2006年04月28日
2006年04月27日
今からなのに
熊崎敬さんの「熊さんのゴール裏で日向ぼっこ」【週刊文春 5月4.11日GW特大号】に、「最終回」とあった。「なんで?!」
サッカーファンでなくても、このエッセイは面白かった。熊崎さんが本当にサッカーが好きで、サッカー選手やサッカーファンを温かい視線で見ている姿がうかがえて、読んでいて楽しかった。特に外国のサッカーファンの思い入れは、熱心だからこそのユーモア溢れるシーンとなり、大いに笑えた。
最終回となってしまったその内容は、カズこと三浦和良選手への感謝の文となっている。最初の頃、カズのことが大嫌いだったという熊崎さん。当時、ワールドカップとは、日本代表が立てるような場所ではなく、むしろそれくらい神聖なものに感じていた。だから「違うよ。ワールドカップは出なきゃダメなんだ!」と言い放ったカズに、反感を持ったようだ。また、チャラチャラして振る舞いも気に入らなかった。ところが、やがてサッカーをまったく知らなかった人たちまでを巻き込んでいく。
今、熊崎さんは思う。カズのおかげで日本のサッカーは光輝いたと。そして日本代表がワールドカップに出場できるようになり、Jリーガーがもてはやされるようにもなった。選手はみな感謝しなきゃいけないと。そして熊崎さん自身も、サッカーが光を浴びたからこそ、今の仕事が出来ていることを感謝している。
最後は「あんな生き方、できたらいいな」と締めくくっている。きっと、好きなことに打ち込めて、楽しめる、そういう生き方がうらやましいのだろう。熊崎さんは、今、本当に自分のやりたい事を思い切りさせてもらえてないのかもしれない。ワールドカップの頃には、きっと熊崎さんらしい人間味溢れるレポートがたくさん読めると期待していた。だから、なぜ今この連載が終ってしまうのか、全然わからない。本当に今からなのに…。
サッカーファンでなくても、このエッセイは面白かった。熊崎さんが本当にサッカーが好きで、サッカー選手やサッカーファンを温かい視線で見ている姿がうかがえて、読んでいて楽しかった。特に外国のサッカーファンの思い入れは、熱心だからこそのユーモア溢れるシーンとなり、大いに笑えた。
最終回となってしまったその内容は、カズこと三浦和良選手への感謝の文となっている。最初の頃、カズのことが大嫌いだったという熊崎さん。当時、ワールドカップとは、日本代表が立てるような場所ではなく、むしろそれくらい神聖なものに感じていた。だから「違うよ。ワールドカップは出なきゃダメなんだ!」と言い放ったカズに、反感を持ったようだ。また、チャラチャラして振る舞いも気に入らなかった。ところが、やがてサッカーをまったく知らなかった人たちまでを巻き込んでいく。
カズは正しかったのだ。
その布教活動が薄っぺらく見えたのは、それが世間を巻き込むうえでもっとも効果があることを彼が知っていたからだ。それは世界一サッカーが大衆に沁みこんだ国、ブラジルで属った男だけができる発想と芸当だった。
今、熊崎さんは思う。カズのおかげで日本のサッカーは光輝いたと。そして日本代表がワールドカップに出場できるようになり、Jリーガーがもてはやされるようにもなった。選手はみな感謝しなきゃいけないと。そして熊崎さん自身も、サッカーが光を浴びたからこそ、今の仕事が出来ていることを感謝している。
本音をいえば、引退するときにカズにお礼をいいたかったけれど、僕の方が先にお役ご免になってしまった。伝道者としての重責から解き放たれたカズはいま、少年のように心からサッカーを楽しんでいる。あんな生き方、できたらいいな。
最後は「あんな生き方、できたらいいな」と締めくくっている。きっと、好きなことに打ち込めて、楽しめる、そういう生き方がうらやましいのだろう。熊崎さんは、今、本当に自分のやりたい事を思い切りさせてもらえてないのかもしれない。ワールドカップの頃には、きっと熊崎さんらしい人間味溢れるレポートがたくさん読めると期待していた。だから、なぜ今この連載が終ってしまうのか、全然わからない。本当に今からなのに…。
2006年04月24日
どんな大人になるのかな
