2005年12月29日

ありがとう、そして良いお年を!

 この記事が2005年最後の記事となります。もう来年の目標や誓いを立てた方はいますか? 水を差すようですが、お茶の水女子大の土屋賢二先生はこう書いています。(「ツチヤの口車」【週刊文春 平成18年1月5・12日新年特大号】)

 新年の誓いを立てない人もいるが、人間を見る目さえあれば、誓いを立てない人は短気で横暴だと簡単に分かる。なぜ分かるかというと、妻がそういう性格だからだ。(〜略〜)自分には何も直すところがないと思っている自信過剰な人間で、確実に不幸な夫をもつ運勢だ。

 …かと思うと
 自信過剰なタイプにはもう一種類ある。それは誓いを立てる人である。誓いというものは、結婚式での誓いでも何でも守れないに決まっている。そもそも実行できるのなら、誓いを立てるまでもなく即座に実行しているはずだ。日記に「誓いのことば十箇条」を丁寧に書いた三日後には、日記をつけること自体をやめるような人間が、誓いを立てるところが、自信過剰である。

 どっちにしてもたいしたことは出来ないので、もう何も考えず川の流れのように自然に身を任せて新年になだれ込むつもりです。ただこのブログだけは来年も続けていけたらいいなあと思っています。今これを読んでくださっている皆様、いつも本当にありがとうございます。雪にもインフルエンザにも負けないでくださいネ。では良いお年を!
のり at 14:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 土屋賢二

2005年12月28日

そっくりで笑っちゃう

 動物行動学研究家の竹内久美子さんが、週刊文春6月10日号の「ズバリ、答えましょう」で、”犬とその飼い主の顔が似ている”という話を書いていたことを、当ブログでも 紹介しました。その続編が【週刊文春 平成18年1月5・12日新年特大号】にあって、こんどは写真付き。しかもそれがクイズになっています。

 左に5匹の犬、右に5人の飼い主の写真がタテに並んでいる。【飼い主と愛犬を結んでください】とある。エ〜ッ!? 深く考えないのがコツとも書いてあるので、ともかく輪郭と表情が似ている顔と顔を結んでみた。3組まではすらすらと出来たものの、最後の2組を迷って迷って決めた。次のページに答えがありました。あ〜やっぱり、3組は正解。最後の2組は逆でした。それにしても、犬と飼い主が一緒に写っている答えの写真は笑ってしまう。「なんでこんなに似てるの〜?」。

 その写真はカメラマン福田文昭さんの写真集『愛すれば、そっくり』(ワック刊)から選ばれたとのこと。面白い写真集があるものだ。その福田さんはこう考えたという。

 私は撮影していて、飼い主が愛犬に似てくるのではないかと思う。犬と暮らしていれば、家の中でも散歩のときも目と目で見つめあうことが多い。だから目つきが似てきても当然だ。(〜略〜)動物に比べれば、人間の方が感情豊かで、表情が変わりやすい。だから、人が愛するものに似てしまうのは自然の流れといえよう。

 竹内久美子さんは「人は自分と似ているものに惹かれる」という説だし、福田文昭さんは「人が犬に似てくる」と言う。いやあ、どっちなんだろう。まっ、そのへんはこれからも研究していただくとして、ひとつ竹内さんに質問したいことがある。「なんで似ている人(や動物)を見ると笑ってしまうのでしょう?」

 昔、電車で向かいの席にあまりにそっくりな親子連れが座ったことがある。母親の隣に、その顔をまるで縮小コピーしたような小さな顔があり、さらにもう一度縮小コピーしたような可愛い顔がちょこんと並んでいた。しかも三人とも前を向いてすま〜しているのだ。私は体の奥からこみあげてくる笑いを押し殺すのでもう必死だった。ひとりひとりの顔は笑うような顔ではないのに、何故あんなに可笑しかったのだろう。テレビでも有名人のそっくりさんが登場する場面を見ていると、似ていればいるほど笑ってしまう。似ているってことは微笑ましいってことなんでしょうか。あ〜思い出しただけで可笑しい。
のり at 14:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 竹内久美子

