2006年02月27日

勝利の女神におまかせ

 「イナバウアー」。ついこの間まで、聞いた事もなかったこのフィギアスケートの技が、荒川静香選手の優勝が決まった時から、瞬く間に日本人の新しい常識語となってしまった。さっそくポーズを真似てみたら、ただおなかを突き出して万歳しているだけの「何それ?」状態だった。

 冬季五輪は、夏のそれとずいぶん雰囲気が違うものだと感じた。なんといっても、雪と氷の競技なので、転んだり、尻餅をついたり、コースをそれたりと、素人目にも失敗したことが一目瞭然なのだ。日本人だけでなく、どこの国の選手も、常にアクシデントとの闘いのようでもあった。

 そんなことを踏まえて、堀井憲一郎さんが「ホリイのずんずん調査」【週刊文春 3月2日号】で、見る側の心理をうまく表現している。冬の競技は人の失敗を願う競技だと。

 日本選手がいい記録を出すと「上村愛子、現時点で2位、残り4人!」となって、日本中で残り4人の滑りを「失敗しろー」と眺めることになる。あまり人の失敗を願いつつ、スポーツを見るのはよくない。でも願ってしまう。解説者も微妙な発言になる。露骨に残りは失敗すればいいんだと言うわけにはいかず、でも日本選手が負けてもいいから他国選手を応援しましょうというウソを言うわけにもいかず、もごもご、んごんぐな発言になる。

 勝負事なのだから、他国選手を妨害するわけでもなく、応援する人達が心の中で願うだけなら罪はなさそう。お互いさまでしょう。ただ、そんなのが続くと精神的にヘトヘトになるでしょうね。

 で、私はどうだったかというと、実は小心者ゆえ、「あとは勝利の女神におまかせ」とばかりに、どの競技もリアルタイムでは見てません。結果を知ってから見たいものだけ見ました。ドキドキするのが嫌なので…。だから、選手のみなさんの精神力には感服するばかり。逃げられない状況で、プレッシャーと闘うのだから、ほんとすごいです。

 さて、冬季オリンピックは終わりましたが、3月10日から同じトリノで冬季パラリンピックが開催されます。選手のみなさん、是非ぞんぶんに実力を発揮してきてくださいネ!
 → Yahoo!JAPAN『トリノパラリンピック特集』
のり at 12:02 | Comment(2) | TrackBack(1) | 堀井憲一郎

2006年02月25日

'40『The Tale of Genji』に心を奪われる

第6回の続き】
 
 ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」
【読売新聞 06年2月25日朝刊(土曜日連載)】の第7回。
 
 1940年は、戦争に恐怖と憎悪を抱いていたキーンさんにとって、生涯で最も陰鬱な年となった。ドイツ軍の侵略が進み、ヨーロッパ各国がナチによって征服されつつあったのだ。そんなある日、好奇心から『源氏物語』の英訳本("The Tale of Genji")を手にして、読むにつれその魅惑的な世界に引き込まれていく。その内容が、戦争もなく、力の強さを称えるものでもなく、人間としての深い悲しみを物語っていたからだった。

 残念なことに、当時のキーンさんにとって、日本という国は軍事大国であり、中国の侵略者であった。中国人学生で反日派である李さんにも同情していた。が、しかし『源氏物語』は、現実の世界から目を背けたいキーンさんにとって、かっこうの心の逃げ場所になっていったようだ。

 キーンさんの文章には、日本を憎んでいたという表現は無いものの、憎悪の対象だったのではないかと思われる。本来ならそんな国のものはすべて否定的に見るだろうし、あるいは見たくもないだろう。しかし英訳『源氏物語』はキーンさんを次第に日本語へと導いていく。それほどの優れた英訳をしたアーサー・ウェイリーという人は、一体どんな人物なのだろう。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、
アーサー・ウェイリー(Arthur Waley, 1889年8月19日 - 1966年6月27日)は、
イギリスの東洋学者で、『源氏物語』(1921年 - 1933年)、
『枕草子』(1928年)、『西遊記』(1942年)などを英訳した。
今でもウェイリー訳『源氏物語』は英語圏でしばしば読まれる。

