ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第28回
【読売新聞 2006年7月29日朝刊(毎週土曜日連載)】
1957年、東京と京都で国際ペンクラブ大会が開催された。開催地がヨーロッパではなく、めったに訪れることのない魅惑的な日本だという理由で、ふだん出席しないような有名な作家たちが参加した。アメリカ代表の一員として選ばれたキーンさんは、唯一日本語を話すことが出来たため(いや、だからこそ選ばれたというのだが)、日本滞在中、質問攻めにあったり、京都で他の作家たちを名所案内したりと、大活躍だった。
作家たちは、日本人記者たちの何度も繰り返される同じ質問にていねいに答えていたそうだが、それらの質問には、現代の私からみても、コンプレックスが感じられる。それでいて、外国から認められたいという期待も含んだ質問なので、きっと作家たちも答え難かっただろう。
日本人記者の一人、高橋潭(たん)さんは、昔ハワイで捕虜だったとき、キーンさんの尋問を受けていた。私にとっては不思議な感じを受けるのだが、キーンさんは何人かの日本人捕虜たちと戦後も個人的に交流を持っていた。高橋さんとも日本で何度か会っていたそうだ。
ハワイの捕虜収容所でのある出来事が、お互いの思い出となっていた。ある捕虜がクラシック音楽を聴きたいと熱望した。キーンさんは自分の判断で、捕虜収容所に蓄音機とレコードを持ち込んだ。一曲目は日本の歌謡曲、次にベートーベンの第三シンフォニー「英雄」をかけた。
そこは捕虜収容所のシャワールームで、レコードは見事に響き渡った。最初のうち音楽を聴きながら、私は捕虜たちの顔に浮んだ表情を観察せざるを得なかった。私が感じたのは、国籍の違いや戦争を越えて、音楽が私たちを一つに結びつけたということだった。しかし、やがて演奏に我を忘れた私は、ほかのことが何も考えられなくなった。
キーンさんは、本当に音楽に酔い痴れていったのでしょう。後に、捕虜の高橋さんがこのことを記事に書いたのだが、それによれば、キーンさんが「英雄」を選んだ目的を当初あれこれ考えていたそうだ。いろいろと詮索したみたものの、結局は、「ただ音楽を一緒に楽しむこと」が目的だと判断したとか。それほどキーンさんは、心底音楽を楽しんでいる表情をしていたのではないだろうか。
このペン大会は、キーンさんにとっては正式な作家の仲間入りが出来たという意味を持ち、なによりも、日本文学を世界文学に不可欠なものをして認めさせる一つの要因にもなったという。
今一つの要因は、自分で言うのも憚られるが、すでに触れた一九五五年から五六年にかけて私が編纂した「日本文学選集」全二巻の刊行だった。
キーンさんはビギナーズラックと謙遜しているが、収録に選んだ作品が適切だったと今も思うそうだ。もっと年数をかけたなら、もっと良いものが出来たに違いないと言いつつ…、
しかし五十年後の今日でも、この選集は日本文学を教えている西洋の大学ならどこでも授業で使われている。
と、ちょっと誇らしげだ。いや、もっともっと誇って良い。今でも、西洋の国々で日本文学に興味を持った人々に、日本文学の魅力を知らせる道しるべとなる本を作ったのだから。
【第29回へ続く】
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☆ キーンさんの原文(英文)は『DAILY YOMIURI ONLINE』
(http://www.yomiuri.co.jp/dy/)で、ご覧になれます。
★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て
53年、京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。
