2006年08月31日

スマートな募金活動

 アメリカでのお話。今年8月18日、大リーグ、ヤンキース対レッドソックス戦の中継は特別なものだった。ジミー基金という小児癌研究基金への募金が呼びかけられたのだ。イニングの合間などではなく、試合中に織り込んでいく。

 李啓充さんの「大リーグファン養成コラム」【週刊文春 2006年9月7日号】によると、その中継はこんな風だった。

「放送席に、10年前、17歳のときに癌と診断されたジョージ・スペンサーさんをお招きしました。あっ、エリック・ヒンスキーが今日2本目の二塁打を打ちました。……さあ、ジョージ、ジミー基金について話してください」

「10年前に診断されたときは本当に重かったのですが、今は、すっかり元気になりました。最近結婚しましたし、ジミー基金のおかげで、人生を楽しむことができるようになったのです」

「右翼への飛球、ヒンスキーは三塁に進みました」

「今は、癌治療を受けたことの長期的影響を調べる研究に協力しています。皆さんも、どうぞ、募金に協力してください」……

 小児癌患者、元患者、家族たちの体験談と野球中継という、ちょっと異質な組み合わせだが、レッドソックスが半世紀以上、このジミー基金のスポンサーとして支援し続けていることを知れば納得できる。

 不治の病だった小児癌を、治癒率75%にまで引き上げたのはジミー基金があってこそ、と言われているそうだ。

 野球中継の合間に、募金達成額が報告され、テレビ観戦している人達も、目標額に達することを願い、協力する。レッドソックスは、選手が病棟を訪れて子供達を励ましたりもしている。そのことに感謝している家族らも協力を呼びかける。

 この日、ダブルヘッダーで連敗したレッド・ソックスだったが、募金の額は目標を上回り、280万ドルも集められた。これで幾多の患者・家族が救われた(セーブした)のだからと、李さんはこう評価している。

 レッド・ソックス・ファンにとって、この日の成績は「0勝2敗、セーブ∞(数え切れず)」となったのだった。


 観ている方も目が回りそうな野球中継だけど、とても効率の良い、スマートな募金活動だと思った。日本のテレビ局が莫大な費用をかけて、丸一日を使い呼びかける募金とは、なんと対照的なのだろう。

 今、日本テレビのHPで募金金額を見ると、(27日現在で)296,495,232円となっている。試しに本日の為替レート、1ドル≒117.4円で換算してみた。252万5500ドルだった。
のり at 13:25 | Comment(2) | TrackBack(0) | 李啓充

2006年08月28日

煙草と火の玉

 大槻義彦教授って、ときどきテレビに出演して、超能力などを否定している先生だったかな。違っていたらごめんなさい。

 週刊文春には幾つもの小さな(活字も小さい)PRコラムがあって、PR欄とはいえ味のある文があったりする。JTの「喫茶室」というコラムはここ3回、大槻教授が執筆、特に最新の【週刊文春 2006年8月31日号】が面白かった。

 昔、”火の玉”を研究したかった大槻さんは、東大大学院に進み、K教授の指導を受けることになった。同じ物理学科の教授たちが皆、堅物で真面目という中で、K教授は大酒飲みでタバコ好きという”不良”だった。そこでK教授のウソのような逸話が生まれた。

 渋谷で飲んで終電車に乗りそこねたK教授は、井の頭線の線路を自宅のある世田谷に向けて歩いた。そればかりか、途中で線路の枕木を、本当に枕にして寝てしまったのだ。しばらくしてから、夜更けのタバコを吸いたくなり、たてつづけに吸った。

 このとき沿線住民が見たものは線路上にうごめくあやしい光だった。
 ひとりが、
「火の玉だ!」と騒ぎだした。
 そしてK先生は早朝の井の頭線の始発にひき殺される前に沿線住民によって保護されたのだ。煙草が朝永先生につぐ多体問題の権威を救ったのだ。

