2006年01月30日

美容整形と心の解放

 作家の中村うさぎさんは、昨年の12月30日にまぶたの美容整形をしている。老化によって垂れたまぶたを引き上げたのだ。それから二週間後、「さすらいの女王」【週刊文春 2月2日号】によれば、うさぎさんも周囲も、以前の顔を忘れつつあるらしい。たしかに人の記憶はその程度のものかもしれない。しかも、うさぎさんの場合は手術したことを公言している。むしろ手術したことを隠すほうが、周囲が昔の顔を忘れないのだそうだ。

 整形がバレるのではないか、あるいは、整形に失敗したと思われるのではないか、という周囲の視線に対する恐怖が本人の心の重荷となり、その重荷が態度や表情に滲み出ると、今度は周囲がそれに反応してヒソヒソと囁き交わしたり腫れ物に触るような扱いをするようになって、ますます本人は自意識の袋小路に追い詰められてしまうのだ。そうすると、放っておけば以前の顔なんか忘れてくれる人々も、なかなか忘れてくれなくなる。

 そもそも人の視線が気になるから手術をするのだろうに、それを公言する勇気がないと、また別の意味で周囲の視線を気にしなくてはならないとはなんたることだろう。美人でも美男でも表情が悪くては何にもならない。だからといって、口に出すのはなかなか出来そうで出来ないだろう。本当にコンプレックスから解放されて心から晴れやかになるのであれば、手術をするというのも1つの手段かもしれない。ただ、術後の心のあり方をちゃんと考えておかないと、かえって惨めな気持ちになる。つまり、手術がすべてを解決すると過信しないほうが良いということだと思う。

 ちょっと話は逸れるけど、中高年の女性に圧倒的な人気を誇っている綾小路きみまろさんが、お客さんに向って「よくいらっしゃいました。そのようなお顔で…」などと言っても、皆さん大笑いする。自分のことだと思っているのか、いないのか、ともかく大ウケだ。「若くないから平気なんだろう」と思われるかもしれないが、女心はそんなものではない。ああいった状況でなければ傷つく言葉だ。ただ、年数を経て自分というものを受け入れているというのはあるかもしれない。

「最近はなんでもかんでも”可愛い”と言う」と、眉をひそめる向きもあるけれど、私は世間の”かわいい”の範囲が広いほど生きやすいように思う。確かにボキャブラリー不足だとは思うけれど、いろんな人や動物、あるいは物までも肯定的に見るという意味では、”可愛い”で良いと思う。強面のおじさんがちょっと照れくさい顔をしただけでも「可愛い」、しわくちゃ顔のおばあちゃんも笑うと「可愛い」と言われる。顔がぺしゃんこな犬だって「可愛い〜!」とナデナデされる。三枚目のタレントさんたちも売れてくるとそれなりに良い顔に見えてくる。目鼻立ちだけではなく、表情やしぐさを認める傾向は、周りの存在を幅広く受け入れる優しさかもしれない。

 それなのに、たいてい誰もが、特に若い時ほど自分の容姿には手厳しい。あとはいかに自分自身を受け入れられるかにかかっている。受け入れてしまえばラクになるのに…。
のり at 21:15 | Comment(0) | TrackBack(1) | 中村うさぎ

2006年01月29日

屋根がミシミシ

 雪国は相変わらずの豪雪で、2月になっても平年もしくはそれ以上降ると、気象予報士が言っていた。それは恐怖の宣言のはずなのに、その割には大雪のニュースがだんだんと小さくなっている。ちゃんと報じてもらわないと、雪がめったに降らない地方に住んでいる人間には、雪の重ささえもピンとこない。小林信彦さんの「本音を申せば」【週刊文春 2月2日号】の雪おろしの話を読んで、少しばかりわかってきた。

 とにかく、毎日、雪が降る。夜中になると、その重みでミシミシという音がする。放っておくわけにはいかないのだ。

 夜、あたりが静まるので、一層よく聞こえるのでしょう。ゾッとする。自分の頭の上がミシミシって、心配で眠れないに違いない。雪おろしをしないわけにはいかないのだ。小林さんは、60年前、つまり戦後すぐの冬を新潟で暮らし、大人たちが雪おろしで苦労している様子を見ている。

