2006年09月30日

独房はそんなものじゃない

第36回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第37回
【読売新聞 2006年9月30日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんは大学時代、左翼系の同級生が主張する議論、すなわちブルジュア民主主義への非難を耳にしたが、自分の性分には合わなかった。

 だから、一九三九年末からソ連がフィンランドに侵攻した時、これら左翼系の同級生が戸惑う姿を目撃して嬉しかった。彼らがいつも主張していたのは、資本主義国家だけが侵略行為を行ってきたということで、ソ連がこうした罪を犯すことはあり得ないと彼らは考えていた。

 当時のキーンさんは彼らの主張が崩れたことを喜んだが、その戦争が新たな別の戦争を引き起こすことを考えると、喜ぶべきではなかったと、今は思っている。

 ソ連訪問で初めて共産主義を体験したキーンさんは、ソ連国民の考え方が、想像していたのと全く違うことに気づいた。共産主義を熱狂的に信じているものと思っていたが、実際会ってみるとそうではなかった。また、彼らと会話をしていくうちに、自分の生活がいかに守られているかを感じざるをえなかった。

 東京のあるホテルの小さい部屋のことを、キーンさんは「まるで独房のようです」と表現したが、

 私と話していた学者は、ただこう答えたのだった。「いいえ、独房はそんなものじゃないわ」と。彼女は、なにも詳しく述べたわけではなかった。しかし私が彼女の言葉の裏に感じたのは、彼女が監獄で数か月ないしは数年にわたって暮らしたことがあるかもしれないということだった。

 苛酷な体験を暗示している彼女の言葉に、キーンさんはたぶん返す言葉がなかっただろう。共産主義と資本主義を比べる議論よりも、実際の体制を経験した人の一言の方が、多くのことを物語ることがあると思う。

 ソ連の学者は自由に外国へ行けなかったので、キーンさんは自分が訪れることで、少しでも外の世界との繋がり感じてもらいたいと3度訪れた。そんななか、キーンさんの『日本人の西洋発見』という本が、ロシア語訳で7500部刊行され、売り出したその日に完売してしまった。

 彼らには世界を知りたいという相当に強い欲求があったのだろう。自国の体制が一番だと教え込まれても、人は本当のことを知りたいものなのだと思う。

 1941年にメトロポリタン劇場で上演されたベートーベンのオペラ「フィデリオ」を引き合いに、キーンさんは当時のヨーロッパ人を、<あたかも巨大な牢獄に閉じ込められたかのよう>と表現している。

 ベートーベンの音楽が希望をもたらし、牢獄の門が開いて憔悴し青ざめた囚人たちが姿を現した時、聴衆はその音楽の中にヨーロッパが再び自由になる予感のようなものを感じて、涙に身を任せたのだった。割れるような拍手の中で私たちは泣いていて、後にも先にも聴衆がこんなに泣くのを見るのは初めてのことだった。

 残念ながら私にはこの涙がよくわかりません。ヨーロッパの人々が自由になることを連想したとして、なぜそれほど泣くのかが分からない。もし今、北朝鮮の人々が自由になるという舞台を見ても、私にはそういう気持ちは湧かないと思う。多くのアメリカ人にとって、ヨーロッパとは、どんな存在なのだろう。
 
第38回へ続く】

【 目次は → こちら

☆ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年09月28日

ふんどしに描かれた棟方志功の虎

 『巻頭随筆U』(文藝春秋編、文春文庫、1980年)に、棟方志功がふんどしに虎の絵を描いた話があります。堺誠一郎「ふんどしが掛け軸になった話」(『文藝春秋』1967年11月号に掲載)がそれ。