 煙草が教授を救ったという結末になっているのは出来過ぎだけど、JTのPR欄なので仕方がないか。でも住民が見たのは、本物の火の玉だったかも。

2006年08月26日

'61 謡を習う

第31回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第32回
【読売新聞 2006年8月26日朝刊(毎週土曜日連載)】

 毎週木曜日の夕食を共にしたメンバー、吉田健一、河上徹太郎、石川淳たちを、キーンさんは、<次第に姿を消しつつあった「文人」だった。>と言う。

 彼らは都会に川や運河が縦横に走り、いたるところに樹木が茂っていた東京の昔への郷愁を共有していて、古い文化が生き続けていることを非常に喜んでいた。また江戸の遺風に従って気前がよく、金を浪費することさえした。

 武勇伝が幾つか書かれているが、この頃、つまり1961年の彼らはいったい何歳だったのだろうと、調べてみました。吉田健一49歳、河上徹太郎59歳、石川淳62歳、そしてキーンさんが、39歳。よくぞキーンさんを仲間として扱ってくれたものだと思う。もちろん、その才能を認めていたからに他ならない。時には他にも有能と認められた若い人が加わることもあった。その中には、藤田一士(はじめ)という文学者もいた。

 昔はどんな世界にも、若い人の面倒を見て、経験から生まれた言葉を伝えてくれる人々が居たようだ。若い人も尊敬に値する大先輩から学ぼうとする気持ちがあったのだろう。今でも、芸人さんなどは先輩が後輩におごったり、助言をしたりするようだが、一般的には、子供も大人も、同世代としか交流しない人が多いように思う。

 キーンさんは、日本の演劇に関する書物を読むことと、舞台を見ることで過ごしていた。それはのちに、文楽についての本(1965年)と、能についての本(1966年)にまとめられた。

 これらの本は私が出版した本の中で一番美しく、それぞれ谷崎潤一郎、石川淳から序文をいただくという光栄に浴した。

 その本の”美しさ”は、写真家、金子桂三(けいぞう)の力によるところが大きかった。たとえば文楽は、観客には、舞台で動いている人形だけ見えて、操っている人間を忘れることができるのだが、それを写真にすると、不思議なことに、むしろ人間の方が目立ってしまうのだそうだ。ところが金子は、操っている人間が人形の陰に隠れる瞬間があり、まるで人形が独りで動いているように見えることを発見した。理屈ではそうだが、実際、その瞬間をカメラに美しくおさめるのは、簡単なことではないはずだ。

 だが、
これらの瞬間を取り出すことで、金子の写真は信じられないような効果を収めた。

 またこの本は、宮田雅之(のちに切り絵作家として有名になった)がレイアウトし、竹本網太夫が謡う浄瑠璃が吹き込まれたレコードが付き、日本語の翻訳者は、吉田健一という贅沢な協力者たちにも恵まれた。

 キーンさんは、能の舞台を見るうちに、謡(うたい)の稽古を受けることにした。先生は金春流(こんぱるりゅう)の名人、桜間道雄だった。最初に稽古したのは謡い易くて筋が単純な「橋弁慶」だったが、次は無理を言って、高度な「熊野(ゆや)」を習わせてもらうことにした。「熊野」は三島が絶賛していたものだったからだ。

 その「熊野」の中に、死にかけた田舎の母親から手紙が届く場面があるのだが、キーンさん自身にもちょうどその頃、ニューヨークにいる母親から手紙が舞い込むようになっていた。やはり身体の具合が悪いので、早く戻ってきてほしいという内容だった。たぶん寂しさだけのことだと解釈したものの、9月に帰る予定を2月にすると約束し、安心させた。

 ロンドンのアーサー・ウェイリーからも手紙が来た。右腕を骨折したため、もう原稿は書けないだろうということだった。他にも彼には不運なことが重なっていた。ロンドン大学構内にある家から追い出されようとしていたし、何より辛いことに、30年連れ添った伴侶ともいうべきベリル・デ・ゾーテが死の床にあった。