 ラバウル島帰りの親戚の者に「白米だけはいくらでも食べさせるから雪かきをして欲しい」と手紙を書くと、米軍のチーズやバターで肥った、精力あふれる復員者がやってきた。
「さあ、やりましょう」
 と勢い込んでいたが、二日ほど仕事をしただけで、筋肉疲労がはげしく、
「これじゃ、ラバウルの地下壕にかくれていた方が楽だった」
 と言い残して、帰京した。白米(当時は珍しかった)どころではないとも言った。そのくらい疲れるのである。

 過酷な戦地のほうがマシだというのだから、雪おろしとは、なんと辛い作業なんだろう。しかも今は高齢者が自宅を守るために雪と闘い、何人もの尊い命が奪われている。

 以前も書いたけれど、(低コストで)屋根の雪を溶かす方法はないものだろうか。部屋の暖房は行き届いているそうなので、その熱を利用するとか…。(それだと部屋が寒くなってしまうのかなぁ)もちろん私ごときが考えても、何の足しにもならないのはわかっているけれど、技術大国の日本で雪おろしだけは昔のままだなんて、どうにも納得できないのだ。

 おりしも今日のニュースで、建物の屋根が崩落したポーランドの事故を報じていた。何百人もの人々が下敷きになってしまい、まだ救出活動中らしい。積もった雪の重さに耐えかねて屋根が落ちたのではないかと見られているそうだ。
のり at 14:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小林信彦

2006年01月28日

'31パリ、尾頭付き

第2回の続き】

 ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」
【読売新聞 06年1月28日朝刊(土曜日連載)】の第3回。

 1931年7月、キーン父子らを乗せたジョージ・ワシントン号は、まずアイルランドへ寄港した。船上で見た地元の新聞に掲載されていた広告記事を、キーンさんは今でも覚えている。アメリカでは自らの製品を自慢したものであるのに対して、そこの広告は、「うちのコーヒーを飲んでみてください。紅茶もいいですよ」といった低姿勢なものだったからだ。9歳の少年が、これをもって<文化の違いに気づいた>というのには、驚かされる。

 アイルランドでは上陸せず、初めて下船したのはフランスだった。フランス語に囲まれて、外国に来たことを実感し、興奮しながらも、キーン少年は外国の人と会話するためには、その国の言葉を学ぶことが必要なのだと気づき、外国語に強く惹かれるようになる。後年、キーンさんは8,9か国語を勉強したそうだが、日本語だけは別格であるようだ。

 私は時々考えることがある。もしなにかの事故で、私が日本語の知識を失うことになったら、私には大したものが何も残らないのではないか、と。日本語---最初は私の祖先とも、私の文学的嗜好とも、また人間としての私の自覚とも関係がなかった日本語は、今や私の人生の中核部分を成しているのだ。

 キーンさんにとって、日本語がそれほどのものになっていった経緯はいずれ詳しく書かれるはずなので、それは楽しみにしておきましょう。さて、歴史に詳しい方なら1931年のパリといったら、すぐに万国博覧会を連想するかもしれません。キーン少年もそこでパビリオンを渡り歩き、実際に各国を旅したような気分だった。文化の違いは、もちろん食文化にも顕著に表れる。

 キーン少年はインドシナ館で、魚がまるごと、つまり頭がついたままの料理を出されたことがショックだった。魚の眼が自分を睨みつけていたというのだ。キーンさんは、そのことをもって「まだ土着のものに対する偏見に縛られていた」と書いているけれど、「土着のものに対する偏見」というのはオーバーかな、という気もする。日本人でも魚の眼が怖いという人もいるし…。

 山口晃さんの挿絵の中に、皿の上で魚が上半身を起こし、腕組みしてじっと睨んでいる絵がある。湯気もあがって、付け合せの野菜も添えられて、皿の脇には塩とコショウも置いてあるけど、これじゃあ食べられません。キーン少年の目には、あたかもこんな風に「オレのこと食べる気か?」と魚に言われているように見えたのかもしれません。

第4回へ続く】

【 目次は → こちら

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海揃語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て53年、
京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年01月26日

年賀ハガキで応募する

 懸賞クイズにハガキで応募したことのある人が、山本一力さんの「にこにこ貧乏」【週刊文春 2月2日号】を読んだら、ちょっと焦るかもしれない。山本さんは、企業のキャンペーン企画における懸賞の運営をした経験があるのだ。

 昔(平成元年ごろまで)のことという断りがあるものの、その応募ハガキのチェック方法が興味深い。消印日や条件にあっているかどうかはもちろんだけれど、他にも抽選の前段階で『はずれ』となるハガキがあるのだ。まず読みにくい文字のハガキ(崩し文字。鉛筆で文字が薄い。小さい。文字なのか絵なのか不明)。それと「余った年賀ハガキ」、これも『はずれ』だったとか。