とあった。ウェイリー訳『源氏物語』が今でも読まれるというのは、名翻訳本ということなのだろう。彼の翻訳が、キーンさんのみならず、英語圏の多くの人達に日本文学を知る機会を与えたかもしれない。

 さて話を戻します。1941年、キーンさんに日本語を学ぶ機会が訪れる。夏の間、別荘で日系アメリカ人から日本語を勉強するという人に誘われたのだ。生徒は3人だったが、日本語をまったく知らないのはキーンさんだけだった。ただ中国語で習った漢字はわかったし、新しい外国語を勉強することに興奮していた。

 コロンビア大学に戻った新学期。4年生になったキーンさんは、これから先、何を研究していくか迷う。中国語と日本語の研究、あるいはフランス文学。一緒に日本語を学んだ仲間の一人は日本語を勉強することを勧めた。

 ブルームが指摘したのは、こういうことだった。フランスで育ってフランス語を話すアメリカ人は沢山いる、しかし日本語がわかるアメリカ人は皆無に近い、と。

 今回はここまでで終っています。キーンさんは友人の助言通りに、すぐにここから日本語の研究を始めるのだろうか。もしそうだとしたら、時代が時代だけに、ますます深まるであろう日本への憎悪と、源氏物語へ惹かれる気持ちとが、彼の心の中でどんな形で存在していくのだろう。

第8回へ続く】

【 目次は → こちら

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て53年、
京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年02月23日

クルマの体重を知る

 一応毎日体重を計っている。百グラム単位でグラフにしているので、変化がわかりやすい。500g増えると、グラフがピンと右上がりになってしまい、「なんでこんなに増えたんだろう」と憮然としてしまう。一般人はこんな嘆きで済むけれど、スポーツの世界となると大変な問題になってしまう。ジャンプの原田選手が失格になったことはまだ記憶に新しい。残念なことに体重が規定より200g足らなかったのでした。

 自動車ライター・渡辺敏史さんは、「カーなべ」【週刊文春 3月2日号】で、その話題から車の重量税の話を展開している。まず、原田選手のことを、あるテレビ番組の司会者が、かなり怒っていたらしい。それで渡辺さんは、

 勘違いとはいえ、ウンチ一回にも満たないたった200gの管理にしくじったくらいで門外漢に全国ネットで頭ごなしに叱られる。五輪選手の怖さや厳しさに比べればウチらの世界なんかユルいもんで……と思ったが、実はこんな話はクルマの中にもあったりする。一番身近なところにありながら軽視されがちな数字として、クルマの体重はまさにそれにあたるだろう。

 車の体重が結びつくのが重量税ということなんですね。たとえば、トヨタヴィッツのグレード「F」の場合、エンジンによってカタログ車重が980sか1010sになるらしい。重量税は1000s以下の区分から、500sごとにあがるようになっている。従って980sと1010sでは別の区分になってしまい、金額にすると年間6,300円の差になるそうだ。その程度の金額は気にならない、走りにゆとりがあったほうが良いという人は別として、少しでもランニングコストを減らしたいと考えている人には良い情報だと思う。

 新車購入の際は3ケタ万の払いの中に紛れ込んで目立たないものの、車検の際にその紙一重の差を知り唖然としても後の祭りだ。原田の200gを教訓に、この3月決算でクルマをお求めの際にはぜひカタログで車重確認をお忘れなく。

 というのが、渡辺さんからのアドバイスである。体重管理って、いろんな意味で大切なんですね。
のり at 17:11 | Comment(0) | TrackBack(1) | 渡辺敏史

2006年02月21日

豆を受けて鬼となる

 ちょっと時期がずれてしまいましたが節分の話。神社などで有名人が豆まきをしている映像を見ていて、いつも腑に落ちないことがある。見物している人たちは、撒かれている豆をなんとか自分の手で受け止めようとしたり、袋の口を大きく開けて必死だ。あんな風に周りの人を押しのけるような人に御利益があるのが豆まきなんだろうか。もっと和やかな雰囲気で行えないものなのだろうか。