 そこでキーンさんは、ロンドンでウェイリーを見舞い、次にニューヨークの母親に会いに行こうと決めたのだった。

 私は、自分が日本文学のもう一つの作品――夏目漱石の「こころ」――の筋書きをなぞっていることに気づかなかった。

 と、締め括られている。恩師とも言えるウェイリーの不運、彼の”伴侶ともいうべき”女性の存在と病、母親の病気…、重苦しい展開になってしまうのでしょうか。

第33回へ続く】

【 目次は → こちら

☆ キーンさんの原文(英文)は『DAILY YOMIURI ONLINE』
 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/)で、ご覧になれます。

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て
53年、京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年08月25日

夢でよかった

 昭和11年7月25日、上野動物園から黒ヒョウが逃げ出して大騒ぎという事件があったそうだ。小林信彦さんの「本音を申せば」【週刊文春 2006年8月31日号】に詳しく書かれている。

 読み始めた途端、私は子供のころ見た、奇妙な夢を思い出した。上野動物園からライオンが逃げたというニュースが流れてすぐに、獰猛なライオンが我が町に現れたのだ。そいつは人々に襲いかかった。逃げ切れなかった私は、あっという間に食べられてしまった。

 ところが、ライオンのお腹の中は広々として、まるでヨーロッパの宮殿のような造りになっていた。大理石(らしき)ピカピカした床と太くて飾り彫りされた円柱があった。食べられたのは私だけではないようで、見知らぬ人たちも何人か居て、どうやったらここから抜け出せるかを相談していたのだった。

 結末は思い出せない。目が覚めてから、ホッとしたことは覚えている。ただ、しばらくはそのショッキングな夢の恐怖感が消えなかった。

 では、夢ではなく、現実に黒ヒョウが町中に逃げ出したら…。
小林さんは、先頃亡くなられた作家の吉村昭氏のエッセイ『東京の下町』の「黒ヒョウ事件」の章や、当時の飼育係で『実録 上野動物園』の著者である福田三郎さんの記述も紹介し、補足している。

 福田さんによれば、この黒ヒョウは、タイで捕らえられて間もなく日本に送られてきて、人間にも慣れていなかったそうだ。ノイローゼ状態だったとか。夜間、運動場に出られるようにしたのが災いしたらしく、翌早朝、ヒョウが居なくなっていることを発見して大騒ぎとなった。

上野署から武装警官が百名以上、谷中署から応援が三十名、警視庁から特別警備隊一個中隊が、それぞれトラックで動物園に到着する騒ぎ(福田氏の記述)で、結局、夕方にマンホールにひそんでいるのをつかまえたのだが、吉村氏は
 <……今にも戸をやぶってヒョウの黒い体が
 とびこんでくるような予感におびえていた。>
 と記す。

 吉村氏は上野動物園のとなりの町に住んでいたのだ。小学校4年生だったとか。子供心にどんなに怖かっただろう。朝から夕方までどんなに長く感じただろう。それにしても、そんな体験の無い私が、なぜあんな不思議な夢を見たのだろう。
のり at 16:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小林信彦

2006年08月23日

松井復帰の第一歩

 「野球ができないことが一番寂しい」。ヤンキース松井秀喜選手の言葉だ。骨折した手首の骨は順調に回復しているかのようだったけれど、腱に痛みが残り、これが復帰の障害となった。ただ鷲田康さんの「松井秀喜インサイドレポート2006」【週刊文春 2006年8月31日号】によれば、この痛みさえ消えればすぐにも打撃練習ができるものと、松井は思っていた。

 一日も早く手首の痛みをとるために、日本の旧知のトレーナーを通じて炎症を治めるクリームを手にいれ、治療とトレーニングを並行して行なって打撃練習再開に備えていた。

 しかし、この痛みを本人以上に重く受けとめたのが球団だった。4年で総額60億円という巨額契約をした最初の年であることが、より慎重な判断をさせた。場合によっては今年は捨てて、あとの3年間をしっかり働いてもらおうという方針に変更したようなのだ。また、チームの補強がなんとか成功し地区優勝のメドがたってきたことも、松井の復帰を焦らない要因となっている。――というのが、鷲田さんの説明である。