宮藤官九郎さんの子育て記「俺だって子供だ!―35歳子育て苦行」【週刊文春 4月27日号】を読んでいると、赤ちゃんに振り回されている宮藤さんの姿を、いつも微笑ましく思ってしまう。宮藤さんの娘の「かんぱちゃん」(本名ではありませんよ)は、もうすぐ1歳になる。生まれたときから、ちょっと個性的な赤ちゃんのようだったけれど、いよいよはっきりと性格が見えてきたらしい。
昼寝中の宮藤さんの口の中に、かんぱちゃんが手を突っ込む。抜いても抜いても突っ込んでくる。
他の赤ちゃんの顔を平手で叩いてしまった。昨日まで気に入っていたオモチャに興味を示さなくなった、など、これらのいくつかのエピソードから、父親の目で、かんぱちゃんの性格を分析したもよう。
表現がオーバーです。奥さままで心配になって、女の子らしい仕草を教え込んでいるようですが、そんなに心配しなくても大丈夫、大丈夫。
…大丈夫、…だと思いますよ。
昼寝中の宮藤さんの口の中に、かんぱちゃんが手を突っ込む。抜いても抜いても突っ込んでくる。
子供の手でも手首まで入るとかなり苦しく、涙目になりながらも寝不足だったので寝る努力を続けました。しかし執拗に突っ込んで来る。その目があまりに真剣だったので最後は口を大きく開けて突っ込み易くしてあげました。なんて優しいんでしょう!
他の赤ちゃんの顔を平手で叩いてしまった。昨日まで気に入っていたオモチャに興味を示さなくなった、など、これらのいくつかのエピソードから、父親の目で、かんぱちゃんの性格を分析したもよう。
凶暴で飽きっぽくてしつこくて気が短い。総合的に見てこのまま育つと厄介な女になるのは間違いない。
表現がオーバーです。奥さままで心配になって、女の子らしい仕草を教え込んでいるようですが、そんなに心配しなくても大丈夫、大丈夫。
でも、奥さんは知りません。たまにかんぱが風呂場で僕のチンコを踏んだり蹴ったりする事を。もちろん真剣に叱りつけます。
…大丈夫、…だと思いますよ。
2006年04月22日
'45冬、ピンク色に染まった富士山
【第14回の続き】
ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第15回
【読売新聞 06年4月22日朝刊(毎週土曜日連載)】
1945年12月、日本へ来たキーンさんは、語学将校たちのいる有楽町へたどりつく。まず、捕虜や中国で知り合った日本人の家族を探した。彼らが無事であると伝えたかったのだ。会えた家族もいれば、会えなかった家族もいたという。夫や息子の生存を知らされたときの家族の様子が書かれていないので、そこを詳しく知りたい。どんなにか喜んだことだろう。
ある日、キーンさんは仲間とジープで日光へ見物に出かけた。道行く日本人たちは喜んで道を教えてくれ、子供たちは手を振って歓迎してくれた。宿に泊まった翌朝、うっすらと雪が積もっている中、歩いて東照宮へ行く。人けがなく雪化粧をしたそれはとりわけ美しく見えた。が、後年、訪れたときには日光は、キーンさんの思う日本美とはそぐわないものだったようだ。「ごてごてと飾り立てられた日光に、もはや魅力を感じなかったのだと思う」と表現されている。
キーンさんは、どこに行っても見知らぬ日本人たち誰からも親切にされた。日本人とアメリカ人は親しくしていたのだ。
言い換えるならば、戦争が無ければ友人になれる人同士でも、いざ戦争となれば殺し合わざるを得なくなる、ということにもなる。それにしても、日本人の変わり身の早さには、アメリカ軍も驚いたと、どこかで読んだことがある。日本本土を占領する過程で、どんなにかすさまじい抵抗があるやもしれぬと、相当な警備で上陸したものの、むしろ歓迎されて肩透かしをくったという。それまでの日本人の戦いぶりからみて、そう簡単に米軍を受け入れるとは思えなかったのも無理はないだろう。
さて、キーンさんは嘘の報告をして日本に滞在していたのだが、一週間経って、そろそろまずいかと思い始めたようだ。そこで、横須賀の司令部に行き、自分は勘違いしていたと報告した。そんないい加減な理由で軍が納得するものだろうか。が、すんなりと受理され、ホノルルへ帰ることとなった。
ついに日本を去るときがきた。早朝、船が動き出した。
【第16回へ続く】
【 目次は → こちら 】