2005年12月27日

この漢字読めますか年末編

 大掃除、帰省の準備、お正月用品の買い出し、受験勉強…とご多忙の中、当ブログにお越しのみなさま。ちょっとひと息ついているところでしょうか。それともお暇なのでしょうか。いえいえ失礼いたしました。さて、少し頭の体操で気分転換でもいかがですか。夏にもやりましたが、また週刊文春のパズル「漢字尻取り迷路」の中から難しい読みの漢字をピックアップしてみました。【週刊文春 平成18年1月5・12日新年特大号】

@鉤針 A飛礫 B尾羽 C曲馬 D騎虎
E罪科 F木霊 G野点 H狡兎 I独鈷


正解は








@鉤針:かぎばり(先がカギの形になった針)
A飛礫:つぶて(投げるものとしての・{投げられた}小石)
B尾羽:おは、おばね(鳥の尾と羽)
C曲馬:きょくば(馬の曲乗りや、馬を使った曲芸)  
D騎虎:きこ(トラに乗ること⇒一度始めたことを途中でやめるわけにいかないこと)
E罪科:ざいか、つみとが(道徳・宗教上の掟や法律などに触れる悪事) 
F木霊:こだま(山や谷などで、声や音が反響して返ってくること。木の精のこと) 
G野点:のだて(野外で抹茶を立てること)
H狡兎:こうと(すばしこいウサギ) 
I独鈷:とっこ、とくこ、とこ、どっこ({仏教で}銅または鉄製の両端の尖った短い棒。またはそのような形を織り出した織物のこと)

 頭の体操になったかわかりませんが、ではまた。

2005年12月26日

おせっかいおばさんに

 何日か前、近所のある老夫婦が住んでいる家のそばに、札幌ナンバーのクルマがとまった。埼玉のこの辺りでは札幌ナンバーは珍しい。クルマから降りてきた中年男性が何故か玄関とは反対側、家の裏に回った。たまたま近くを歩いていた私は、さりげなく遠くの景色を見ながら足踏みしたりして立ち止まり、クルマのナンバーも覚えた。頭の中にある「怪しいぞランプ」がピカッと点灯したからだ。

 実は、その30分ほど前にその家の奥さんが外出するところに出会わせて、「いってらっしゃ〜い!」と見送ったばかりだった。もし御主人も外出していたら留守なのだ。いろんな悪い想像が頭をめぐったけれど、その人はすぐに戻って来て玄関から挨拶をして入って行った。私の思い過ごしだったのだ。

 「人を見たら泥棒と思え」というわけではないけれど、このごろ「不審者」という言葉をよく耳にするので、少し疑心暗鬼になっている。PTAの広報車や警察が「最近、不審者による子供への声掛けが発生しています」などと毎日のように注意を呼びかけているので、ついそんな目で見てしまったのかもしれない。

 今までの私は、「見張られているようで嫌だろう」という考えと、「おせっかいおばさん」に思われたくないという気持ちが強いためか、あまり周りを見ていなかった。でも各地で小学生を狙った事件が続いたり、近所にも不審な人間が居るかもしれない時代になって、ケースバイケースだなと思う。ただ、現実にはそのケースの見極めが難しい。

 義家弘介さんの「ヤンキー母港(ヨコハマ)で吠える」【週刊文春 12月29日号】にこんな一節があった。
 先日起きた、広島の女児が在日外国人に殺害された事件。その捜査の過程で、犯人と女児が携帯電話を眺めている姿を見たという目撃証言がある。もし、その時、いらぬおせっかいでも何気に女児に歩み寄って「どうしたの?」と声をかけていたならば、もしかしたら大切な命は奪われずにすんだかもしれない。
 マザー・テレサは言った。「愛情の反対は無関心である」と。今、その言葉を私たちは再び噛み締めるべきではないだろうか。

 「愛情の反対は無関心である」う〜ん、う〜ん…。でも、私がもし広島のその場にいても、その女の子が顔見知りでなかったら、声は掛けなかったと思う。泣いていたりでもしたら別だけど、ふつうはあんな残酷な結末になるとは想像もしないだろうし…。

 子どもたちの安全が脅かされる事件が起きる度、愛ある『おせっかい』の大切さを痛切に感じる。少なくとも、私はそんな大人たちによって救ってもらった人間。私は決して無関心ではいられない。

 愛ある『おせっかい』かぁ…。勇気を出しておっせかいおばさんになろうか。なれるかなあ?