 無理は禁物という理由だけで慎重になっていたのだと思ったけれど、実際は、球団から見た松井秀喜という”商品”をどう扱うかというビジネスライクな考え方が大きく影響しているようだ。松井の思いというものがあまり反映されないのは、仕方のないことなのかもしれない。

「チームがどういう風に考えているかは分からない。ボクは一日も早く復帰できるように準備をするだけ。今年中に戻ることを諦めることもないし、逆に復帰できなくても落胆はしない」

 いかにも松井らしい言葉ですね。最終的な検査前の、覚悟みたいなものが伝わってきます。

 そして、ついに本日8月23日、執刀医による再検査の結果、両手での打撃練習再開の許可が出た。良かった…。明日から、まずティー・バッティングから始めるそうだけれど、その瞬間、不安な気持ちが湧いてこないだろうか。その時の感触はどんなだろう。

 今季中に、チームが松井の経験と存在を切実に必要とする時が来るような気がする。でも、本人も言っているように、一歩一歩進んで行くしかない。余計なことは考えずに。
のり at 21:20 | Comment(0) | TrackBack(1) | 鷲田康

2006年08月21日

木曜夕食会の仲間たち

第30回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第31回
【読売新聞 2006年8月19日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんは、近松の浄瑠璃十一作の翻訳を完成させた。次に取り組んだのは、能と現代戯曲の翻訳だった。海外で上演された中で一番成功したのは三島の『サド公爵夫人』だ。自分で訳した英語に、日本語につられてしまう部分があるのを発見することもあった。

 「雨が降っている」という日本語を前にして、翻訳者は特に考えもしないで、英語の順番もそのままに”The rain is falling.”と書いてしまったりする。これは文法的に正しくても、英語でそうは言わない。勿論”It is raining.”である。

 日本語に精通しているがゆえに、日本人的な英訳ミスを犯してしまうのか。面白い。このエピソードで思い出したことがある。日本語を勉強しはじめの外国人には、「お茶が入りました」とか「お風呂が沸きました」という言いまわしは、不思議らしい。このままだと、お風呂が(自分で)沸いたみたいに聞こえるんだとか。雨の場合は自然現象なので、これらの例とは少し意味合いが違うのだが、キーンさんが日本語にどっぷり染まってしまった様子が窺えて、苦笑してしまった。

 キーンさんは、日本に一年間滞在する機会を得た。1961年、コロンビア大学で教え始めてから7年目のことだった。一年間の有給休暇と、ある財団からの研究助成金を手に入れられたのだ。京都でまた研究ができると期待したが、いつもの「我が家」の前に見える光景は、新幹線のトンネ工事によって無残に変わってしまっていた。

 京都に気に入った滞在場所が見つからなかったため、思い切って東京で暮らすことにした。原宿の閑静なアパートを借りた。京都のように食事を用意してくれる人がいないため、侘しい思いもした。東京の友人たちも、短期間の滞在のときのように毎日夕食の招待をしてくれるわけもなかった。三島由紀夫はこう言ってくれた。

 ほかに行くところがない時は、簡単な食事で構わなかったら、いつでも気軽に私の家に夕食を食べに来てください、と。

 しかし、キーンさんは行かなかった。三島と食事するのは楽しそうだし、招待も嬉しかったのだが、「ほかにいくところが無い」とわざわざ電話する気になれなかったのだ。三島の誘いは、一言余計でしたね。

 友人、吉田健一は、親しい友人たちとの夕食会に招いてくれた。それは毎週木曜日に催された。キーンさんがいつも英語で話す日本人は、この吉田健一だけだった。彼の話す英語は、まさに英国の上流階級の英語で、彼と日本語で話すほうがおかしい気がしたほどだったのだ。また彼は、キーンさんの『日本の文学』を日本語に翻訳してくれた。

