2006年07月31日

'57 国際ペンクラブ東京大会

第27回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第28回
【読売新聞 2006年7月29日朝刊(毎週土曜日連載)】

 1957年、東京と京都で国際ペンクラブ大会が開催された。開催地がヨーロッパではなく、めったに訪れることのない魅惑的な日本だという理由で、ふだん出席しないような有名な作家たちが参加した。アメリカ代表の一員として選ばれたキーンさんは、唯一日本語を話すことが出来たため(いや、だからこそ選ばれたというのだが)、日本滞在中、質問攻めにあったり、京都で他の作家たちを名所案内したりと、大活躍だった。

 作家たちは、日本人記者たちの何度も繰り返される同じ質問にていねいに答えていたそうだが、それらの質問には、現代の私からみても、コンプレックスが感じられる。それでいて、外国から認められたいという期待も含んだ質問なので、きっと作家たちも答え難かっただろう。

 日本人記者の一人、高橋潭(たん)さんは、昔ハワイで捕虜だったとき、キーンさんの尋問を受けていた。私にとっては不思議な感じを受けるのだが、キーンさんは何人かの日本人捕虜たちと戦後も個人的に交流を持っていた。高橋さんとも日本で何度か会っていたそうだ。

 ハワイの捕虜収容所でのある出来事が、お互いの思い出となっていた。ある捕虜がクラシック音楽を聴きたいと熱望した。キーンさんは自分の判断で、捕虜収容所に蓄音機とレコードを持ち込んだ。一曲目は日本の歌謡曲、次にベートーベンの第三シンフォニー「英雄」をかけた。

 そこは捕虜収容所のシャワールームで、レコードは見事に響き渡った。最初のうち音楽を聴きながら、私は捕虜たちの顔に浮んだ表情を観察せざるを得なかった。私が感じたのは、国籍の違いや戦争を越えて、音楽が私たちを一つに結びつけたということだった。しかし、やがて演奏に我を忘れた私は、ほかのことが何も考えられなくなった。

 キーンさんは、本当に音楽に酔い痴れていったのでしょう。後に、捕虜の高橋さんがこのことを記事に書いたのだが、それによれば、キーンさんが「英雄」を選んだ目的を当初あれこれ考えていたそうだ。いろいろと詮索したみたものの、結局は、「ただ音楽を一緒に楽しむこと」が目的だと判断したとか。それほどキーンさんは、心底音楽を楽しんでいる表情をしていたのではないだろうか。

 このペン大会は、キーンさんにとっては正式な作家の仲間入りが出来たという意味を持ち、なによりも、日本文学を世界文学に不可欠なものをして認めさせる一つの要因にもなったという。

 今一つの要因は、自分で言うのも憚られるが、すでに触れた一九五五年から五六年にかけて私が編纂した「日本文学選集」全二巻の刊行だった。

 キーンさんはビギナーズラックと謙遜しているが、収録に選んだ作品が適切だったと今も思うそうだ。もっと年数をかけたなら、もっと良いものが出来たに違いないと言いつつ…、

 しかし五十年後の今日でも、この選集は日本文学を教えている西洋の大学ならどこでも授業で使われている。

 と、ちょっと誇らしげだ。いや、もっともっと誇って良い。今でも、西洋の国々で日本文学に興味を持った人々に、日本文学の魅力を知らせる道しるべとなる本を作ったのだから。

第29回へ続く】

【 目次は → こちら


☆ キーンさんの原文(英文)は『DAILY YOMIURI ONLINE』
 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/)で、ご覧になれます。

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て
53年、京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年07月28日

おむすび顔とヘルメット

 大リーグでは、サヨナラ本塁打を打った選手がホームインする直前にヘルメットを投げることがはやっているそうだ。李啓充さんの「大リーグファン養成コラム」【週刊文春 2006年8月3日号】にそう書いてあった。そのきっかけとなったエピソードが面白い。

