何日か前、近所のある老夫婦が住んでいる家のそばに、札幌ナンバーのクルマがとまった。埼玉のこの辺りでは札幌ナンバーは珍しい。クルマから降りてきた中年男性が何故か玄関とは反対側、家の裏に回った。たまたま近くを歩いていた私は、さりげなく遠くの景色を見ながら足踏みしたりして立ち止まり、クルマのナンバーも覚えた。頭の中にある「怪しいぞランプ」がピカッと点灯したからだ。
実は、その30分ほど前にその家の奥さんが外出するところに出会わせて、「いってらっしゃ〜い!」と見送ったばかりだった。もし御主人も外出していたら留守なのだ。いろんな悪い想像が頭をめぐったけれど、その人はすぐに戻って来て玄関から挨拶をして入って行った。私の思い過ごしだったのだ。
「人を見たら泥棒と思え」というわけではないけれど、このごろ「不審者」という言葉をよく耳にするので、少し疑心暗鬼になっている。PTAの広報車や警察が「最近、不審者による子供への声掛けが発生しています」などと毎日のように注意を呼びかけているので、ついそんな目で見てしまったのかもしれない。
今までの私は、「見張られているようで嫌だろう」という考えと、「おせっかいおばさん」に思われたくないという気持ちが強いためか、あまり周りを見ていなかった。でも各地で小学生を狙った事件が続いたり、近所にも不審な人間が居るかもしれない時代になって、ケースバイケースだなと思う。ただ、現実にはそのケースの見極めが難しい。
義家弘介さんの「ヤンキー母港(ヨコハマ)で吠える」【週刊文春 12月29日号】にこんな一節があった。
先日起きた、広島の女児が在日外国人に殺害された事件。その捜査の過程で、犯人と女児が携帯電話を眺めている姿を見たという目撃証言がある。もし、その時、いらぬおせっかいでも何気に女児に歩み寄って「どうしたの?」と声をかけていたならば、もしかしたら大切な命は奪われずにすんだかもしれない。
マザー・テレサは言った。「愛情の反対は無関心である」と。今、その言葉を私たちは再び噛み締めるべきではないだろうか。
「愛情の反対は無関心である」う〜ん、う〜ん…。でも、私がもし広島のその場にいても、その女の子が顔見知りでなかったら、声は掛けなかったと思う。泣いていたりでもしたら別だけど、ふつうはあんな残酷な結末になるとは想像もしないだろうし…。
子どもたちの安全が脅かされる事件が起きる度、愛ある『おせっかい』の大切さを痛切に感じる。少なくとも、私はそんな大人たちによって救ってもらった人間。私は決して無関心ではいられない。
愛ある『おせっかい』かぁ…。勇気を出しておっせかいおばさんになろうか。なれるかなあ?