 昭和13年のこと。筆者、堺が第一回目の出征をして2年目、友人の八木隆一郎(劇作家)から慰問袋が送られてきた。

 あけてみると、ふんどしが一本入っていて、それにはいっぱいに虎の絵が墨でかいてあり、志功と、棟方式のサインも入っていた。

 棟方は八木と同郷である。八木の紹介で、出版社勤めの堺も棟方とは親交があった。八木は、そのころ出征する友人たちのために、棟方に頼んでふんどしに虎をかいてもらい、餞別にしていたところ、誰もケガもせず、戦死した者もいないというのだ。堺にも、元気で帰ってくるようにと送ってくれたのだった。

 実際しめられるように紐がついていたが、しめずにいつも大事に持ち歩いていた。そのおかげかどうか昭和14年の初めに無事帰還できたので、父親がそのふんどしを掛け軸にした。以来、毎年五月の節句には床の間に飾るようになったとか。

 当時の棟方志功は、まだごく一部の人だけが知っているという程度で、小さな借家に住んでいたそうだ。そこへ掛け軸の箱書きを頼みに行ったところ、いつも通り大きな声で喜んで迎えてくれた。堺に言わせると、棟方の絵は、じかに描かれたものは版画に比べて全体からの迫力が弱まっている場合が多いのだそうだ。

 ふんどしから生まれ変わった私の掛け軸の虎も、虎を前方ななめ上から見た絵でバックの所どころに竹があり、尻尾がS字型に長く、上の方までのびており、虎の斑点があるのでたしかに虎にはちがいないが、顔を見るとどうしても猫に近い、しかしこんないい記念品はめったにないので、私は大事にしている。

 掛け軸は、丈夫な男の子に育つようにと端午の節句に飾ったのでしょうが、元々がふんどしで、しかも虎の顔が猫に近いとなると、かなり弱そうです。それでも実際、戦地でのお守りになったわけですからね。確かにめったにないいい記念品だと思います。テレビの「なんでも鑑定団」に出してみたいと思うのは私だけでしょうか。

2006年09月25日

落語家チームの珍プレー

 今はたぶん無いと思いますが、昔、落語家の野球チームがあったそうです。イメージだけで言えば、あまり上手な人は居そうにないけれど、やはり実際そのようで、『高座奇人伝』(小島貞二/著 立風書房 昭和54年)にある珍プレーの数々は、いかにも落語家らしく、出来すぎとも思えるほどでした。

 昭和3年に柳屋金語楼が結成した「ダイナマイト・チーム」は、
「初試合をぜひ勝利で飾ろう」と、相手に小学生チームをえらんで七十対〇。これも残念ながら相手が強すぎたのである。

 負けたんかい!

 昭和5年、八代目桂文冶が「桂文冶チーム」を作り、初戦相手は漫画家チームとだったが、初回に主戦投手の鈴々舎馬風が12点取られた。

 そこで応援団長の橘家円太郎(当時百円)が、球審にコップ酒を二杯ふるまって、少し手心を加えてもらったが、その涙ぐましい裏面作戦も空しく、結局二十対三で惜敗(?)した。馬風の出した四球が三十六個。あとで馬風、「どうだい、四球三十六というだろう」

 さすが、噺家! …って誉めていいのやら。

 七代目林家正蔵(林家三平の父)は太っていて、百メートルを走るのに1分半もかかるうえ、ひどい近眼だったが、なんと「語睦会チーム」の主力選手だった。戦時中の軍隊慰問で、傷痍軍人チームとの試合のとき、めったに打たないヒットを打ったため、嬉しさのあまり打球の飛んで行ったレフトへ走ってしまった。もちろんアウトになり、「一塁まであんなに遠いとは思わなかった」。外野守備のとき、鳥を球と見間違えて、鳥の方に走ってしまったりもした。

 また別のゲームで、試合中にセンターを守ってるはずの正蔵がいない。さがすと、外野席にいたお客さんから声をかけられ、すわりこんで、一ぱいごちそうになっていた。

 オーイ! 戻って来〜い! 