★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て53年、
京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。
ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第15回
【読売新聞 06年4月22日朝刊(毎週土曜日連載)】
1945年12月、日本へ来たキーンさんは、語学将校たちのいる有楽町へたどりつく。まず、捕虜や中国で知り合った日本人の家族を探した。彼らが無事であると伝えたかったのだ。会えた家族もいれば、会えなかった家族もいたという。夫や息子の生存を知らされたときの家族の様子が書かれていないので、そこを詳しく知りたい。どんなにか喜んだことだろう。
ある日、キーンさんは仲間とジープで日光へ見物に出かけた。道行く日本人たちは喜んで道を教えてくれ、子供たちは手を振って歓迎してくれた。宿に泊まった翌朝、うっすらと雪が積もっている中、歩いて東照宮へ行く。人けがなく雪化粧をしたそれはとりわけ美しく見えた。が、後年、訪れたときには日光は、キーンさんの思う日本美とはそぐわないものだったようだ。「ごてごてと飾り立てられた日光に、もはや魅力を感じなかったのだと思う」と表現されている。
キーンさんは、どこに行っても見知らぬ日本人たち誰からも親切にされた。日本人とアメリカ人は親しくしていたのだ。
日本人がアメリカ人に、あるいはアメリカ人が日本人に抱く憎しみのかけらさえ私は感じたことがなかった。辛い戦争が終って、まだ四ヶ月かそこらしか経っていなかったのだった。どうすれば人間の気持ちがこんなにも早く変わってしまうことが可能なのだろうか。私は、不思議だった。しかし、たぶん友情が人間同士の抱く普通の感情で、戦争はただの逸脱に過ぎないのだろう。
言い換えるならば、戦争が無ければ友人になれる人同士でも、いざ戦争となれば殺し合わざるを得なくなる、ということにもなる。それにしても、日本人の変わり身の早さには、アメリカ軍も驚いたと、どこかで読んだことがある。日本本土を占領する過程で、どんなにかすさまじい抵抗があるやもしれぬと、相当な警備で上陸したものの、むしろ歓迎されて肩透かしをくったという。それまでの日本人の戦いぶりからみて、そう簡単に米軍を受け入れるとは思えなかったのも無理はないだろう。
さて、キーンさんは嘘の報告をして日本に滞在していたのだが、一週間経って、そろそろまずいかと思い始めたようだ。そこで、横須賀の司令部に行き、自分は勘違いしていたと報告した。そんないい加減な理由で軍が納得するものだろうか。が、すんなりと受理され、ホノルルへ帰ることとなった。
ついに日本を去るときがきた。早朝、船が動き出した。
デッキに立って、湾内を見渡していた時だった。目の前に突然、朝日を浴びてピンク色に染まった雪の富士山が姿を現した。それは日本との別れを告げるにあたって、あまりに完璧すぎる光景だった。眼を凝らして見ているうちに、富士は、徐々に色を変えていった。感動のあまり、私は涙が出そうになった。
かつて誰かが、私に言ったことがあった。日本を去る間際に富士を見た者は、必ずまた戻ってくる、と。それが本当であってほしいと私は思った。しかし、再び日本を見たのは、それから約八年後のことだった。
【第16回へ続く】
【 目次は → こちら 】
★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て53年、
京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。
2006年04月21日
桜の花に怯える人
決して嫌いではないけれど、桜の花は、私の心を緊張させる。他の花ではあり得ない気持ちになる。「綺麗だなあ」と思いながらも、心の片隅に何かがあって、手放しでその美しさを堪能できないでいる。特に夜桜は、たとえ写真でも怖い。何故なのか自分でも説明ができない。だが、実は、たまに同じようなことを感じる人がいる。
中村うさぎさんの「さすらいの女王」【週刊文春 4月27日号】を読んだら、うさぎさんもその一人だった。(ここで女王様とは中村うさぎさん自身のことです)