 サヨナラ本塁打を打ってホームインするとき、チームメイトたちから手荒な歓迎をされる。すなわち頭をポコポコと叩かれる。いつも思うのだが、あれが味方の選手で、笑いながら叩くから喜びの表現とわかるけれど、もしあれが敵の選手で、同じくらいの強さで叩いたら、絶対に暴力に見えるし、叩かれた方も怒るに違いない。

 まあ、ヘルメットをかぶっているのだから、それほど痛くはないようだが、実は、それによって10日間も頭痛に悩まされた選手がいたそうだ。レッドソックスのデイビッド・オーティース(DAVID ORTIZ)だ。彼が、このヘルメット投げを流行らせた張本人だという。オーティースの顔は、(李さん言うところの)南伸坊張りのおむすび顔。

 普通の形の頭だったら、殴られた衝撃をヘルメットが吸収するはずなのだが、オーティースの場合は、おむすび顔の三角形の頂点に丸いヘルメットが乗っているために、逆に、殴られた衝撃が、揺れるヘルメットのせいで増幅されるようなのである。

 それが頭痛の原因らしいのだ。そこから李さんの仮説なのだが、

「サヨナラ本塁打を打つたびに何日も頭痛に苦しめられるのではたまらない。ヘルメットをかぶっていなければ、手加減した殴り方に変わるのではないか?」と、以後、オーティースは、自分の身を守るために、ホームイン直前にヘルメットを投げ捨てるようになった。

 それをだんだんと他の選手も真似して、定着したというのだ。オーティースがヘルメットを投げるきっかけについては、とっても説得力がある。ただ他の選手はなぜ真似をしたのだろう。放り投げる姿が格好良かったのでしょうか。

 5月、レンジャースのフィル・ネビンが同じようにヘルメットを投げたとき、解説者はこう言ったそうだ。「なんと、心優しい選手でしょう。チームメートの手が痛くならないよう、ヘルメットを投げ捨てました」と。真相は、当の選手に聞いてみなければわかりませんね。
のり at 18:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李啓充

2006年07月27日

鼻で呼吸

 毎日蒸し暑くて、身体の内部に熱がこもっているのがわかる。こんなときは、冷たいものを飲んだりするより、熱いものを食べたり、入浴して、気持ち良い汗をかくほうが後味が良かったりする。山本一力さんがホットヨガの体験を「にこにこ貧乏」【週刊文春 2006年8月3日号】に書いている。室温40度の中で90分のヨガをするのだという。

「汗がいっぱい落ちる」は割引した表現だった。
 いっぱいではない。玉の汗が、粒のまま落ちる。フロントで貸してもらったバスタオルが、汗を吸い込んで重たい。絞れば、したたり落ちるほどにタオルが汗を吸っていた。

 爽快だったそうだ。私も機会があったらやってみたいようでもあり、体力的に少し怖いようでもある。

 さて、ここでインストラクターから「鼻で呼吸するように」と言われ続けたそうだ。そのときは理由はわからなかったが、その後、歯医者でも鼻呼吸の大切さを教えられた。「超高性能のフィルターの鼻から息を吸い込んでいれば、有害な雑菌を除去できます」とのことだ。そういえば、口で呼吸すると風邪を引きやすいと聞いたことがある。

 でも、気がつくとポカンと口が半開きになっている私。きっと眠っているときもそうだろう。喉が弱いのもそのせいに違いない。だからといって、眠っている間のことまでコントロールできない。そこで良い方法を山本さんが書いている。医療用の紙テープ(幅2センチ)を10cmに長さに切って、口をふさいで寝ると良いらしいのだ。山本さんの奥様は、それだけで鼾までおさまったという。

 他にもいろいろと効用があるということで、その翌日から、山本家全員が紙テープで口をふさぎ始めたとか。実際試してみると、全然息苦しくないそうだ。本当かなあ? だったら、これからの本格的な夏を元気に乗り切るためにも、鼻呼吸をしながら汗をかいてみようかしらん。