 以前堀井憲一郎さんが書いていた話に、こんなのがありました。あまり野球に詳しくないメンバーでチームを作ったとき、満塁なのに、なぜか二塁ランナーだけが、(だけが、デスヨ)盗塁をして、びっくりした三塁ランナーが飛び出してしまい、行き場を失ってアウトになったというのです。三塁ランナーの困った顔が目に浮んで大笑いしてしまいました。

 落語家チームの珍プレーは、審判を酒で惑わしたりと、堀井さんのチームとは違った意味で、あまりに大胆で、そんな野球を見てみたいと思いました。高度な技術や真剣勝負はプロ野球でしょうが、草野球には野球の楽しい原点があるような気がします。草野球、最近は身近であまり見られなくなりました。 

2006年09月23日

ソ連訪問で得た賜物

第35回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第36回
【読売新聞 2006年9月23日朝刊(毎週土曜日連載)】

 ソ連での滞在は、キーンさんに2つのことを考えさせることとなった。一つは、政治的なこと。二つ目は、自分が書きかけている日本文学史のことだった。

 まず、ソ連に到着したキーンさんは、安部公房に紹介してもらったリヴォーヴァ教授と会うときも、会ってからも、常に周囲を気にしなくてはならなかった。話題は日本文学のことが中心であったけれど、ほとんど歩きながらの会話となった。盗み聞きをされないためだ。バスに乗ったときは沈黙するよう彼女から囁かれた。ほとんど日本語しか使っていなかったのにもかかわらず、緊張感に強いられていたのだった。

 それでも、彼女はキーンさんの発言に驚くほど素直に反応した。建築物や芸術品を誉めると、そのために犠牲になっている人々の現実を語るのだった。キーンさんは見た物を意識的に誉めてみた。彼女の反応こそが本音で、それを知りたかったからだ。

 レニングラード大学日本語教授のエフゲーニア・ピアヌ教授にも会った。彼女も日本語は堪能だったが、日本には一度ソ連代表団の通訳として行っただけで、自由時間が2時間だったという。自由に日本に滞在できる自分と比較して同情した。 

 どのエピソードを読んでも、当時のソ連の息苦しさを現しているのですが、だいたい想像できることだったせいか、私が一番衝撃的だったのはソ連を出国するときの場面です。

 飛行機に乗ってからも、私は緊張していた。ソ連国民が最後の瞬間になって、何かの理由で飛行機から降ろされたという話を、私は聞いたことがあった。ついに、飛行機は離陸した。その瞬間、誰もがはじけるように笑い出した。何か、おかしいことがあったわけではなかった。笑いは、緊張から突然解放されたことが原因であったに違いない。スウェーデン人のスチュワーデスは、言った。飛行機がストックホルムに向けて飛び立つ時は、いつもこうです、と。

 怖い、と強烈に感じました。それまでの緊張感がリアルに伝わってきました。話は逸れますが、日本の終戦の日、何が嬉しかったといって、夜(空襲の心配が無いので)こうこうと電灯をつけたときの明るさがたまらなく嬉しかった、という話を何度も読んだり、聞いたりしました。電灯の明るさを隠さなくても良いというだけで、そんなに嬉しかったのかと驚きました。それだけでも戦時中の苦しく暗い状況が伝わってきたものです。私にはこの飛行機の乗客の笑い声も、逆に当時のソ連という国の息苦しさを象徴していると思えたのです。

 日本文学史のことでは、それまでの構想の変更を余儀なくされた。日本文学の美しさを明らかにする楽しい本を書きたいと思い、作品に対する自分の解釈や評価だけを書くつもりだった。

 ところが、ピアヌ教授との会話から、基本的な事実たとえば著者の生没年を知りたいという読者がいても、英語で調べる本が無いことに気づかされた。自分の思いだけではなく、客観的な史実も含めた本にしなければならなくなったのだ。それまでに250ページも書き上げ、あと2年もあればとふんでいた日本文学史は、結局完成までに25年もかかることとなってしまった。