 当たりがほしければ、余りモノなんかで応募してくるんじゃない……応募ハガキを仕分けしているだれもが、口に出さずとも、年賀ハガキには眉をひそめた。
 郵便局に持参すれば、年賀ハガキに交換しれくれる。懸賞に応募するなら、せめてその程度の心遣いはしろよと、スタッフ同士で話した。

 個人宛てに出すのは失礼だけど、懸賞なら良いだろうと余った年賀ハガキを使っている人はけっこう多い。確かに郵便局で交換できるけど、手数料が必要で、しかもその年賀ハガキは無駄になってしまうわけなので、むしろ懸賞で使うというのは、「もったいない」精神からいえば悪いことではないと思う。

 でもそんな風に受けとめられてしまうのですね。時代により、会社により抽選システムは異なっているはずですが、もしかしたら、あなたが懸賞に当たらなかった原因は、運だけではなかったかも。
のり at 19:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 山本一力

2006年01月23日

新年早々ついてない人

 年が明けてもう一月も下旬になってしまいましたが、皆さん何か良いことありましたか。良いニュースのあった方、良かったですね。でも当然世の中そんな人ばかりではありません。かくいう私も、年が明けてたった二週間のうちに、自分のそそっかしさから2度もケガをして、洗濯機も壊れました。ケガといっても捻挫と打撲程度ですし、洗濯機も長年使っていたものなので、買い替えるのも仕方ありません。つまり1つ1つの出来事はたいしたことないのですが、それらが続けて起こり、かつ正月早々というところで「なんだかなあ〜」という気持ちになってしまいました。

 棋士の先崎学八段も年末からついていなかったようです。(「先ちゃんの浮いたり沈んだり」【週刊文春 1月26日号】)年末にケイタイを紛失し、そのショックで倒れていたら風邪をひき発熱し寝込み、そのうえ歯の詰め物が取れるという始末。悪いことが続き、少し神経質になった先崎さんが、一体どうしたかというと…。

 三が日が過ぎ、すこし元気になったので、お祓いで麻雀を打つことにした。御払いで麻雀とは妙な感じだろうが、私にとって麻雀とは厄除けのようなものなのである。なんだかあの奇妙な模様の牌でワイワイ皆でやると、身についた厄がおちていくような気がする。まあ、ゲームを御祓いに使うというのは、将棋指しらしいともいえるだろう。

 その麻雀に少しだけ勝って、気分が良くなったようです。目からウロコ。自分で「厄除け」だって思えば、麻雀でもいいんですよね。要は気持ちの持ちようってことでしょう。そういえば『験直し:げんなおし(悪い前兆が現れた時、よくなるように祝い直すこと。縁起なおし)』って言葉もあります。「げんなおしに一杯飲もう!」などと使います。だとしたら、新年早々ついていなかった皆さん、何か手軽に出来る自分なりの「げんなおし」をしてみたらどうでしょう。気分転換になったり、楽しければ何でも良いのではないでしょうか。私もまだ少々痛い足をさすりながら考えています。(奮発して美味しいものでも食べに行こうかな)
 
 でももし何も出来なくても大丈夫! 2月になるのを待ちましょう。だってよく言うじゃないですか、「月がかわると、ツキもかわる」ってね。頑張りましょう!
のり at 12:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 先崎学

2006年01月21日

'31ヨーロッパへの航海

第1回の続き】

 ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」
【読売新聞 06年1月21日朝刊(土曜日連載)】の第2回。

 キーン少年が家庭的に恵まれていなかったとはいえ、幸福な出来事もあった。その最たるものが9歳(1931年7月)のときのヨーロッパ旅行。仕事で行く父親にせがんで連れて行ってもらったのだけれど、そこでの船旅は少年にとってまさに新しい世界との遭遇だった。

 当時はアメリカからヨーロッパへ行く手段は船しかなかったので、客層もバラバラだった。また船の滞在が一週間からそれ以上はかかったため、船を単なる交通手段としてだけでなく、乗客たちは船旅を楽しもうとしていた。最高の豪華客船でなくても、そこはある種の社交の場でもあったようで、特に女性などは様々な衣装を積み込んでいた。シャッフルボード、ピンポンなどで暇をつぶし、酒は派手に飲まれていた。当時のアメリカは禁酒法時代だったけれど、アメリカ領域を出て禁酒法に従う必要がないのだ。