★やまもといちりき
1946年高知県生まれ。
会社員を経て2002年『あかね空』で第126回直木賞を受賞。
『オール読物』での連載をまとめた幕末時代小説『背負い富士』が好評発売中です。
===欄外より===
のり at 15:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 山本一力

2006年07月23日

隠退していたグレタ・ガルボと共に

第26回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第27回
【読売新聞 2006年7月22日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんは、東京でバワーズ夫妻と出会う。夫のフォビアンは、戦後の歌舞伎を救った人物として有名だという。確かに、戦後、歌舞伎を救ってくれたアメリカ人が居たという事は聞いたことがある。それがフォビアンだったのか。歌舞伎の中で演じられる仇討ちなどといった封建的と思われることに対して、占領軍が拒否反応を起こし公演が禁じられていた中で、彼がその芸術性を訴え尽力してくれたお蔭で、上演が許可されるようになったという話だったかと思う。そのフォビアン・バワーズは、キーンさんに歌舞伎の切符を手配し、かつ多くの歌舞伎役者たちを紹介してくれたという。

 キーンさんとバワーズ夫妻はとても気が合い、ニューヨークへ戻ってからも頻繁に会うようになる。キーンさんはコロンビア大学で日本の文学と歴史を教える準備をしながら、太宰治の『斜陽』の翻訳と忙しかったのにもかかわらず、バワーズ夫妻が用意してくれた芝居やオペラ、名士のパーティーなどに出かけた。そこで会った名士の中で、最も忘れ難い人物は、グレタ・ガルボだった。ある日、知人に頼まれて彼女を芝居に連れて行くことになった。

 ガルボは、だいぶ前に隠退していた。しかし彼女は、今なお最高の映画女優として人々の記憶に残っていた。

 彼女は人目を気にしなくてはならなかったのだ。

 開演前、ガルボはほとんど口を利かなかったし、休憩時間はプログラムで顔を隠していた。芝居が終わる直前に私たちが劇場を出たのは、皆の視線を浴びるのを避けるためだった。劇場から出て、私たちはちょっとの間、タクシーを待った。通り過ぎる車の運転手たちはガルボに気づき、あの有名な顔をよく見るために車を止めたのだった。

 名士の集まりの中で、キーンさんは皆から関心を持たれた。それは”日本”が人気の的となっていたからだった。日本文化は中国の模倣だと決め付けていた彼らの考えに変化が現れてきていたのだ。ニューヨーク近代美術館での日本家屋の再現、国宝の展示、「羅生門」に始まる日本映画の流行などがそのきっかけとなったようだ。各出版会社も日本文学の翻訳に関心を持ち始めた。

 ふつうであれば日本文学の教授に何を話しかけていいか戸惑うカクテル・パーティーの参加者たちも、日本が流行の先端となったからには私を質問攻めにせざるを得なかった。

 1955年、日本を離れるとき、金銭的にもう二度と日本を訪れることはないだろうと、とても辛かったそうだ。

 飛行機の中で私は永井荷風の「すみだ川」を読み、その美しい日本語に涙が出そうになった。

 日本との別れに感傷的になっていたキーンさんだったが、日本との縁は決して切れることがなかった。毎年最低でも1ヶ月は日本に滞在できるようになったのだ。

第28回へ続く】

【 目次は → こちら


☆ キーンさんの原文(英文)は『DAILY YOMIURI ONLINE』
 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/)で、ご覧になれます。

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て
53年、京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年07月20日

いたわって欲しいけど

 電車で席を譲ってもらったら、誰でも喜ぶかと思いきや、「そんな年寄りに見えるのか」とショックを受ける人もいる。61歳の土屋賢二先生が、「ツチヤの口車」【週刊文春 2006年7月27日号】で、「六十歳以上は五パーセント割引」というある食堂のサービスを喜べないといっている。老人割引というものが少しも名誉なことではないからだというのだ。