 大変な作業になってしまったわけですが、キーンさんにとっては、それがソ連訪問から得た最大の賜物だったと後になって思ったそうです。

 ところで、母国語が日本語ではない人同士が日本語だけで会話をしているのは不思議な感じですね。しかも、日本以外の国のことですからなおさらです。一番面白かったのは、ピヌア教授と教え子2人がキーンさんの見送りに来た場面です。

 私たちは、日本の慣習的挨拶を交わした。「せっかく、おいでになりましたのに、なんのおかまいも出来ませんでした」「いいえ、たいへんお世話になって、恐縮に存じます」等々。この儀式的なやりとりがあった後、私は初めて車の中に相客がいるのに気づいた。それは一人の日本人で、これらの丁寧な挨拶を聞いていたに違いなかった。どうして四人のロシア人が日本語で挨拶を交わしていたのか、さぞ不思議に思ったに違いない。

 キーンさんは1月7日のインタビューで、「…おかげで私はヨーロッパのどの国に行っても日本語で会話のできる友人がいます」とおっしゃっていたけれど、こんな風に世界のあちこちでその国の人達と日本語で会話をしているのですね。なんて素晴らしいんでしょう!

第37回へ続く】

【 目次は → こちら

☆ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
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★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年09月20日

しとしとぴっちゃん

 森本哲郎著『日本語 表と裏』(新潮文庫、昭和63年)にある「しとしと」という文を読むと、日本語には擬態語や擬声語がいかに豊富にあるかを知ることができるのですが、特に水にまつわる言葉が多いことも思い出させてくれます。

「雨がしとしと降る」を、日本語が堪能な中国人に訳してもらうと、「さて、何と訳したものかなあ。強いて訳せば、細雨不停地下とでもいうかな」と言い、それでも「しとしと」という情感はとうてい伝わらないだろうと、つけ加えたとか。

 水に縁のある言葉が列挙されていました。
唱歌「春の小川はさらさら…」の「さらさら」、「ざぶざぶ」、「さめざめ」、「しっとり」、「じっとり」、「じめじめ」、「じゃーじゃー」、「じゃぶじゃぶ」、「ぽたぽた」、「ぴちゃぴちゃ」、「びしょびしょ」、「ぷかぷか」、「ぶくぶく」、「ぽつぽつ」、水から泡が立つ音「ぼこぼこ」、「がぶがぶ」、「ごぼごぼ」、「とどろ」、「ごうごう」、「どぶん」、「ぱちゃん」、「ざー」、「しとしと」

 「とどろ」は、「大波はとどろに打ち寄せ…」というように使うそうです。これは知りませんでしたが、その他は無意識に使い分けしています。「しっとり」より「じっとり」の方が水分が多いと感じられますが、この感覚は誰かに言葉で説明されて学んだのではなく、生活をしていく中で身に付いたものなので、実際その違いはなかなか日本語でも説明しにくいです。

 さて、筆者は、「しとしと」と「じとじと」、「きらきら」と「ぎらぎら」、「さーっ」と「ざーっ」などの例を出して、清音は快く、濁音は不快感を伴う感覚語になっていると述べています。なるほどと思いましたが、濁音には不快感だけでなく、力強さのようなものも含まれているのではないでしょうか。

 同じ音を重ねても、それが清音であるか濁音であるかによって、意味や情感がすっかり変わるという日本語のオノマトペは、何と微妙な言語であろうか! そろそろ歩く、といえば、その歩き方は忍びやかで、もの静かな動作だが、それを、ぞろぞろ歩く、と濁れば反対に騒がしい多勢の人間の歩行のさまとなる。

 最後は、田辺聖子さんのエッセイ『男はころり女はごろり』のタイトルを評して、<何とまあ、心憎い表現ではないか! >と締め括られています。なんだか納得できません。やはり濁音には不快感が伴ってしまうからなのでしょうか。