うさぎさんは、桜の花見について調べ、それが豊穣を祈る宗教的儀式の名残だと知る。それでも花見の宴を好きになれない。
私が桜を怖く思う漠然とした感情と違って、うさぎさんには、もっと何かが見えているようだ。
中村うさぎさんの「さすらいの女王」【週刊文春 4月27日号】を読んだら、うさぎさんもその一人だった。(ここで女王様とは中村うさぎさん自身のことです)
もしかしたら女王様は、桜が嫌いなのかもしれない。はらはらと舞い散る花びらを美しいとは思うけれども、同時に胸の底が冷え冷えと苦しい気分になるからだ。あんな憂鬱な樹の下で、わいわいと酒を酌み交わす気にはなれん。桜の花は、ひとり仏頂面で眺めるもんだと思っている。
うさぎさんは、桜の花見について調べ、それが豊穣を祈る宗教的儀式の名残だと知る。それでも花見の宴を好きになれない。
本当は、桜の樹におわす神は、豊穣の神ではなく、もっと怖ろしい神なのではないか。人は、その神が指し示す死と破滅の深淵から目を逸らすために、とことん乱痴気騒ぎを繰り広げ、背筋を這い上がってくる冷たい恐怖を紛らわせているのではないか。
私が桜を怖く思う漠然とした感情と違って、うさぎさんには、もっと何かが見えているようだ。
2006年04月18日
電話が鳴っている
電話をかけるとき、今は相手にとって都合の悪い時間帯ではないかと迷う。なるべく「今、大丈夫?」などと尋ねるようにしているけれど、相手も無理して「大丈夫」などと言っているかもしれない。そんなことを考えてしまうので、事務的な用件は別として、普通のおしゃべりの電話はなかなか自分からはできないでいる。
また、電話の呼び出し音を聞くと、何をしている最中でも、とるものもとりあえず、早く出なくては、と急いでしまう。「はい、はい、はい」などと聞こえるはずもない返事しながら、気ぜわしい。こういう人は珍しくないようで、高島俊男さんの「お言葉ですが…」【週刊文春 4月20日号】の中に、似たような様子が書かれていて可笑しかった。
それと、食事中も口の中に食べ物があるので困る。そして、もっともタイミングの悪いのがトイレに入っているときだ。
そ、そこまでしなくても…。でも、気持ちはわかる。重大な急用かもしれないのだ。ベルの音が「早く、早く」とせきたてる。
私も、やっちゃいそう…。
また、電話の呼び出し音を聞くと、何をしている最中でも、とるものもとりあえず、早く出なくては、と急いでしまう。「はい、はい、はい」などと聞こえるはずもない返事しながら、気ぜわしい。こういう人は珍しくないようで、高島俊男さんの「お言葉ですが…」【週刊文春 4月20日号】の中に、似たような様子が書かれていて可笑しかった。
電話にでにくいばあいはいろいろある。たとえばふろにはいろうとしてすっかり裸になった時に鳴り出す。あわてて駆けつけて取る。はじめのうちはまだしも、二分三分とたつと寒くてガタガタふるえ出す。相手は平気でしゃべっている。手がとどけば殺してやりたい、と思う。
それと、食事中も口の中に食べ物があるので困る。そして、もっともタイミングの悪いのがトイレに入っているときだ。
飯よりいっそうぐあいがわるいのが小便である。出かけたところへ鳴り出す。
小便をしはじめてからしおわるまでは、あれでなかなか時間がかかる。やむなく小便を無理に中途でとめて電話にかけつける。
そ、そこまでしなくても…。でも、気持ちはわかる。重大な急用かもしれないのだ。ベルの音が「早く、早く」とせきたてる。
何かで見た話。――近くで火事がおきたので急いで家財を持ち出していたところへ電話が鳴った。おっさんあわてて荷をおろして受話器を取った。「はい、もしもし…」。
私も、やっちゃいそう…。
2006年04月15日
収容所で日本人捕虜担当、ケーリ氏死去
【第14回の続き】
先ほど、ドナルド・キーンさんの「私と20世紀のクロニクル」について書きましたが、直後にネットでこの記事を目にしました。
ケーリさんと言えば、 「私と20世紀のクロニクル」(3月25日)の、アッツ島でのことが印象的でした。
日本を愛してくださったケーリさんのご冥福をお祈り申し上げます。