2005年12月23日

零>=0

 「零」には「少しある」という意味と、「0」という意味の2つがあるということをご存知でしょうか。もともとは「少しある」の意味だったのが、西洋の数字が入ってきたときに「0」にこの字をあてるようになって、2つの意味が混在するようになった。…と、これは高島俊男さんの「お言葉ですが…」【週刊文春 12月29日号】からの受け売りです。

 「零」は、雨カンムリがついているのでわかるようにもともとは雨のしづくで、ひいて「小さい、僅少」の意にもちいる。しかしゼロではない。

 人に本を読んでもらっていて、「零」を「ゼロ」とよむのにビックリした。音のつもりが訓のつもりか、とにかく「零」のよみは「ぜろ」だと思ってるらしいんですよね。


 自分はどうだろう。「零点」「零下3℃」「零細企業」どちらの意味のときも「れい」と読んでいるな、と安心したところ、ふと「ゼロ戦」は確か「零戦」と書いて「ゼロせん」と読んでいることに気がついた。でもレイ戦なんて聞いたことがない。そこでネットで調べて見ることにした。

 ありました。「大空の覇者 零戦」というサイトにわかりやすい説明があったので、引用させていただきます。

1 「ゼロ戦」か「レイ戦」か?
 通称「零戦」の呼び方は「ゼロセン」の方が一般的には知られているが、これは開戦と同時に現れ、味方機をバタバタと撃墜してしまう悪魔のような(米軍から見て)戦闘機に恐怖感とゼロの発音から来る不気味さを込めて、米軍側で「ゼロファイター」と呼んでいたのです。
 太平洋戦争中「零戦」の名はあまり国内では知られておらず、専ら陸軍機の「隼」の方が「加藤隼戦闘隊」などの歌で宣伝され国民には親しまれていたのですが、戦後米軍による「ゼロファイター」の名で、「零戦」の優秀性や苦戦談などの記録が発表されと同時に日本側でも「零戦」に関する多数の書物が発刊されるに至り、一気に広く知れ渡り国内でも多くの人が「ゼロ戦」と呼ぶようになりました。
 しかし「零戦」の制式名は「零式艦上戦闘機」で、海軍では略称「レイ戦」と呼ばれていました。

 やはり本当は「レイ戦」だったのだ。戦時中一般の日本人にその名をあまり知られていなかったというのは意外だったけれど、だからこそ戦後その「ゼロファイター」という呼び方が逆輸入されるような形で国内でも「ゼロ戦」と呼ぶようになった、という説明に納得がいった。

 ところで、ゼロにまつわるとても面白い話も載っているので紹介したい。まずその前にこの質問を考えてください。「西暦紀元3年の5年前は何年か?」。
 コンピュータを使って時代の暦を詳しく再現した本があるそうなのだが、紀元前の出来事が一年ずれているのだという。その原因は、西暦紀元0年という年を計算に入れていたからだそうだ。西暦紀元0年は存在しない。(かくいう私も西暦0年があるとか無いとか考えたことがなかったのだが…)

 ある人にこの話をしたら、「そりゃコンピュータは0(ゼロ)を設定しないと駆動しません。西暦0年がないのなら作らなきゃいけませんね」と言った。
 コンピュータのつごうで歴史の年代をずらすなんてムチャクチャだ。

 ごもっとも。すみやかにプログラムのバグを修正していただきたい。へたをすると平成2年の2年前が平成0年になりかねない。そこで先ほどの問題に戻って「西暦紀元3年の5年前」を「紀元前2年」と思ったら、かのコンピュータと一緒です。修正しましょう。
のり at 17:56 | Comment(2) | TrackBack(1) | 高島俊男