2006年09月18日

数学は忘れても

 最近、映画「博士の愛した数式」を観ました。終わったあと、また一つ一つの情景を思い出したくなるような映画でした。きっとあちこちに深い意味が込められているのでしょう。私にはその一部しか見えていなかったのかもしれませんが、それでも充分でした。

 ただ、数学をすっかり忘れていることを、しっかりと再認識させられました。そこで今日は、あの映画にもちょっとだけ繋がる数字のお話を紹介します。

 数学者・矢野健太郎「数学者のしゃれ」より、矢野健太郎が直接教えを受けていた掛谷宗一先生のお話。
【月刊『文藝春秋』の巻頭随筆欄に掲載され、『巻頭随筆』(文藝春秋編、文春文庫、1979年)に収録。『すうがく随筆』(新潮社)などにも収録】

 あるとき私は掛谷先生から風呂敷をいただいた。それをひろげてみると、なんとそこは、平方根マイナス・イチ、すなわち√-1 が図案化されて染めぬかれていた。

 掛谷先生から意味がわかるかと聞かれた。√-1(-1はルート記号の中にあると思ってくださいbyのん)が、iで現されることから、そこに何かあるとは思ったものの、それ以上はわからなかった。

 すると掛谷先生は、してやったりという顔をされて、
「愛はすべてを包む」
 という意味だよと言われたのには参った。
 私は、この掛谷先生のしゃれを拝借して、平方根マイナス・イチのことを忘れてしまったある女子大生に、
「御婦人が愛を忘れては困りますね」
 と言ってみたが、これはあまりうまくは通じなかった。

 しゃれは難しいですね。
このエッセイには、他にも何人かの数学者のしゃれが書かれていましたが、高木貞冶先生のところを読んで、突然昔の記憶が蘇りました。

 あるとき先生は、微分学の定理であるのに、それまでは積分学を用いて証明されていた定理を、ついに微分学だけを用いて証明することに成功された。これを発表された折りに先生は、その立派な学術論文の最後に、
「昔から言うではありませんか、ビブンのことはビブンでせよと」
 と付け加えられたたが、これには読んでいた私の方があっけにとられてしまった。

 学術論文でそう来ましたか……。
私の学生時代も、数学の先生がよく言っていたことを思い出しました。「ビブンのことはビブンで」って。でもその先生は、微分の問題は自分で解きなさいという風な意味に使っていましたっけ。肝心の授業内容はさっぱり忘れてしまっているのに、こんなことだけはしっかりと記憶にあるのでした。

2006年09月17日

安部公房との楽しい交流

第34回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第35回
【読売新聞 2006年9月16日朝刊(毎週土曜日連載)】

 大江がキーンさんとの距離をおくようになった理由は、結局わからないままだった。だからとって、まったく避けているのでもなく、好意を示してくれることも度々あった。

 安部公房と親しくなることができたのは、大江のお蔭だった。1964年秋、安部と映画監督の勅使河原宏、通訳の若い女性の三人がコロンビア大学のキーンさんのもとを訪ねてきた。キーンさんは、通訳が必要と思われて面白くなかったそうだ。それはそうだろう。それでその女性をまったく無視していた。数年後、彼女がオノ・ヨーコだったと知る。

 また、安部にしてみると、初対面のキーンさんが時差ぼけで朦朧としているのを誤解して、薬物中毒者だと思った。その後、日本滞在中、大江が渋る安部を誘い、キーンさんと三人で食事をすることになった。誤解も解けたのだろう、以来キーンさんにとって安部は、三島の死後、文学者で最も親しい友人となったのだった。ところが、キーンさんが日本を留守にしている間に、大江と安部は喧嘩をしてしまう。