キーンさんも、さぞかし気落ちされていることでしょう。
頑張っていただきたいです。
【第15回へ続く】
【 目次は → こちら 】
先ほど、ドナルド・キーンさんの「私と20世紀のクロニクル」について書きましたが、直後にネットでこの記事を目にしました。
オーテス・ケーリ氏(同志社大学名誉教授)14日、肺炎のため、米カリフォルニア州オークランド市の高齢者施設で死去。84歳。後日、日本で記念礼拝を行う予定。
北海道小樽市で宣教師の家庭に生まれた。戦時中はハワイの米海軍捕虜収容所長として、日本文学者のドナルド・キーン氏と共に日本人捕虜を担当。戦後再来日し、同大アーモスト館長(1947〜80年)などを務めた。
(2006年4月15日22時5分 読売新聞)
ケーリさんと言えば、 「私と20世紀のクロニクル」(3月25日)の、アッツ島でのことが印象的でした。
日本人捕虜は二十九人だけだった。一人は小樽出身だった。簡単な尋問をした後、ケーリはその捕虜と懐旧談にふけった。小樽について話せる相手が見つかって、ケーリはすごく幸せそうだった。小樽は、どんなアメリカの町にも増してケーリの本当の故郷だったのだ。
日本を愛してくださったケーリさんのご冥福をお祈り申し上げます。
キーンさんも、さぞかし気落ちされていることでしょう。
頑張っていただきたいです。
【第15回へ続く】
【 目次は → こちら 】
'45 青島の腐敗と戦犯調査
【第13回の続き】
ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第14回
【読売新聞 06年4月15日朝刊(毎週土曜日連載)】
1945年9月末キーンさんたちはグアムを出発し、青島(チンタオ)に到着する。ここで日本軍司令部を訪れる場面があるのだが、「青島の日本人は、まだ正式には降伏していなかった」という意味が、不勉強な私にはわからない。8月15日を境に、日本兵は立場が一転したものだとばかり思っていたので、次の記述が不思議に思える。
キーンさんが初めて人力車に乗るはめになったときの様子が、その人柄を表している。
「同じ人間に車を引かせているのを恥ずかしく思い」という、こういう感覚を持っている人が私は好きだ。青島は、こんなキーンさんを、数週間で不愉快な気持ちにさせてしまった。アメリカ水兵たちに、この上なく醜く卑猥な品物を売りつける中国人たち。実はアヘンを密売している反アヘン同盟会長。日本人たちに、無事帰国出来るよう取り計らってあげると言って、代償としてもらった美術品をコレクションしているアメリカ人将校。いたるところに腐敗が蔓延していたのだ。
また、密告者たちも列をなすほどいた。そして、一番苦痛だったのが、戦争犯罪人の取り調べだった。日本軍の残虐な行いを聞かされた。ここの部分は人間として、読むだけでも辛い。
そんな中国から逃げるように、キーンさんは帰国の許可を申請した。それが受け入れられ、青島から上海を通って日本へ向かう。飛行機から見る日本は、信じられないほど緑が豊かだった。樹木がめったに見えない中国とはまったく違う景色だったのだ。
厚木に着いたキーンさんは、「貴官は原隊に復帰せよ」という命令書を提示し、自分の原隊は横須賀にあると嘘をつく。自分の原隊がハワイにあるにもかかわらず、どうしても日本を見たかったからだ。いくら戦争が終った後とはいえ、そんな嘘が通用するものなのだろうか。…不思議なことに通用したようだ。ジープに乗って東京へと向かうが、都心に近づくにつれてまともな建物がなくなっていく。爆撃で荒れ果てた姿は、想像を超えたものだった。
【ケーリ氏の「訃報」へ続く】
【 目次は → こちら 】
★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て53年、
京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。
ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第14回
【読売新聞 06年4月15日朝刊(毎週土曜日連載)】