 さて、船上での部分を読んで、キーン少年が瞳をキラキラさせながら、好奇心いっぱいで船旅を満喫している姿が浮んできます。たとえば「父から皆に紹介されるのは胸がときめく体験だった」というのは、大人の世界に一歩足を踏み入れたような気がしたのでしょう。

 ところで、今日の文にはもう一つ興味を惹かれるエピソードが含まれていました。当時アメリカの少年にとって、野球というものがいかに重要な関心事であったか、あるいは評価の基準であったかがわかる話です。キーン少年は野球が苦手で、草野球のどこのチームも彼を入れたがらなかった。そんなことから自分は落伍者であると思い、不幸だと感じていた。それが、先ほどの船旅の話にも繋がってきます。その船に乗っている同世代のアメリカの子供たちが、キーン少年にまず野球の守備位置を質問してくるのだそうです。

 私は本当のこと、つまり野球はどこを守っても下手であることをどうしても言えなくて、上手である振りをしなければならなかった。たいして考えもせずに自分は捕手であると言ったために、いずれはその腕前を見せなければならない時が来るのではないかと恐れていた。
 
 たかが野球が苦手なことが、そんなに恥ずべきことで、重大なことなのだろうか、と思うけれど、そのころのアメリカの少年にそういう価値観があっても不思議ではありません。調べてみると、1927年にかの国民的ヒーロー、ベーブ・ルースが年間60本のホームランを記録し、ルー・ゲーリックなどのスーパースターがいた時代なのです。キーン少年にとっては不運でしたが。

第3回へ続く】

【 目次は → こちら

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て53年、
京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年01月19日

個人情報とシュレッダ

 著名人などは別として、ブログを書いている人の多くは本名などは明かしていないですね。私も自分を特定しうる情報はできるだけ書かないつもりです。書いている記事は別にどうってことのない内容ですが、個人情報がいつどういう形で災いを起こすか予想がつかないのが不気味だからです。

 室井滋さんの「すっぴん魂」【週刊文春 1月26日号】では、個人情報を守るためにシュレッダが大活躍。そもそも友人から、「仲間の電話番号やメールアドレスを書いた手帳を落としてしまった」というお詫びの電話をもらったことがきっかけで、周りを見ればお歳暮やお年賀の宅配便の伝票でさえ個人情報満載。「これ、このまま捨てると、手帳を落っことしたのと同じ事よね」と思った室井さんは、それらをシュレッダにかけた。そういえばDMなどの郵便物だって、個人情報がたっぷりだし、案外身近なところに簡単に捨ててはいけないものが転がっている。

 室井さんがあまりに大量の書類をかけたせいか、シュレッダが故障してしまい、修理の間、手巻きのシュレッダで代用しようかと買いに行ったもののどこも売り切れだった。

 文房具店の爺さんの話では、”去年最も売れた製品の一つ”だそうな。「個人情報大事の世の中だもん。オイラだって使ってるよ。姉さん遅れてんね」には思わず爆笑! 本年の初笑いとなったのでありました。

 シュレッダってそんなに売れているんですかあ。知らなかった! みなさん、やはり個人情報が漏れないように神経使っているんですね。テレビでゴミ屋敷と呼ばれる家の主が、ゴミ集積所からよその家が出したゴミ袋を持ち帰ってくる場面があったけど、あれなんていろんな意味で大問題でしょう。うちの近所にあんな人は居ないと思うけれど、見ていてゾッとした。

 ところで室井さんは紙をシュレッダにかけることが、快感になってしまったご様子。

 自分でもちょっと怖いが、次第に私はガーッと紙トコロテンが出来上がる度に「フフッ」とほくそ笑み、時には「ざまあみろ」という雄たけびすらあげるようになった。

 大丈夫かな〜。室井さん間違って必要なものまで紙トコロテンにしないでくださいね。
のり at 17:33 | Comment(0) | TrackBack(1) | 室井滋

2006年01月18日

誰が日本を発見したのか

 時事通信社のサイト『時事ドットコム』の「写真」カテゴリ(1月17日)に、古い世界地図の写真があって、キャプションはこうなってます。

 米大陸を「発見」したのはコロンブスではなく中国の航海家・鄭和。しかも、マゼランより先に世界1周に初めて成功していた−。この説を裏付ける古地図の複製を中国の地図収集家リュウ・ガンさんが手に入れたと主張、このほど公表した。(AFP=時事)
 