 毎週木曜の夕食会は、銀座のクラブ「ソフィア」から始まって、「はち巻岡田」で食べ、別の場所で飲むというコースだった。同席するのは河上徹太郎と石川淳だった。

 キーンさんは後にこの二人のそれぞれと対談した。河上からは、日本文学について多くのことを学んだし、対談も成功した。ところが、石川との対談は辛いものとなった。態度は終始好意的なのだが、キーンさんが江戸時代について書いた原稿の間違いを次々と指摘したのだ。「発表なさる前に見せてくださればよかったのに」と何度も言われた。

 しかし私は、どういう状況であれ、優れた小説や批評で知られているのみならず極めて高い価値基準の持ち主である人物に、大胆にも自分の書いた原稿を送るつけるなど想像も出来ないことだった。

 キーンさんは石川を尊敬し、彼の作品を最初に英訳した(1961年)のもキーンさんで、それは『紫苑物語』だった。

 ある友人に、この対談から受けたショックについて話すと、「石川淳がドナルド・キーンの仕事に敬意を払っていなければ、そもそも対談など承知するはずがないじゃないか」と慰めてくれた。それでもキーンさんは、石川に自分の書いたものを軽蔑されていると思った。しかし、思い直していく。

 石川が私の作品を批評したのは、私が外国人だからということで手心を加えることなく、むしろ日本人の作品と同等に扱ってくれた証だった。

 その通りだと思う。

第32回へ続く】

【 目次は → こちら

☆ キーンさんの原文(英文)は『DAILY YOMIURI ONLINE』
 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/)で、ご覧になれます。

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て
53年、京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年08月18日

ポルトガルってどんな漢字?

 【週刊文春 平成18年8月17日・24日夏の特大号】に掲載の「てこずるパズル」は、”漢字尻取り迷路”。そこに、ヨーロッパの国名も含まれていました。全部読めるかチェックしてみませんか?

1.英吉利  2.仏蘭西  3.独逸  4.阿蘭陀  5.西班牙 

6.葡萄牙  7.伊太利  8.墺太利  9.希臘

いかがでしょう?
答えはこちら



1.イギリス  2.フランス  3.ドイツ  4.オランダ  5.スペイン 

6.ポルトガル  7.イタリア  8.オーストリア  9.ギリシャ

1〜3までは、英、仏、独、など頭の一文字でよく目にするので分かり易いと思います。日英とか、日独とかですね。

カタカナ地名を入力して漢字変換してみると簡単に表示されるので遊んでみました。

アメリカ(亜米利加)  サンフランシスコ(桑港)  ニューヨーク(紐育)

パリ(巴里)  ローマ(羅馬)  エジプト(埃及) 

いろいろと試してみると面白そうですよ。
役立つかどうかは別として…。

2006年08月16日

近松門左衛門の芸術を翻訳する

第29回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第30回
【読売新聞 2006年8月12日朝刊(毎週土曜日連載)】

 三島由紀夫は、ニューヨークで自分の芝居が上演されるためにできる限りのことをしたが、プロデューサーたちは後援者を見つけることができなかった。キーンさんは、何もしてあげられなかった。ついに三島はヨーロッパへ旅立ってしまった。ニューヨークに対してご立腹だったらしい。

 キーンさんは、1950年代後半は毎年同じパターンで生活していた。9月から5月末までコロンビア大学で日本語と日本文学を教え、夏休み休暇の3ヶ月間は、京都で過ごすのだ。羽田で降りるたびに、必ず何人かの友達が出迎えてくれた。その数日後、京都の「我が家」に戻り、奥村さんや永井さんと再会した。3,4年間は近松門左衛門の浄瑠璃の翻訳に専念していた。