1945年9月末キーンさんたちはグアムを出発し、青島(チンタオ)に到着する。ここで日本軍司令部を訪れる場面があるのだが、「青島の日本人は、まだ正式には降伏していなかった」という意味が、不勉強な私にはわからない。8月15日を境に、日本兵は立場が一転したものだとばかり思っていたので、次の記述が不思議に思える。
青島にいる日本軍の将校は今なお事務所を占領していたし、ほとんど何も変わっていないように見えた。彼らは私を礼儀正しく扱ったばかりか、愛想も良かった。戦争は、終ったのだ。お互い、友人であっていけないということがあるだろうか。
キーンさんが初めて人力車に乗るはめになったときの様子が、その人柄を表している。
車夫にとって楽だろうと思って、私は出来るだけ前かがみになった。これは実は、最悪の座り方だった。奥深くゆったり座った方が、車夫には楽なのだった。同じ人間に車を引かせているのを恥ずかしく思い、私は強く握った手すりに爪を食い込ませていた。
「同じ人間に車を引かせているのを恥ずかしく思い」という、こういう感覚を持っている人が私は好きだ。青島は、こんなキーンさんを、数週間で不愉快な気持ちにさせてしまった。アメリカ水兵たちに、この上なく醜く卑猥な品物を売りつける中国人たち。実はアヘンを密売している反アヘン同盟会長。日本人たちに、無事帰国出来るよう取り計らってあげると言って、代償としてもらった美術品をコレクションしているアメリカ人将校。いたるところに腐敗が蔓延していたのだ。
また、密告者たちも列をなすほどいた。そして、一番苦痛だったのが、戦争犯罪人の取り調べだった。日本軍の残虐な行いを聞かされた。ここの部分は人間として、読むだけでも辛い。
そんな中国から逃げるように、キーンさんは帰国の許可を申請した。それが受け入れられ、青島から上海を通って日本へ向かう。飛行機から見る日本は、信じられないほど緑が豊かだった。樹木がめったに見えない中国とはまったく違う景色だったのだ。
厚木に着いたキーンさんは、「貴官は原隊に復帰せよ」という命令書を提示し、自分の原隊は横須賀にあると嘘をつく。自分の原隊がハワイにあるにもかかわらず、どうしても日本を見たかったからだ。いくら戦争が終った後とはいえ、そんな嘘が通用するものなのだろうか。…不思議なことに通用したようだ。ジープに乗って東京へと向かうが、都心に近づくにつれてまともな建物がなくなっていく。爆撃で荒れ果てた姿は、想像を超えたものだった。
【ケーリ氏の「訃報」へ続く】
【 目次は → こちら 】
★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て53年、
京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。
2006年04月13日
ギエン監督の問題発言癖
李啓充さんは怒っている。大リーグコラムニストの李啓充さんは、ホワイトソックスのオジー・ギエン監督の、日本代表チームに対するこの発言に怒っているのだ。
大リーグの史上最弱チームといわれたのが1962年のメッツで、その成績は40勝(120敗)だったという。主砲もエースも不在、エラーや珍プレーの連発で、監督を「このチームに誰か野球のできるやつはいないのか」と嘆かしめたそうだ。だから、李さんに言わせれば「ギエンの”20勝”という評価がどれほど日本チームを馬鹿にしたものであるか」ということになる。
実は、このギエン監督という人物、現役時代から問題発言癖がある。今年の2月にもヤンキースのA―ロッドを「偽善者」呼ばわりして物議をかもしたため、記者会見まで開いて謝罪したばかりだという。
ギエン監督とは、そんな人間なのだと充分承知したうえでも、李さんは怒りが収まらない。ハーバード大学医学部助教授という職を投げうって、大リーグコラムニストになった李さんであるが、こうなったら日本代表チームの実力をメジャーで示して欲しいと願っている。最終的には、ワールドシリーズ制覇を夢見ているようだ。
ところで、ギエン監督と対照的な発言をした大リーグ選手がいるそうだ。自らもWBCに出場して、日本チームの基本に忠実なプレーを認めている。
ニューヨーク・ヤンキースのデレク・ジーターだ。知性と品格が違います。さすが!