 そんなふうに考えているうちに、「そもそも節分の豆は”鬼”にぶつけて邪気を払うものだろうに、それを人間が受けちゃっていいの?」という疑問が湧いてきた。

 とはいえ、実際に有名人の豆まきの場に行ったことはない。辛酸なめ子さんは今年行ったようだ。「ヨコモレ通信」(【週刊文春 2月23日号】「見もの聞きもの」内)にレポートされている。タイトルは「節分の豆まきは人の心を鬼に変えるのか!?」。これでもお分かりのように、豆まきが始まるとその場は戦場のようになったらしい。挿絵の漫画(辛酸なめ子/画)には、豆まき前とその最中の2つの場面が描かれていて、こんなセリフがついていた。

豆がまかれる直前
「みんな殺気立つわよ〜 こわいわ〜」
「そうね、危ない時は前に逃げましょう」
とか言っていたおばさんたちが 一番殺気立ってました

 そのおばさんたちは隣の人を「ドン!」と押しのけたり、人の手元から豆の入った袋を「バッ」と奪い取ったりしている。

 気持ち良さそうに豆をまくセレブと、それに群がる一般人の阿鼻叫喚の図が……。踏まれたり押されたり豆の袋が目に入ったり、これで随分厄落としできたようです。

 やっぱ、そんな所へ行きたくないな。鬼になって豆を受けるのはいやだ。

2006年02月19日

'38 中国語学習で漢字を知る

第5回の続き】

 ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」
【読売新聞 06年2月18日朝刊(土曜日連載)】の第6回。

 1938年、16歳でコロンビア大学に入学したキーンさんは、何をどう学ぶかを教えてくれる尊敬すべき先生たちに出会う。高校時代の自信を喪失させられるようなことも経験したけれど、それによって文学や語学を学ぶ本来の姿勢を知ることにもなった。

 意外だったのは、キーンさんが初めて漢字を知ったのが、日本語ではなく中国語のものだったことだ。コロンビア大学で、李(Lee)という中国人と席が隣だったという偶然から、彼に中国語のレッスンを受けたのだ。ただ、当時キーンさんは、西洋の文化こそが世界の文化のもとであるかのように考えていたようだ。

 古典文学研究のクラスで読んでいる西洋の伝統的な名著が、全人類に共通な遺産であることを私は疑ってみたことがなかった。ほかの伝統もまた古典的名著を生み出しているなどとは、それこそ思ってもみなかった。

 つまり、こういうことだろうか。西洋だけが昔から高度な文化を持っていたのだと、そして、他の土地にはそれらは存在していないと思っていたということだろうか。もしそうだとしてもキーンさんだけが例外なのではなく、欧米の教育だけを受けてきた人なら、誰もがそう信じていただろう。現代でもそう考えている人もいるはずだ。後に、キーンさんはその考えにとらわれなくなっていくのだが、それはずっと先のことらしい。

 さて、李さんが最初に教えてくれた漢字は「一」である。そして「二」、「三」と続いた。

 二と三は似たようなもので覚えやすかった。四になると書くのが少し複雑になった。しかし、複雑になればなるほど、漢字を学ぶのがおもしろくなった。私が特に好きな漢字は、字画が多いものか、変わった形をしたものだった。それは言ってみれば、私が三角形の切手や変わった加刷を施した切手が好きであるのと同じだった。

 言語に対して好奇心と記憶力と理解力が突出していたキーンさんにとって、漢字はとても面白いものだったようだ。書道の本を見ながら、筆で漢字を書いたりもした。ただ発音はわからないままだった。

 ところで、キーンさんは子供の頃から、戦争になることに恐怖を感じていた。子供でもその気配を感じさせる世相だったのだろうか。コロンビア大学入学の翌年、1939年、ヨーロッパで戦争が始まる。

第7回へ続く】

【 目次は → こちら


★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て53年、
京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年02月17日