 関西人に聞いたところ「五パーセントでも三パーセントでも結構な話だ。もしハゲ割引があったらハゲの関西人はみんな喜んでサービスを受ける」と言う。信じられないことだが、関西人は老化もハゲも名誉なことだと思っているのだ。
 関西人はどうでもいい。もともと理解を超えているのだ。問題は自分自身だ。

 そんなことを考えているうちに、ツチヤ先生は、いたわって欲しいのか、うやまって欲しいのかわからなくなっていく。いたわって欲しいけれど、いわわられると戸惑う。

 言われてみれば、女性割引やタイムサービスなどのサービスなら、問題なく受けられるけれど、自分への評価にかかわってくるサービスとなったら、ややこしくなる。もしも「体脂肪三十パーセント以上は割引」なんてのに当てはまっても、確かに嬉しくない。「六十歳以上割引」というのも、ツチヤ先生にしてみれば、それに近いものなのだと言う。いやいや、やはり違うでしょう。六十歳以上割引には、いたわりとうやまいが込められている、…はず…です。

★つちやけんじ 1944年生まれ。お茶の水女子大学教授。
待望の新刊『貧相ですが、何か?』、一部の反対を押し切って刊行。
早くも絶版か? 贈答に、鍋敷きに、食べ過ぎに!
===欄外より=== 
のり at 15:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 土屋賢二

2006年07月19日

永井道雄、嶋中鵬二から広がる交友

第25回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第26回
【読売新聞 2006年7月15日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんは、演劇を研究するグループに参加した。戦後、日本人は伝統芸能に背を向ける傾向があったようだ。日本人は、戦争に負けたことで過去の日本にかかわるすべてに対して自信をなくしたのだろうか。能、文楽などの演劇の世界だけでなく、文学界にも、絵画の世界にもその流れがあった。

 俳句を二流の芸術と決めつけた桑原武夫の有名な論文は、多くの俳人に俳句を捨てさせたばかりでなく、歌人に短歌を断念させた。また、日本画は、どんな流派であれ単なる装飾として斥けられた。

 過去を捨てて、新しいものに価値を見出そうとしていた時代だったのかもしれない。だが、それは能や文楽や俳句などが廃れてしまうことのようにもみえた。キーンさんはそれを危機と捉えた。

 日本の伝統を活性化させる試みとして、衆目の期待を一身に担っているかのように見えたのは、木下順二の「夕鶴」だった。それは現代劇としてのみならずオペラとして、また能としても成功していた。

 永井道雄の紹介で、中央公論社の嶋中鵬二と出合う。嶋中は常にキーンさんの研究テーマなどにふさわしい人物を紹介してくれた。その中の一人が木下順二だった。この出会いも有意義なものだった。

 嶋中の勧めで、1955年には『中央公論』に6本、『婦人公論』にも1本の原稿を日本語で書いた。これらがのちに『青い目の太郎冠者』という本となった。序文は谷崎潤一郎が書いたという。

 京都での一年目が楽しかったので、ケンブリッジに、もう一年日本に滞在する許可を求めたが拒否された。ただ、コロンビア大学からも誘いを受けていたので、その条件を伝えると認められた。これでケンブリッジを辞めることとなった。2年目の京都は、ますます充実したものになった。

 私は「日本文学選集」全二巻を編纂し、この選集は日本文学を学ぶ次の世代の外国人研究者たちに、かなりな影響を及ぼすことになった。私は多くの日本の作家と出会い、現代文学を初めて幅広く読んだ。

 三島由紀夫とは彼の死まで続いた。谷崎潤一郎の家で夕食を共にした志賀直哉。その晩の彼との会話を書き留めて置かなかったことを、キーンさんは悔やんでいる。まさか忘れるなんて思わなかったのだそうだ。いったいどんな会話だったのだろう。

第27回へ続く】

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 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/)で、ご覧になれます。

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て
53年、京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年07月18日

観客が三島由紀夫…

第24回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第25回
【読売新聞 2006年7月8日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんは、雑誌『文学』の玉井編集長から、『日本文学の古典』という本の書評を依頼されたが、読んでみて愕然とする。この本は、なんと日本の古典文学をマルクス主義の観点から論じていたものだったからだ。