 ここで気になったのが、<米大陸を「発見」した>という部分。昔、『事実の読み方』(柳田邦男/著)の「だれがコロンブスを発見したか」(昭和57年/記)を読んでから、この「米大陸を発見」という言葉に敏感になっている。ペルーで、インカ帝国の遺物などを蒐集している天野博物館の天野館長が、陳列物を前にこう言ったという。

 「コロンブスのアメリカ大陸発見とは何ですか! 小学校で教わったまま信じている人が多いことでしょう。すでに何千年も前から、世界中の殆どの民族が、大海原を渡ってこの地に来ていることをこれらの壺が語っているのです。たかが四百年位前に来たコロンブスが発見したのではないのです。もし、そうだというなら、それでは一体誰が日本を発見したというのでしょう。ヨーロッパの人達が作った歴史とは違う次元で、人はずっと住んでいたのです。では、コロンブスとは一体何者でしょうか。彼は、当時の歴史を作る立場にいた、ヨーロッパの権力者グループの一員として、この大陸に来て、生きて帰った最初の人だった、ということなら納得できるのです」

 コロンブスでも鄭和でもないのだ。ところで、まさかどこかの国の歴史本に、「○○年に○○○が日本列島を最初に発見した」なんて載ってないでしょうねえ。
のり at 12:46 | Comment(0) | TrackBack(1) | 時事・話題

2006年01月16日

私が生まれる10年前

 突然ですが、「戦後生まれ」という言葉を聞くと昭和何年ごろまでの世代を思い浮かべますか? 単純に終戦より後という意味だったら、平成の今でもそうですけど、ここではどこか戦争の名残のある中で生まれた「戦後生まれ」を指します。私はそれをずっ〜と、昭和23,4年くらいまでのいわゆるベビーブーム、団塊の世代の人たちまでと思ってました。だから林真理子さんの「夜ふけのなわとび」【週刊文春 1月19日号】を読んで、ひっくり返ってしまった。

 このあいだ二十代の人に言われた。
「林さんのように、戦後生まれの人は……」
 えっ、と聞き間違えたかと思った。戦後世代だなんて、おばあさんみたいでイヤだわ。私が生まれたのなんて、ずっと後よ……。しかし考えてみると、昭和二十九年といったら、上に二の数字がつく。戦争の傷跡が残っていると思われても当然だし、事実そうだった。街でも白い着物でアコーディオンを弾いている傷痍軍人をよく見かけたものである。

 29年で戦後生まれ? ウッソー! …私は30年生まれ。一応「二」ではなく、「三」の数字がつくけれど、林さんとは1つしか違わない。子どもの頃、周りの大人たちが「戦争中は大変だった」とよく言っていたけれど、自分の生まれる前のことなど、10年前も50年前も同じ距離感で、みんな昔の話だった。終戦のとき、うちの両親は10代の子供だった。自分の親が10代だった頃の話というのは、子供にとってすごく昔の話なのだ。

 あとになって、戦争と自分の人生の距離が思ったより近いと気づいたけれど、それでも私たちは日本経済の高度成長時代の中で育っていたから、やはり戦争は無縁のものだった。時代を現代に置き換えてみれば理解してもらえるだろうか。たとえば阪神・淡路大震災は明日で11年経ちます。あれほど悲惨な出来事から、もう11年も経ってしまった。同時代に生きている私たちにとっては早い11年だった。ところが、昨年神戸で誕生した赤ちゃんは震災から10年後に生まれたことになり、その子たちにしてみれば、歴史に残るあれほどの大災害もやはり昔のこと。彼ら彼女らが中高年になったとき、「大震災のすぐ後に生まれたんですね」と言われたら、きっと今の私のようにひっくり返ってしまうだろう。つまりそんな感じなのだ。

 さて、林さんの文に戻ります。林さんと同じ齢のワインの話。
 「一九五四年」というラベルに、人々は驚きの声をあげる。
「半世紀前ですか。よくこんなものがありましたね」
「保管は大丈夫ですか」
「澱(おり)は溜まってないかなぁ。ちゃんと飲めるかなあ……」
 これらの言葉は、すべて私につき刺さってくるようで、ついうつむいてしまう。ソムリエがコルクを抜こうとするのだが、あまりの古さにうまくいかない。
「木が固まり過ぎてるのかも」
 そうね、古過ぎるもんね。