想像していただけないか

 先日、左目が見え難くくなっていることに気づいて検査に行ったら、「左右のコンタクトレンズが逆になっていますよ」と言われた。い、いつの間に…。子供の頃からそそっかしい。今までの人生で、数えきれないほど恥をかき、数え切れないほど謝り、同じ数だけ自己嫌悪に陥ってきた。ただ、弁解するわけではないけれど、人間ならば誰だって程度の差こそあれ、間違いをするはずだ。私ほどではないにしても。

 山本一力さんの「にこにこ貧乏」【週刊文春 2月23日号】に、羽田空港で搭乗ウイングを間違えてしまった話がある。チェック・インで預ける予定だった大きな荷物を抱え、反対側まで数百メートル歩かなければならなかった。カウンター係員に言わせれば「案内は掲示してあります」ということになる。そこで山本さんは航空会社にお願いがあるという。カウンターの隅にでもカートを置いて欲しいのだと。

「隣のウイングまでは、あのカートをご利用いただけます」
 勘違いした客は、胸のうちでおのれの不注意をののしりながらも、重たい荷物をズルズルとひきずらなくてもいい。
 今回の非は、誤った思い込みで動いた当方にある。が、いままで搭乗ウイングを間違えた旅客が皆無だったとは、とても思えない。
 勘違いしたほうに非があるとしても、だ。
 せめて、南から北まで荷物を運ぶのは大変だろうが、カートが一台あれば運ぶのも楽だろう……ぐらいは、想像していただけないか。

 「思いやり」というのは「想像力」なのだと思う。想像する力がないと本当のサービスもできない。誰もが間違わないという前提で、様々の規則やシステムを作っていたら、必ずやなんらかの支障が起こる。あるいは、掲示物が目にとまり難い位置にあるなどといった原因が、ミスを誘引している場合もある。

 ミスをしたほうが悪い、で済まされては進歩がない。お客さん相手の仕事だったら、「人間とはミスをするものだ。その傷を出来るだけ小さく解決するにはどうしたら良いか。お客さんにとってわかりやすくするにはどうしたら良いか」という観点で、いろいろな場面を想像していただけるとありがたい。ええ、ええ、わかってますとも。私も失敗しないように注意します。でも今までだって気をつけてはいたんですよ。ほんとなんですから。
のり at 10:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 山本一力

2006年02月15日

口、喉、胃で味わう人

 椎名誠さんの連載エッセイ「風まかせ赤マント」【週刊文春 2月16日号】が、777回目を迎えた。777という数字にこだわって、西暦777年の出来事やら郵便番号などまで持ち出し、だんだんとこんな調子になっている。

 ムカデの足の数は最大で三五四本だが、ヤスデはなんと七一〇本もあるのだ。七七七本に六七本足りないが七一〇本もあればいいではないか。

 自分からヤスデの足の本数について言い出しておいて、”710本もあればいいではないか”というところが、椎名さんらしくて好きだ。このエッセイは、「旅」、「食べる」、「遊ぶ」がキーワードだろうか。椎名さんは旅した先で、地元の人たちが普段食べているような庶民的な料理を食べるのが好きらしい。今回は取材の為、高松でうどんを食べ歩きしている。

 編集者と朝八時に有名なセルフうどん屋に行った。早朝六時からやっているのだ。打ちたてのをすぐ茹で、あつあつのうどんに生卵とトロロ芋。熱いダシ汁をかけて二五〇円。我を失うほどのうまさだ。

 テレビのグルメ番組で、レポーターが言う感想が口先だけに思えることが多い。口先だけの言葉という意味なのだが、実は、味も口(舌)だけで感じているのではないかという気がする。おちょぼ口に入れた途端「美味しい」という。

一方、椎名さんの文を読んでいていつも思うのは、ムシャムシャと身体全体で味わっている感覚が伝わってくる。たぶん料理を食べようとするとき、口を開くだけでなく、喉も胃ももう待ち構えているのではないだろうか、食べ物が通過するとき、口だけでなく喉も胃もちゃんと味わっているのではないか、そんな風に想像してしまう食べ方をする。