 この本が「古今集」に触れていないのは、それが貴族によって書かれたもので民衆の手で書かれたものではないからだった。「源氏物語」は、支配階級の矛盾を暴露した作品として取り上げられていた。他の作品が称賛もしくは貶される基準は、すべて「民主的」であるかどうかに掛かっていた。

 キーンさんの書評が厳しいものになったのは想像に難くない。数ヶ月後、『日本文学の古典』の3人の著者のうちの1人からの反論と共に、雑誌『文学』に掲載された。その反論までも、マルクス主義的言葉遣いだったようだ。キーンさんを「貴族的プチブル的腐敗した西洋人」と非難していたというのだから…。

 さて、キーンさんは、日本の文化をより理解するため、伝統芸能、なかでも狂言を学びたいと思った。縁あって、大蔵流の京都宗家にその話が伝わり、狂言を学ぶ初めての外国人ということで、子息の茂山千之丞(しげやませんのじょう)に稽古をしてもらえることとなった。

 キーンさんが高校時代にやった芝居では、自分の役に対して想像力を働かせるよう指導されたが、狂言ではまず先生を真似ることが重要だった。それは苦痛ではなく喜びだった。

 まるで私は、前任者たちが代々受け継いできた狂言の長い歴史の一番お尻のところに自分が連なっているような気がした。

 体験したことはなくても、なんとなくこの気持ちはわかる。歴史の重みを感じ、長い年月に渡って伝えられてきたことへの尊敬があるからこそ生まれた嬉しさなのだろう。キーンさんは、人との出会いの運にとても恵まれている。この狂言が、また人の輪をつなげていくのだ。

キーンさんは、1956年9月13日、喜多能楽堂で「千鳥」の太郎冠者を演じる。そのときの観客の名前を知って、私は思わず首を横に振った。信じられない。谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、松本幸四郎(先代)を始めとする著名人が居並んでいたというのだ。「それは、私の生涯に一度の晴れ舞台だった」と言うのもうなづける。

 キーンさんが今熊野に下宿して数週間後に、同じ下宿先に永井道雄が越して来る。なんでもアメリカから帰国したばかりの京都大学助教授だと、大家さんから聞く。キーンさんは彼を避けた。英語の練習相手にされるか、自慢話でも聞かされるのではないかと恐れていたのだ。だが、ある出来事をきっかけに話してみると、それらは全て杞憂だった。人柄も温かく、知的な彼と語り合うのが楽しかった。以来、毎晩夕食を共にするようになる。

 永井助教授と出会い語りあうことによって、キーンさんの考え方が変わった。以前は、日本文学を研究するにあたって、古典だけに没頭したが、それだけではなく今現在の日本の文化を無視できないと思うになったのだ。新聞も読み始めた。そして、次第に日本人の生活に参加したくなったのだという。ここからキーンさんは、ただ過去の日本にだけ向けていた視線を現代にも広げるようになったようだ。このことが彼の日本研究にどのような影響をもたらすのか楽しみになってきた。

第26回へ続く】

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☆ キーンさんの原文(英文)は『DAILY YOMIURI ONLINE』
 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/)で、ご覧になれます。

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て
53年、京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年07月13日

御無沙汰しております

 いつも、この拙ブログにお越し下さってありがとうございます。
ここのところ、ブログ更新がなかなか出来ませんでしたが、
来週あたりから、また再開できる見通しとなりました。
何卒、よろしくお願い致します。

 特にドナルド・キーンさんの『私と20世紀のクロニクル』(読売新聞連載)
の紹介を楽しみにしてくださっている皆様、
遅くなりますが、また引き続き7月8日掲載の分(第25回)から書きたいと
思っていますので、もうしばらくお待ちいただけたら幸いです。

 
 
のり at 18:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事・話題

2006年07月02日

無断で翻訳された書評と日本語での初論文

第23回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第24回
【読売新聞 2006年7月1日朝刊(毎週土曜日連載)】

