【
第31回の続き】
ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第32回
【読売新聞 2006年8月26日朝刊(毎週土曜日連載)】
毎週木曜日の夕食を共にしたメンバー、吉田健一、河上徹太郎、石川淳たちを、キーンさんは、<次第に姿を消しつつあった「文人」だった。>と言う。
彼らは都会に川や運河が縦横に走り、いたるところに樹木が茂っていた東京の昔への郷愁を共有していて、古い文化が生き続けていることを非常に喜んでいた。また江戸の遺風に従って気前がよく、金を浪費することさえした。
武勇伝が幾つか書かれているが、この頃、つまり1961年の彼らはいったい何歳だったのだろうと、調べてみました。吉田健一49歳、河上徹太郎59歳、石川淳62歳、そしてキーンさんが、39歳。よくぞキーンさんを仲間として扱ってくれたものだと思う。もちろん、その才能を認めていたからに他ならない。時には他にも有能と認められた若い人が加わることもあった。その中には、藤田一士(はじめ)という文学者もいた。
昔はどんな世界にも、若い人の面倒を見て、経験から生まれた言葉を伝えてくれる人々が居たようだ。若い人も尊敬に値する大先輩から学ぼうとする気持ちがあったのだろう。今でも、芸人さんなどは先輩が後輩におごったり、助言をしたりするようだが、一般的には、子供も大人も、同世代としか交流しない人が多いように思う。
キーンさんは、日本の演劇に関する書物を読むことと、舞台を見ることで過ごしていた。それはのちに、文楽についての本(1965年)と、能についての本(1966年)にまとめられた。
これらの本は私が出版した本の中で一番美しく、それぞれ谷崎潤一郎、石川淳から序文をいただくという光栄に浴した。
その本の”美しさ”は、写真家、金子桂三(けいぞう)の力によるところが大きかった。たとえば文楽は、観客には、舞台で動いている人形だけ見えて、操っている人間を忘れることができるのだが、それを写真にすると、不思議なことに、むしろ人間の方が目立ってしまうのだそうだ。ところが金子は、操っている人間が人形の陰に隠れる瞬間があり、まるで人形が独りで動いているように見えることを発見した。理屈ではそうだが、実際、その瞬間をカメラに美しくおさめるのは、簡単なことではないはずだ。
だが、
これらの瞬間を取り出すことで、金子の写真は信じられないような効果を収めた。
またこの本は、宮田雅之(のちに切り絵作家として有名になった)がレイアウトし、竹本網太夫が謡う浄瑠璃が吹き込まれたレコードが付き、日本語の翻訳者は、吉田健一という贅沢な協力者たちにも恵まれた。
キーンさんは、能の舞台を見るうちに、謡(うたい)の稽古を受けることにした。先生は金春流(こんぱるりゅう)の名人、桜間道雄だった。最初に稽古したのは謡い易くて筋が単純な「橋弁慶」だったが、次は無理を言って、高度な「熊野(ゆや)」を習わせてもらうことにした。「熊野」は三島が絶賛していたものだったからだ。
その「熊野」の中に、死にかけた田舎の母親から手紙が届く場面があるのだが、キーンさん自身にもちょうどその頃、ニューヨークにいる母親から手紙が舞い込むようになっていた。やはり身体の具合が悪いので、早く戻ってきてほしいという内容だった。たぶん寂しさだけのことだと解釈したものの、9月に帰る予定を2月にすると約束し、安心させた。
ロンドンのアーサー・ウェイリーからも手紙が来た。右腕を骨折したため、もう原稿は書けないだろうということだった。他にも彼には不運なことが重なっていた。ロンドン大学構内にある家から追い出されようとしていたし、何より辛いことに、30年連れ添った伴侶ともいうべきベリル・デ・ゾーテが死の床にあった。
そこでキーンさんは、ロンドンでウェイリーを見舞い、次にニューヨークの母親に会いに行こうと決めたのだった。
私は、自分が日本文学のもう一つの作品――夏目漱石の「こころ」――の筋書きをなぞっていることに気づかなかった。
と、締め括られている。恩師とも言えるウェイリーの不運、彼の”伴侶ともいうべき”女性の存在と病、母親の病気…、重苦しい展開になってしまうのでしょうか。
【
第33回へ続く】
【 目次は →
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☆ キーンさんの原文(英文)は『DAILY YOMIURI ONLINE』
(http://www.yomiuri.co.jp/dy/)で、ご覧になれます。
★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て
53年、京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。