 ともあれ、777回というのは単純計算でも16年間以上の連載ということで、今までどれほどの料理が椎名さんの胃を通過していったのだろう。ありふれた言い方だけれど、お体を大切にしてずっとずっと連載を続けていただきたい。
のり at 15:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠

2006年02月13日

悩みが無さそうね

 悩みが無いことは喜ばしいことのはずなのに、人から「なんにも悩みが無さそうだね」と言われると、たいていの人はムッとする。「私だって悩みくらいある」と。そう、「悩みが無い人」という言い方には、「何も考えていないおめでたい人」とか「無神経な人」という意味が含まれているため、つい反論してしまうのだ。かといって、もちろん人は悩むことを望んでいるわけではない。お茶の水女子大の土屋賢二先生は「ツチヤの口車」【週刊文春 2月16日号】で、悩みについてこんな会話をしている。

 学生に言った。
「悩み相談室を開設しようと思っているんだ。何も悩まない君には関係ないが」
「わたしも悩んでいます」
「泥棒にも五分の魂だな」
「間違ってますよ。ことばづかいも言おうとしていることも」

 瞬時に的確な指摘が出来る学生さんは偉い。さすがツチヤ先生に日頃鍛えられているだけのことはある。ところで正しいことわざは何でしたっけ? そうそう「泥棒(盗人)にも三分の理」と「一寸の虫にも五分の魂」でしたね。まあそんなことはさておき、ツチヤ先生はこのエッセイの最後で、「自分の悩みの相談にのってほしくて相談室を開く」のだと白状している。それなのに、中年には悩みが無いとも主張する。自分の悩みだけ本物だと。

「だいたい若いころはどうでもいいことに悩むものだ。中年になったら悩まなくなる。何も悩まない中年女になりたいか」
「……いいえ」
「ほら悩むのは若さの特権なんだ。ニキビとか無知とか未熟と同じだ。自信を持って悩みなさい」
「中年の人はどうして悩まないんですか」

 ちょっと、ちょっと、学生さん! いつもツチヤ先生の話にことごとく反論しているのに、なんでそこだけ疑問に思わずスルーしちゃうかなあ? 「中年の人はどうして悩まないんですか」っていう質問、おかしいでしょう。でもまあ、若いから仕方がないか。ツチヤ先生がおっしゃるように”若いうちは自信を持って悩みなさい”ネ。
のり at 10:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 土屋賢二

2006年02月11日

16歳、コロンビア大学の講義

第4回の続き】

 ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」
【読売新聞 06年2月11日朝刊(土曜日連載)】の第5回。
 
 あまりに成績優秀で、何度か飛び級をしていたキーンさんは、1938年6月18日、まさに16歳の誕生日に、待ちに待ったコロンビア大学の合格通知を受け取った。しかも難関を突破して、ピュリツァー奨学生にも選ばれた。これは特に優秀な学生に対して、学費のみならずある程度の生活費まで提供されるもので、父親の援助があてにできないキーンさんにとって、コロンビア大学で学ぶためにはどうしても必要なものであった。

 羨ましいのは、キーンさんの記憶力が抜群であったというところだ。進学のための試験勉強で、得意でない数学でさえ教科書をほとんど暗記して、結果数学の天才と見なされていた学生たちよりも好成績だった。そういえば、教科書ごと頭に入ってしまう人がいるという話は聞いた事がある。別に覚えたくもないことまで丸ごと、まるで写真をとって脳に保存しておくみたいらしい。試験のときは、頭の中の教科書を繰っていれば良いのだから、なんて便利なんだろう。生まれつきなんだろうから、ただただ羨むばかりだ。

 さて、キーンさんは大学で、マーク・ヴァン・ドーレン教授の古典文学研究のクラスを受講する。この講義は課題と試験が繰り返され、大変厳しかったようだが、教授は、文学を学生たちに理解させることができる人であり、その授業の進め方は、後にキーンさんの日本文学の教師としての手本となる。