 キーンさんは安部の中に飛び抜けて温かいものを感じ、政治的な誠実さにも感銘を受けた。安部は、日本共産党の党員だったことがあり、理想は持ちつづけたが、東欧で現実に起きている堕落から目を背けなかった。ソ連に招待されたときも、疑問を口にした。そのことによってソ連から目をつけられ、彼の作品の翻訳者が来日したときでさえ、会うことが許されなかった。そこでキーンさんは偶然を装い、その女性翻訳者と安部を会わせることに成功したのだった。ただ、ふだん安部との時間は、深刻なものではなく、いつも笑い声が絶えなかった。

 安部は観察力に富む言葉で私を楽しませてくれた。私の方はといえば、最も基礎的な科学的事実にもまったく無知であることで安部を喜ばせた。私は、大江と安部のような友人と知り合えて幸運だった。大江との関係は謎に包まれてしまったが、この非凡な作家について私は数多くの幸福な思い出がある。

 ところで、キーンさんはコロンビア大学で講義をするときノートを使わなかった。自身が取り上げた作品に感じた思いとその価値を学生に伝えることに専念した。内容も毎年同じにならないよう心掛けたし、楽しかった。そのうちに、自分の講義を本にしてみようかと思いついた。学生だけでなく、広く一般の人々にも有益な知識となればよいと思ったのだ。

 250ページほど下書きが出来た頃、東京・モスクワ間の空路の開設が許可されたことを知り、突然ソ連に行ってみたくなった。安部公房にソ連の知り合いを紹介して欲しい頼むと、彼の作品の翻訳者イリーナ・リヴォーヴァの名前と住所を書いてくれた。

 さて、今回出てきた安部公房と大江健三郎の喧嘩というのは、有名な話なのでしょうか。何も知らない私ですが、その原因は政治的なものなのでしょうか、それとも文学的なこと、あるいはもっと個人的なことなのでしょうか。時期的にどうなのかわかりませんが、その二人の喧嘩が、大江とキーンさんとの関係に何らかの影響を与えてはいないのでしょうか。 

第36回へ続く】

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☆ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
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★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て
53年、京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
「日本文学の歴史」「明治天皇」「思い出の作家たち」など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年09月15日

やっこらしょ

 昔の旧制中学でのエピソードが書かれているのだと思い込み、気楽に読み進んだ。作曲家・服部公一「やっこらしょ、どっこいしょ」というエッセイ('74年)は、ユーモアのある書き出しだったのだ。
【月刊『文藝春秋』の巻頭随筆欄に掲載され、『巻頭随筆』(文藝春秋編、文春文庫、1979年)に収録されたもの】

 松木先生というそれはそれは怖い英語の先生がいた。生徒たちは先生の罵詈雑言に耐え、飛んでくるチョークに怯えなくてはならなかった。先生の言葉は不勉強な生徒たちの心を容赦なくえぐった。

 したがって、松木先生の授業の始まる前の休み時間は、誰一人室外に出ず、戦々兢々のうちに秒きざみの予習をし、気の弱いものは、もはや上がり気味で、赤くなったり青くなったりしているていたらくであった。

 クラスにMという少年が居た。背は低いのだが、フットボールの試合などで自分より大きな相手をはねとばしかけ回るファイトマンだ。Mも松木先生の授業の前はかなり緊張して、細心の下調べをしていた。

 そして、始業のベルが鳴るとつとめて気をひきたたせるようにおどけた調子で
「やっこらしょ、どっこいしょ」
 と調子をつけてドスンと椅子に腰をかけ、この苛酷な授業を待つのであった。
 Mのこのひょうきんなかけ声は、近くの席のもののまねるところとなり、そこここで、「やっこらしょ、どっこいしょ(……ドスン)人事を尽くして天命を待つ、どうぞ松木先生おてやわらかに」という風に使われ、この授業の前のはやり言葉になっていた。