「WBCに勝ったからといって強いと勘違いしてほしくない。日本代表チームが大リーグで1シーズン闘ったとして、どこの地区でも最下位は決まりだし、勝ってもせいぜい20勝がいいところ」
大リーグの史上最弱チームといわれたのが1962年のメッツで、その成績は40勝(120敗)だったという。主砲もエースも不在、エラーや珍プレーの連発で、監督を「このチームに誰か野球のできるやつはいないのか」と嘆かしめたそうだ。だから、李さんに言わせれば「ギエンの”20勝”という評価がどれほど日本チームを馬鹿にしたものであるか」ということになる。
実は、このギエン監督という人物、現役時代から問題発言癖がある。今年の2月にもヤンキースのA―ロッドを「偽善者」呼ばわりして物議をかもしたため、記者会見まで開いて謝罪したばかりだという。
ギエン監督とは、そんな人間なのだと充分承知したうえでも、李さんは怒りが収まらない。ハーバード大学医学部助教授という職を投げうって、大リーグコラムニストになった李さんであるが、こうなったら日本代表チームの実力をメジャーで示して欲しいと願っている。最終的には、ワールドシリーズ制覇を夢見ているようだ。
ところで、ギエン監督と対照的な発言をした大リーグ選手がいるそうだ。自らもWBCに出場して、日本チームの基本に忠実なプレーを認めている。
「やるべきことをきちんとやったチームが勝つのは当たり前。90年代後半、ヤンキースがワールドシリーズに勝ち続けたのも、やるべきことをきちんとやったから」
ニューヨーク・ヤンキースのデレク・ジーターだ。知性と品格が違います。さすが!
2006年04月12日
サウナに帽子
椎名誠さんは、海外のサウナを体験している。(「風まかせ赤マント」【週刊文春 4月13日号】)シベリアのサウナは2回入っている。一回目は、水風呂代わりに、外で身体を冷やすものだった。
あとは、冷たさと熱さとの限界まで耐えることを交互に繰り返し、最後にビールを飲む。これって、心臓とかに悪そう。2回目のシベリアでは、外に出るサウナではなかったが、面白い風習が見られた。現地の人は、タオルの代わりに帽子をかぶってヴェニクという体を叩く木の枝を持っている。(何のために枝で体を叩くのかは書いてなかった。)
次は、ラオスの薬草サウナ。これは、初めはぬるく感じるのに、じわじわと温まり、大量の汗が流れてきて、何やら薬草が効いてきているような気がしたそうだ。薬草の香りがするのだろうか? これなら私もちょっと体験してみたい。
韓国のサウナでは、韓国の人の体格が良いことに驚いている。前を隠さず、ロッカーの鍵を足首にくっつけるのがコリア式で、鍵を手首につけてタオルで前をかくしている日本人は目につくとか。お国柄が違うとちょっとしたことも違いますね。
モンゴルのサウナは、草原の川のそば。
しぶといのは人間ではなく、椎名さんですよね。
マイナス40度の外に出ていくと全身からもの凄いいきおいで湯気がわきあがり、オレの体にこんなに湯気があったのか! と驚きかつ感動する。濡れたタオルなど持って出るとたちまちパキンパキンになってしまい体を傷つけたりするから全身スッポンポンのほうがいい。
あとは、冷たさと熱さとの限界まで耐えることを交互に繰り返し、最後にビールを飲む。これって、心臓とかに悪そう。2回目のシベリアでは、外に出るサウナではなかったが、面白い風習が見られた。現地の人は、タオルの代わりに帽子をかぶってヴェニクという体を叩く木の枝を持っている。(何のために枝で体を叩くのかは書いてなかった。)
スッポンポンに帽子と木の枝だけというのが面白い。帽子は耳や頭がやけるのをふせぐためだろう。(略)サウナから出ると肩や腰に白いシーツをまきつけてローマのネロ皇帝のような格好をしてくつろぐ。タオルを一切つかわない、というのが面白かった。
次は、ラオスの薬草サウナ。これは、初めはぬるく感じるのに、じわじわと温まり、大量の汗が流れてきて、何やら薬草が効いてきているような気がしたそうだ。薬草の香りがするのだろうか? これなら私もちょっと体験してみたい。
韓国のサウナでは、韓国の人の体格が良いことに驚いている。前を隠さず、ロッカーの鍵を足首にくっつけるのがコリア式で、鍵を手首につけてタオルで前をかくしている日本人は目につくとか。お国柄が違うとちょっとしたことも違いますね。
モンゴルのサウナは、草原の川のそば。
ただもう熱く蒸した部屋があるだけで、人によっては目の前の川に入って体を冷やすが、川にはひっきりなしに牛や馬の糞が流れてくるのでタイミングが難しい。馬糞は形が崩れてもまだ固まりを保っているが、牛糞は水にとけてくるので大量のそれが通過したあと臭いで気がつくということになる。慣れればこれも楽しくなってくるから人間というのはけっこうしぶとい。
しぶといのは人間ではなく、椎名さんですよね。
