していた。よく「心と身体の性が一致していない」と説明されるけれど、そのご本人の感覚が私にはストレートに伝わってこない。

 男に生まれてきたのに、気持ちが女、ってどういうことなんだろう、と不思議に思うだけだった。

 でも発想を転換してみた。「もしも今の自分の心のままで身体だけ男だったら…」と。するとすぐに「ああ嫌だ、女の身体に戻してくれ」という気持ちが湧いた。

 そっかあ、「今の身体で心が異性」というのはわけがわからないけれど、「今の心で身体が異性」ならいくらか想像しやすいのだ。自分としては異性に恋しているつもりでも、外からみたら同性同士。

 生まれたときからそういう違和感や嫌悪感を持って生活してきた人が、心の性に、身体や対人関係、社会的立場をも合わせたくなるのは当然だ、とわかったような気がした。

 もちろん気がしただけなんだけれど、それでもまったく想像できなかった頃よりかは理解できてきたと思う。
のり at 14:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記