 生きていれば誰もが平等に古くなってしまいますよねえ。でもこのワイン、とっても素晴らしい味になっていたという。ほらね、(何が”ほらね”かわからないけど)古くてもいいんですよ。ところで、みなさんはご自分の生まれた10年前に日本や世界で何が起きたかご存知ですか? 一度調べてみたら新しい発見があるかもしれませんよ。
のり at 10:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林真理子

2006年01月14日

'30年代ニューヨーク

連載前インタビューはこちら

 ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」が始まった。毎週土曜日、読売新聞朝刊に連載されることになり、今日がその第一回。紙面の3分の2ほどの面積がそのエリアで、またそこの4割くらいを、挿絵というにはあまりに大きな絵が占めている。

 地上と地下鉄の断面図(?)なんかも、こんなに細かく書けるものなのかと思うほど手が込んでいる。ところどころ面白いセリフがあったりもする。文章に出てくる幾つもの場面を描いたものが、少しずつ重なっていて、アメリカの絵のはずなのに日本も混じっている。とっても不思議だ。どう表現してよいのかわからない。そういえば先週の読売新聞に、この挿絵を描いている山口晃さんの紹介があったはず。保存しておいたんだっけ。…あったあった。平安絵巻みたいな絵の前に山口晃さんが立っている写真に、こう説明がされている。

 写真に映っている作品は、室町時代から江戸初期に流行した「厩図(うまやず)」になぞらえたもの。だがよく見ると、居並ぶ馬の下半身はオートバイに化けているし、烏帽子姿の男もいれば着流しの庶民、それにTシャツの若者もいる。お茶を運んでくるのは、なんと小さなロボットだ。

 今回の挿絵も「なるべく資料にとらわれずに描きたい」し、「どこまでが本当なんだろうと思われるような絵にしたい」と語っている。ふむふむ、そうなってますね。どうやら絵の説明が出来ないのは私の力量不足だけでもなさそうだ。

 さて、本題のキーンさんの文章は、まず少年時代の様子から。1922年にニューヨークで生まれたキーンさんと日本との接点は無かった。もちろんキーンさんだけでなく、アメリカではふつうのことだった。高校時代、それもキーンさん曰く、「驚くほど多くのノーベル賞受賞者を産み出した」というほどの高校だったけれど、学んだことはほとんど西洋の歴史、文学、科学に限られていたという。ただ10歳のころのキーン少年が、「日本人は俳句というたいへん短い詩を書くことを知った」という場面を読んで、やっぱり子どものころから、文学に対する感受性が人一倍強かったんだなと思った。

 ニューヨークの中流階級が住む郊外で育ったというキーンさんは、自動車の免許を持っていない。地下鉄やバスで移動するのが普通だったからだそうだ。子どものころは道を通る自動車も少なかった。荷馬車がときどき通った。ミルクの配達。廃品回収などのための荷馬車だ。そこを読んでから挿絵を見るとまた別の味わいがあります。

 ところで、キーン少年は家庭的には恵まれていなかった。映画に登場するアメリカの典型的な家庭をいつもうらやましく思っていた。妹が1人いたけれど、キーン少年が7歳のときに大恐慌がはじまり金銭的な問題が発生したうえに、12歳のころその妹が亡くなる。両親の仲は悪く、毎晩のように口喧嘩をしていた。そこで、キーン少年は衝撃的な言葉を聞いてしまう。

 ある夜、私は父が次のように言っているのを耳にした。父が母と一緒に住んでいた唯一の理由は父が私の妹を愛していたからだった。しかし妹が死んでしまった今となっては、もはやその必要もなくなった、と。
 たぶん父は本気でそう言ったわけではなかった。父は一瞬の怒りに駆られて、こうした言葉を口走ったのであったかもしれない。しかし私はこの言葉を忘れなかった。

 「たぶん父は本気でそう言ったわけではなかった。」というところが切ないです。キーンさんは70年たった今でも忘れていない。それはそうだろう。ただでさえ両親の喧嘩は子供には辛いことだという。せめて自分のことを心配してくれる両親であったならばまだ救いがあったかもしれないけれど、その父親の言葉で「自分は愛されていない」と受けとめてしまったのだと思う。キーン少年が15歳のとき、両親は離婚し、母親と二人きりの侘しいアパート生活になる。そこで第一回は終っている。

第2回へ続く】

【 目次は → こちら


★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て53年、
京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。