 ここから、近松の浄瑠璃の翻訳に話になります。ところが、その意味することの重さが、悲しいかな私の力では理解できません。たとえばこの部分です。

 私は原文を一語も漏らさずに翻訳する決意をしていて、それは「道行(みちゆき)の部分も例外ではなかった。ふつう日本人の現代語訳では、「道行」の韻文はただの飾りとして無視され、削除されていた。近松研究家としての私の一番重要な発見は、「道行」の劇的重要性だったのではないかと思う。

 さあ…、まず「道行」がわかりません。そういう題名の作品かと思い込んでしまったくらいです。浄瑠璃には「道行」と呼ばれる場面があるものだとか。旅にまつわる部分のようです。韻文を無視していた日本の現代語訳に対して、キーンさんはその価値を見出したということなのでしょうか。

「道行」の間に、徳兵衛も治兵衛も(あるいは、近松のどの世話物の主人公でもそうだが)優男から、愛人と心中できる悲劇の主人公へと変貌するのだった。私は、これを「歩きながら背が高くなる」と書いた。

 どうでしょう。原文をわかっている人にしか、ここは理解できないのかもしれません。残念ながら私はお手上げです。しかし、一語一語を大切に翻訳しようとするキーンさんの姿勢だけは、理解できます。キーンさんは、大阪市立大学の森修教授の助言を受けながら、浄瑠璃研究に没頭し、<わずか数行を読むのに午後の時間すべてを費やしたこともあった。>

 翻訳に際してどうしても省略せざるを得なかったのが、多くの掛詞(かけことば)だった。確かに、同音異義語を利用するのだから、日本語の発音を知らない人にそのまま翻訳しても意味が通じないわけで、いちいち説明が必要になってしまう。それだと面白さが伝わらないのだろう。

 しかし、キーンさんは縁語(えんご)は生かそうと努力した。たとえば「心中天の網島」の太兵衛の歌の一節の原文と翻訳が載っているのだが、主人公の治兵衛が紙を商売にしていたので、紙に関連する言葉が、面白おかしく使われている。

 その後、キーンさんの翻訳文を読むと、縁語というテクニックについて、なるほどねえ、と改めて感心させられる。キーンさんは、あるとき英文の中にも縁語を発見したことがある。でもそれは単なる偶然だった。

 これは、どんな文章でも起こり得ることかもしれない。人が無意識のうちにやっていることを、近松は芸術にまで高めたのだった。

 今回は、難しかったです。いつも以上に力不足を痛感しています。頭がクラクラしてきました。

 しかも、山口晃さんが描く挿絵にまで理解不能な所があります。ニューヨークから東京へ向かう途中で立ち寄ったアンカレッジ空港に、巨大な白熊の剥製があったというエピソードから想像された絵があります。(首から先は描かれていない)剥製の足元には「白態(White Ba??))」という名札が…。??の部分は読み取れませんでした。日本語の部分は「白熊」ではなく「白態」と読めます。これも、掛詞か縁語か、何かを意味しているのでしょうか? 

 絵の中に(芸術的な)ウソ漢字を書き込んだり、「英語のスペルに関しては自信ありません」と宣言している山口さんのことなので、確信犯的な匂いもしますが、なんだか頭痛がしてきました。

第31回へ続く】

【 目次は → こちら


☆ キーンさんの原文(英文)は『DAILY YOMIURI ONLINE』
 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/)で、ご覧になれます。

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て
53年、京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年08月11日

うっかり辞書を信じるところだった

 年度末でもないのに、週刊文春の連載物が6つも終わってしまう。高島俊男さんの「お言葉ですが…」も【8月17日・24日夏の特大号】が最終回となってしまった。知識の乏しい私には難しい話が多かったけれど、いろいろと勉強させていただいたので、もっと続けていただきたかった。

 高島さんが、文中で、物(言葉)を知らない人に向かって憤っている様子は、読んでいるこちらまで、「日本人でいてそんなことも知らないのか」と叱られているような気がすることもあったけど…。