 教授が私たちに教えた一番肝心なことは、作品を読み、それについて考え、なぜそれらの作品が古典とされているかを自分で発見することだった。

 当時のアメリカには、今を知るために古典を研究するという動きがあったらしい。キーンさんが、日本の古典文学の研究をすることになる背景には、この講義で古典の重要性を身にしみて知ったからなのだろう。

 地下鉄で通学したということで、車内の描写も細かくされている。キーンさんの記憶の中では、教科書を丸暗記したときのように、頭の中に昔の情景や出来事が鮮明に残っているのだろうか。特別な人だと承知しているけれど、昔のことが霞のかなたのようにしか見えていない我が身が、なんとも情けなく思えてくる。

第6回へ続く】

【 目次は → こちら

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て53年、
京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年02月09日

自分の脳にまるで自信がない

 パズルに凝ったことがある。普通のクロスワードから始まって、ナンクロ、漢字、お絵描き・・・など様々なパズルをやった。中でも「ナンプレ」(Number Placeの略)または「数独(すうどく)」と呼ばれるパズルは好きだった。たとえば9×9のマスの表に、あるルールに従って1から9までの数字を入れるだけだ。これは知識も計算も必要なく、ちょっとした待ち時間にはぴったりなのだ。簡単なものから難易度の高いものまでかなり解いたし、ちょっとは自信があった。

 ところが、最近久しぶりにナンプレの問題を解いてみようとしたところ、途中で手がとまってしまった。それも難易度のマークが、かなり低い問題だった。「どうしたんだろう。そんなはず…ない。ウソだ」などと心の中で何度もつぶやいた。スラスラと解けるはずなのに、一体どうしたんだろう。鼻歌まじりに始めたのに、だんだんと変な焦りが出てきた。嫌な汗も出てきた。たかがパズルでこんな気持ちになったのは初めてだ。結局信じられないくらい時間をかけてやっと解けたものの、自信は消えうせ、心底ガッカリした。

 昔から記憶力は人一倍悪いので、それに関してはもともと自信がない。普通の人が老化現象で物覚えが悪くなるというところを、私の場合マイナスからスタートしているので、どこまでが「もともと」で、どこからが「衰え」なのかその境目がはっきりしない。ただ確かに芸能人の名前など固有名詞がパッと口に出なくなった。

 室井滋さんの「すっぴん魂」【週刊文春 2月16日号】に他人事ではないエピソードがあった。室井さんが喫茶店で、60歳近いと思われる奥様風の女性からじーと見つめられる。あとでわかるのだが、その女性は室井さんを知り合いの誰かだと思って、必死で名前を思い出そうとしていたのだった。ついに近づいてきて、名前を忘れてしまったことを何度も詫びながら、名前を尋ねてくる。

 私は彼女がどんどん情なさそうな顔になっていくのが気の毒になり、”自分は女優だ”という事と、”TVを熱心に見て下さると、身近に思いがちなもの”という事をお話した。
 女性は「あ〜ッ」と驚いて苦笑いを浮かべられたが、またすぐ元の泣き顔になった。

 この女性は、若い頃は記憶力では誰にも負けなかったのだと言う。ところが最近は、顔がわかっても名前が全く出てこなくなったのだと嘆くのだった。子育ても終り夫との単調な生活が脳に良くないのかと思い、買い物帰りに寄り道したりと変化をつけているのだそうだ。

「フフッ、嫌ね、齢を取るって。私、もう自分の脳にまるで自信がないんですもの」
 姿が美しく、若々しい人だっただけに、彼女のこの”自分の脳にまるで自信がない”という言葉は残酷に響いた。

 この女性は、室井さんの顔を見て名前が浮ばずに困っている時、きっと変な汗をかいたと思う。私にはなんとなくわかる。頭が真っ白になって「どうして思い出せないのだろう」と。そして、”自分の脳にまるで自信がない”ということになっていくのだ。ただ、その女性は若い頃は記憶力に自信があったという。その人でさえそうなるんだとしたら、いったい私の脳はどうなってしまうのだろう。
のり at 20:15 | Comment(2) | TrackBack(0) | 室井滋