 ところが、このエッセイは最後になって思わぬ展開をみせる。高校卒業し、二十数年のブランクのあと同窓会に現れたMは、国際線機長となっていた。

 そして再会後数ヶ月の昭和四十七年十一月二十九日、彼はモスクワ・シュレメチェボ空港で離陸に失敗して墜落したDC8の機長として死んでしまったのである。
 えものにうえていたはげ鷹のように、マスコミはその事件をとり扱い、機長の気のゆるみがこの大事故の原因ではないかとまことしやかな推論をたてた。
 それが証拠には、ボイスレコーダーの録音テープに、
「やっこらしょ、どっこいしょ……」という機長のおどけた声が残っているというのである。
 しかし、その衝撃のニュースの中で、私は二十数年昔の松木先生の英語の時間をすぐ想い出し、あのおどけた声が、気のゆるみのあらわれなどでは決してないということを確信していた。
 早いもので彼の一周忌もすぎてしまった。

 27年前、最初にこの部分を読んだときは愕然とした。これは濡れ衣ではないか、ちゃんと真相は解明されたのだろうかと心配し、マスコミの取材も偏見に満ちている、と憤慨した。そんな風に正義感に燃えた。

 しかし、今もう一度読んでみると、自分だって同じじゃないかとゾッした。もし、その事件のとき、「『よっこらしょ、どっこいしょ』というおどけた声が……」などと聞いたら、私もきっと「機長はたるんでいたんだ」と思ったに違いないのだ。今でもテレビなどのマスコミから流れる情報に、(乗せられまいと思いつつ)乗せられている。

 「よっこらしょ、どっこいしょ」という声が残っていたことは”事実”であってウソではない。だが、第三者が”事実”を繋ぎ合わせたからといって、必ずしも”真実”にはならないということだけは、肝に銘じていこうと思っている。

2006年09月13日

快食快眠快便・考

 入院すると、看護婦さんから毎日「食事はどのくらい食べられましたか? 夜よく眠れましたか? 昨日は、おしっこと便は何回出ましたか?」などと聞かれる。病気の種類にかかわらず共通した質問のようだ。やはり人間の体調管理の基礎なのだろう。実際、この中のどれかひとつでも不調になると苦しいもので、他のふたつにまで影響してくる。健康なときには何とも思わなかったこれらのことが、いかに大切かと思い知らされることになる。

 今日も古いエッセイをご紹介。本のタイトルはズバリ『快食快眠快便』(文春文庫 1990年12月)。ここでの有名人約80人の体験談が面白い。(敬称略)
1970年頃から20年間『オール読物』の連載コラム「快食快眠快便」から選ばれて収録されたもので、1990年の文庫収録にあたって本人により追記されているものもあります

 「快便」にまつわる話の中で、和田アキ子のエピソード。
デビューしたての若かりし和田が便秘薬を飲もうとしたところ、佐々木勉に見つかり、何の薬かと尋ねられた。若い女性なら誰しも言葉を濁すだろう。彼女も例外ではなく、つい二日酔いの予防だと答えてしまう。だったら俺も、というわけで和田の飲んだ2倍の量を口の中に放り込んでしまった。佐々木が翌日寝込んでしまったのは言うまでもない。しかも食中毒だと信じたまま…。男性は女心を察しましょう。

 タイトルが「快食快眠快便」でも、便について語られている部分が一番長いようだ。多くの人たちが熱心に詳細に書いている。他人には感心が薄い話題なのに、当人にとっては相当意味のあることだとよくわかる。

 「食」生活は、かなりめちゃくちゃな人が多く、例えば鈴木義司は、飲んだあとでも深夜にトンカツを食べ続ける。痛風になってもやめられない('70年)。同じ漫画家でも福地泡介は、逆に食べるという作業が面倒で、ちょっと箸をつけただけで嫌になる('72年)。伊丹十三は一日一食。徹底的な空腹感を味わわないと気が済まないのだという('76年)。ストイックなところが、”らしい”。