2005年12月21日

2005ミステリー国内部門第1位

 今年も週刊文春の「日本推理作家協会員、ミステリー通、全国有力書店員が選ぶ! ミステリーベスト10」が発表された。注釈として「投票の対象は発行日2004年11月16日から2005年11月15日までの本です。国内部門の投票数は190。1位が5点、以下4点、3点、2点、1点として集計しました。」とある。で、結果は以下の通り。【週刊文春 12月29日号】

【国内部門】(著者)得点

@ 容疑者χの献身   (東野圭吾)  330
A 天使のナイフ    (薬丸岳)   155
B 震度0       (横山秀夫)  131
C 死神の精度     (伊坂幸太郎)  88
D 扉は閉ざされたまま (石持浅海)   79
E 信長の棺      (加藤廣)    78
F シリウスの道    (藤原伊織)   67
G 魔王        (伊坂幸太郎)  58
H ニッポン硬貨の謎  (北村薫)    56
I 摩天楼の怪人    (島田荘司)   53


 圧倒的な得点で1位となった『容疑者χの献身』について、著者、東野圭吾さんのインタビューも一緒に掲載されている。とはいえ、まだ『容疑者χの献身』を読んでいない私には霧の向こうの話ではあったけれど、読む進むうちに、「これは面白そうだなぁ」となってきた。湯川という物理学者でいて、彼が犯罪の謎を解く。犯人が石神という数学者。これを踏まえてインタビューを読むと少しわかってくる。

―湯川ではなく、敵である数学者の石神の方が主人公の扱いになっていますね。
「今回は石神という人物が作り上げる謎について描くのですから、彼の内面を理解しなければなりませんでした。湯川と石神の間にある、科学者同士が共有する感性を前面に出したいという意図もあり、大学で研究しておられる数学者の方に取材もしました。やはり数学者には神秘的な雰囲気があると思いますね」

 どうやら人間そのものが描かれているようだ。それと数人の「ひとくち書評」もあって、それらを総合すると、犯罪の仕掛けはとてもシンプルなものらしい。それもまた楽しみだ。是非読んでみたい。最後に東野圭吾さんから、これからこの本を読まれる方へのメッセージ。

「『放課後』『白夜行』に続き三回目の一位に選んでいただいたことを、誇らしく思っています。作者は、”おもしろい小説”であることを第一に書きました。ミステリーであるなしに拘わらず、期待してもらっていいと思います」
のり at 15:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事・話題

2005年12月18日

三つ子の魂百まで

 自分が三歳のころ何を考えていたのだろうか。中村うさぎさんの「さすらいの女王」【週刊文春 12月22日号】を読んで、ふとそんなことを思った。お母様の記憶にある、うさぎさんの3歳当時の様子が描かれているからだ。ちなみに文中の「女王様」はうさぎさんのことです。

 朝ご飯が終ると縁側にゴロリと手枕で横たわり、そのまま何時間も漫然と庭を眺めているような、まるで寝たきり老人のごときガキであったという。
 昼過ぎになって、家事をひととおり済ませた母親が、寝そべっている女王様の背中に向って「買い物に行ってくるね」と声をかけると、面倒くさそうに「うん」と答える。普通の幼児であれば母親と一緒に出かけたがるものではないかと訝りつつも、母親はひとりで買い物に出かけ、夕方近くに帰宅してみると、幼き女王様は出かける前とまったく同じ姿勢・・・…すなわち縁側に手枕というスタイルで、横着にゴロ寝を決め込んだままなのであった。
「あんたには、生きる気力ってものがなさそうだった」
 母親は、当時の女王様を振り返って語っている。