キーンさんを頼って、アメリカ人たちが京都を訪れることがあった。彼らの多くは、日本文化を理解できなかったり、日本人を誤解していたりしていたので、キーンさんはずいぶんと腹立たしい思いをしたようだ。

 京都大学での授業は、戸惑うばかりだった。国文学の授業時間になっても、教授がめったに教室に現れないのだ。それは教授の経済的な理由からだった。国立大学の給料が少ないため、他の大学でも教えなくてはならなかったからだ。キーンさんたち学生は教室で2,30分待って、教授が来ないようだと判断してから帰宅する、ということを繰り返していた。しかし、その後研究室でその教授を会うようになってみると、極めて親切に相手をしてくれた。

 通常の授業に出ない時間を、京都観光に使えた。まだ行っていない名所旧跡を歩くのが楽しかった。
 私は下駄で歩くのは大好きで、日本人と同じようにカランコロンと音が立てられるまで練習した。一度だけ、鼻緒が切れて困ったことがあった。しかし、私は「たけくらべ」の似たような情景を思い出し、まさに自分が日本人と同じ経験をしていることに喜びを感じた。下駄は、京都を見て歩くには最高の「乗り物」だった。

 キーンさんは、来日当初から報道機関の注目を浴びていたという。原稿依頼やラジオ番組出演などもあった。ところが、キーンさんの原稿は、この来日よりも前に、本人の承諾無しで翻訳され、雑誌『文学』に掲載されていた。アメリカの学術雑誌に書いた、佐佐木信綱「上代文学史」についての手厳しい書評である。キーンさんは佐佐木信綱の国粋主義に同調できなかったのだ。

 何であれ天皇の詠んだ歌に最高の賛辞を捧げるという佐佐木の政治的信念に、私は特に腹が立った。書評の最後を、私は次のような尊大な宣言で締め括っている。いずれは西洋の学者が、自分たちの手で日本文学の歴史を書かなければならないだろう、と。

 キーンさんは、佐佐木信綱が詩歌の研究に多大な貢献をしたことを知っていた。だからこそ、政治的色付けがなされていることに失望したのだろう。歌が、誰によって書かれたかではなく、作品として純粋に評価するべきだと。が、キーンさんは、まさかこれが日本で翻訳されることになるとは思っていなかった。高齢の佐佐木が健康を害するのではないかと心配もした。また、最後の文で誤解を受けることも恐れた。実際、佐佐木信綱は動揺したようだ。

 しかし、このことをきっかけに『文学』の編集長、玉井乾介と親しくなり、彼から『源氏物語』の翻訳に関する原稿を依頼された。これがキーンさんが日本語で書いた最初の雑誌論文となった。もはや日本では旧仮名遣いや本字を使っていないことは承知の上で、あえて海軍学校で学んだ書き方で書いた。その原稿は―。

 アーサー・ウェイリーの翻訳に対する私の絶賛の言葉で彩られていた。それだけウェイリーの翻訳は、学者としてだけでなく、ヨーロッパで戦争が勃発した際に人生の危機的状況にあった私にとっても大きな意味を持っていたのだった。

 そして、ウェイリーを誉めるあまりに、谷崎潤一郎の現代語訳よりも優れていると書いてしまった。そのあと、キーンさんは谷崎潤一郎に会った。原稿が発表されたあと、お詫びの手紙を送った。谷崎からは、別に気にするほどの事ではないという返事が来た。

 当たり前のことだ。無名の若い日本文学研究家が彼の翻訳についてどう考えようと、そんなものを大谷崎が相手にするわけがない。しかし私は、谷崎が腹を立てなかったことに感銘を受けた。

 日本語の現代語訳と英訳では、単純な比較にはならないとも言えるが、谷崎は何故、腹を立てなかったのだろう。

第25回へ続く】

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☆ キーンさんの原文(英文)は『DAILY YOMIURI ONLINE』
 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/)で、ご覧になれます。

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て
53年、京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。