 このブログを始めるずっと前に読んだ中で、こんなのがあった。社名は伏せますが、ある大新聞の社説(か、コラムか)の、テロを非難する文中で、その犠牲者は”無垢(むく)の人たち”だと書かれていたそうだ。ある人が”無垢”ではなく”無辜(むこ)”ではないかと質問の手紙を出したところ、「無垢も無辜も英語にすると同じ単語なので、無垢でも良いと思う」という内容の返事が届いた。
 
 そんなバカな話があるかと、その人は怒り心頭で、それを高島さんに送ってきたという話だった。もちろん高島さんも、怒ったり呆れたりして、エッセイで紹介したわけである。

 テロで亡くなったり、怪我をしたり、大切な人を失ったり、家を破壊されたのは、何の罪も無い人たちだと言いたかったのだろう。だとしたら、何の罪も無いという意味の”無辜”を使うのがふさわしい。”無垢”は純粋とか汚れていないという意味で、少しニュアンスが違うのだ。そもそも、英語にすれば同じだから、どちらの日本語を使っても同じなどということがあろうはずがない。それを承知の上でこんな返事を書いたのなら、質問者を馬鹿にしているとしか思えないのだ。

 恥ずかしながら”無辜”という言葉すら知らなかった私だけれど、さすがにこの新聞社の返答は、ひど過ぎると思った。文章のプロが、こんな子供だましの手を使うんだと知った。

 ここ数週間に渡って、高島さんがテーマにしてきたのが、「豫、預、予」は同字だということ(正字、異体字、略字の違いだけ)。したがって「豫言」、「預言」、「予言」、どう書いても同じこと。広辞苑にどう書いてあろうと――だ。

 辞書についても、専門家が監修し作っているにもかかわらず、一つの誤りが、そのまま次の辞書に引き継がれ、次第にそれが正しいことのようになっていくことも知った。

 新聞も辞書も、人間が作っていることを教えてくださった高島俊男さんに、ありがとうございましたと申し上げたい。
のり at 16:11 | Comment(2) | TrackBack(2) | 高島俊男

2006年08月07日

声に恋する

 つい人の声に敏感に反応してしまう。声が視覚的なイメージ(特に線状のもの)に変換されてしまうのだ。例えば、か細く、かすれ気味の声を聞くと、墨を少なめに含ませた細筆で、和紙に擦るように描いた線が、頭に浮んでくる。時には、その線に色がついていることもある。

 顔を見なくても、テレビやラジオから流れてくる声を聞くと、(それほどメジャーな人でなくても)たいていすぐに誰の声か分かる。それは、普通の人には当たり前のことかもしれないけれど、私は他人の顔や名前を記憶する能力がとても欠如しているので、声に関心が高いことは確かなようだ。

 声はその人のイメージとして、とても重要な要素だと思う。試しに、好きな俳優さんやタレントさんの顔を思い浮かべ、声だけ嫌いな人の声に置き換えて想像してみて欲しい。「ガッカリだよ」「やめて〜」となるはずだ。

 また、ラジオや歌によって声を先に知って聞き惚れ、イメージを膨らませすぎてしまい、あとから本人を見て失望することもある。もちろんそれは、勝手にイメージを作り上げてしまった側に責任があるのだが、かように声と人物のイメージは繋がりが深い。

 高島俊男さんが、テープに録音された斎藤茂吉の声を聞いたという話を、「お言葉ですが…」【週刊文春 2006年8月10日号】に書いている。茂吉が自作の歌をよんだときのものだ。

 想像通りである。正直で重々しく厚みのある声。イ列音とエ列音がやや近い発音。想像していた声と、実際の声とがこんなにぴったり一致したのは初めてだ。

 作家や歌人とはいえ、作品から浮かび上がってくるイメージというものがあるが、それにふさわしい声だったので、高島さんも嬉しかったようだ。

 ちなみに、私が一番好きな歌声は、カーペンターズのカレンの声だ。彼女の声から浮んでくる線の画像は、ふっくらと立体的で手触りが良く、それでいて(見えない内部に)芯が通っていて伸びやか。耳も心も安心できるものなのだ。
のり at 13:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 高島俊男