 うさぎさんは、当時の自分が何を考えていたのかと不思議に思っている。しかも少なくとも小学生時代はずっと落ち着きが無い子供だったそうだし、その後も人一倍エネルギッシュに驀進して現在に至っているのだから、読んでいるこちらも不思議に思う。食も細かったようなので、もしかしたら体力的に何かが足りなかったのかなあと、私なりに考えてみたが、いや、もしかしたら、幼きうさぎさんは空想の世界で遊んでいたのかもしれない、と思い当たった。

 作家になる才能は、たぶん生まれついてのものだろう。そうでなくても子供の頃は、空想遊びをすることがよくある。大人では思いもつかない物語を頭で作り出すことができるのだ。「ここで妖精が出てきて、こうなって、ああなって」などとファンタジーの世界と現実の世界が矛盾無く混在しているストーリーを描ける。そんなことをしていたら、何時間だってすぐ経ってしまう。途中で声を掛けられたら、現実に引き戻されたようで、”面倒くさそうに”答えてしまうことだろう。そこで無理矢理「もっと子供らしく遊びなさい」とか押し付けなくて良かったと思う。そのころ彼女の心の中で何かが育まれていただろうからだ。うさぎさんは、「縁側で寝転んでた私は今どこにいるんだろう」と書いているが、今もうさぎさんの中に居て、創作活動に役立っているような気がする。

 それにしても、中村うさぎさんは、今お疲れなのだろうか。「さすらいの女王」について当ブログでは一度も感想を書いたことはなかったが、いつも面白く読んでいた。初めのうちは借金まみれの自転車操業の様子をハラハラしながらだったけれど、だんだんこちらまで「なんとかなるさ」という気がしてきたものだ。そこにはうさぎさんの圧倒的な生命力と運の強さみたいなものが溢れていたからだ。ところが、今週の「さすらいの女王」はあきらかにトーンがいつもと違い、読後しんみりしてしまった。読むこちら側の問題なのか、いつも突っ走っていたうさぎさんがちょっとひと息ついただけなのか。だったらいいのだけれど。
のり at 15:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中村うさぎ

2005年12月17日

釈然としない

 言われて初めて、確かにへんな習慣だと思ったことがある。椎名誠さんの「風まかせ赤マント」【週刊文春 12月22日号】を読んで気づいた。

 結婚式や何かの祝いのパーティーなどで祝電に拍手するのもつまらない習慣ですね。何とかいろいろやりくりしてそこに来た人に、来る気もなかった代議士などに言われてそいつの秘書が「祝電事例集」かなんかパラパラやって送ってきた「お仕着せ文句」に全員で拍手するのはあまりに悲しく間抜けではないか。

 祝辞の挨拶に拍手している流れなのか、なんとなく祝電に対しても拍手していたかもしれない。けど、今ふと我にかえって、「これからは特に政治家の祝電には拍手なんてしないぞ」と決心した私である。まあ、そんなに意気込むほどのことでもないのだけれど。

 椎名さんは「気になる言葉」もいくつか挙げている。たとえば、なんでもすぐに「達人」と呼ぶことにも抵抗を感じているようだ。それで思い出したけれど、「カリスマ」という言葉も安易に使われすぎて、全くありがたくなくなっている。「もっと特別な神々しい人を形容する言葉なのに〜」と心の中でぶつぶつ言っている。

 もうひとつ。
 テレビのアナウンサーやレポーターはどうして「思います」を連発するのだろうか、ということも考えだすと寝られなくなる。
「ではこれからあのお店に行ってみたいと思います」
「このお店のおダンゴはおいしいと思います。おかわりを頼もうと思います」
「ではお金を払いたいと思います」
 なんて具合で常に「思っている」。
「思わない」ほうが言葉はきれいだ。

 私もこの「思います」に釈然としないものを感じていた。テレビで何かの謝罪会見のとき、「謝りたいと思います」というのを聞いて、これから謝るのかと待っていたら、いっこうに謝らない。つまりそれが「謝罪」の言葉だったらしい。『謝りたいと思います=申し訳ありませんでした』らしいのだ。謝られた気がしない。

 では自分はそんな言い方を絶対していないかと言うと、冒頭の拍手ではないが、無意識のうちに使っているのかもしれないので、「気をつけたいと思います」。
…ではなく「気をつけます」。はい。
のり at 16:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠

2005年12月16日

仰木監督お疲れさまでした

 昨日、前オリックス監督の仰木彬さんがお亡くなりになりました。
遊び心のわかるスマートな方で、私の好きな野球人のひとりだったので、
少なからずショックを受けています。

 ご遺族、ご親族の皆様にお悔やみを申し上げます。
それとともに、仰木監督を父親のように慕っていた選手たち、
一緒に闘った仲間の方々にも慰めの言葉をさしあげたい気持ちです。

 それでも、思うに、仰木さんは野球人として幸せだったのではないでしょうか。
西鉄の選手時代は個性豊かなメンバーたちと球史に残る黄金時代を築いたこと。
監督として柔軟な頭脳で何度もチームを勝たせたこと。
選手の持ち味を尊重して育てあげたこと。
野球を通じてたくさんの仲間やたくさんの孝行息子たちを持てたこと。
去年野球殿堂入りをして、その方々と祝うことができたこと。
ファンをはじめ、みなさんから好かれ尊敬されていたこと。
最後まで野球に没頭できたこと……。

 仰木監督、ほんとうにお疲れさまでした。
どうぞこれからも球界のことを、三原(元西鉄)監督と一緒に見守ってください。
お好きなお酒を飲みながら。

 心よりご冥福をお祈り申し上げます。
のり at 11:33 | Comment(0) | TrackBack(2) | 時事・話題

2005年12月14日

現代の越前屋は捕まらない?

 堀井憲一郎さんは、時代劇に登場する悪商人の名前を調査した。(「ホリイのずんずん調査」【週刊文春 12月15日号】)

 越後屋は悪くない。
 あらためてわかった。
 時代劇には悪い武士と悪い商人がセットになって出てくることが多いが、そこには越後屋は出てこないのである。あの、お代官さまのセリフ「おぬしもワルよのお」に続くのは「越後屋」ではないのだ。ま、いまどき、おぬしもワルよのお、なんていう代官もいないけどね。

 1996年にも調べたが、そこにも越後屋はなかったそうだ。

 ではなぜ悪商人の屋号の代表を越後屋だとおもってしまっているのか。それは「黄門さまが自分の身分を偽るときに”越後の縮緬問屋の隠居で”と必ず言うから、そこから転用されたのではないか」という説が有力である。週刊文春ずんずん調査第69回に発表されていた。ま、おれが10年前から言ってるっていうことです。いまも同じ意見でーす。はーい。

 堀井さんの説が正しいかどうかはさておいて、実際思い込みってよくある。人間て、目で見て、耳で聞いているようでいて、それ以上に思い込みで物事を見ている。だから真実を聞かされてハッとすることがあるのだ。悪商人の名前そのものはどうでもいいことだけれど、「思い込んでいるけど、本当はこうなんだよ」と知らせてくれるという意味で面白い。

 ところで、今日は、建築物のいわゆる「耐震強度偽装問題」に関しての国会証人喚問が行なわれている。この問題を現代の悪代官と悪商人の話にたとえたブログ『きっこのブログ』を読んだ。記事のタイトルは「捕まらぬジジイの皮算用」(12月12日)。現代の悪商人(ここでは越前屋だった)が、今まさにどうやって資産隠しをしているか、事細かく書かれている。

 同じく8日の「黒幕の黒幕はみんな黒幕だ(笑)」、9日の「政・官・民の三位一体」も驚かされる。これらの記事の信憑性はどのくらいか、ただの一市民には判断できない。ただ非常に詳細に説明されていることと、このところ慌てて政治資金を返した派閥のニュースなどを見聞きすると、この『きっこのブログ』はあなどれない、と思えてくる。

 きっこさんも書かれているが、ドラマの「水戸黄門」や「遠山の金さん」では最後に正義の味方が出てきて、悪人たちを捕まえる。それが黄門様も金さんもいない現代では一体どうなるのか。捕まらないんですか?
のり at 12:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 堀井憲一郎