 作家の胡桃沢耕史にいたっては、あるときから、食べるのは肉だけにしようと決めた。穀物は消化が悪く、肉は消化が良いと思ったからだ。消化が良ければ胃の負担が少なく、胃さえしっかりしていれば、脳に血が回り、心臓に活力が届くと考えた。

 そこでぼくは決めたのです。経済力と事情が許せば、今後一切の食事を肉に統一しよう。一人ぐらいそんな人間がいてもいいのではないか。単に便を増やすだけの野菜や果物は口に入れずに生きてきました。
 おかげで一日一回、完全にこなれたものをストンと落とすだけ、我が生涯は、消化不良、下痢、便秘、全くしらずの快調です。
('81年)

 これを読んで、本当にそんな食生活で快調なのかと不思議に思う方も多いはず。心配は現実のものとなっていました。10年後の追記にはこう書かれていたのです。考えさせられます。

 ところが大変。肉だけでは、人間はやはり六十四歳までしか生きられません。去年血管に脂がつまって、心筋梗塞、やっと生命は取り止めましたが、今のぼくは本来なら没後の一年を、細々と生きています。

 さて、「眠」に関しては、あまり印象に残った話がありません。
ただ、作家の渡辺淳一が外科医だったころ、手術中に居眠りをしてしまったという話はおそろしかった。 

2006年09月11日

忘れられない帽子

 これは大切なものだからと慎重に扱ったつもりのものを壊してしまったり、紛失してしまったりすることがある一方、たいした思い入れもなく、気にも留めていないものが、いつまでもなくならないものである。漫画家、水木しげるさんのエッセイ「帽子の魂」を読んでそんなことを思い出した。
【1983年の『現代』5月号に掲載され、単行本『午後おそい客 ―'84年版ベストエッセイ集―』(日本エッセイスト・クラブ編、文春文庫、1987年出版)に収録】

 水木さんは、帽子を愛用している。それが高価なものほど早く紛失してしまうのだという。ご本人も忘れっぽいらしく、置き忘れが多いのだ。奥様が買ってきたものだけでも13個もなくし、外国製で高価だったものなどたった3日でなくした。それではということで、ある日奥様はバーゲンで300円のベロンとしたものを買ってきた。

 これは、もういつ忘れてきても良し、という前提で買われたものなので、適当に扱っていた。夫婦して帽子として認めていないため、水木さんはふんずけても気にならず、奥さまはよごれても洗濯することもなかった。ところが、これだけは3年経っても、4年経ってもなくならない。

 だいぶくたびれてきたが、捨てるのもしのびないので、いろんな策を考える。これが面白い。親戚の家や本屋などにわざと置き忘れたりするのだが、必ず戻ってくる。電車の窓から顔を出して帽子と飛ばそうとして、車掌に注意される。何をやっても帽子は水木さんから離れようとしないのだ。

 そして、7年が経ったある日、突然お別れの日がきたようだった。帽子は橋の上から突風に飛ばされ、川に落ちてしまったのだ。下を見ないで帰宅した。嬉しかった。たぶん解放された嬉しさだろう。

 しかし、あくる日、巡査がきて「お名前がかいてあったものですから……」と、魔の帽子を渡された時は「もうだめだ」と思った。この帽子は捨てることの出来ない帽子なのだ。なぜならば、ある種のタマシイを持っているからだ。
 今日も喫茶店で帽子をわすれた「センセイ、御帽子が……」と編集者に注意された。いやこれは編集者が注意したのではなく、帽子が注意させたのだ。”器物百年を経れば魂を得る”という言葉もある。

 ここまでくると、本当に魂を持っていると思いたくもなるでしょうね。ただ仮にそうだととしても、ではなぜ大切に扱った帽子に魂が宿らずに、ぞんざいに扱った方に魂が宿ったのでしょうか。”器物百年を経れば魂を得る”というのは初耳ですが、この帽子は長年使ったから魂を持ったのではなく、最初からもう魂を持っていたようです。なんとも、不思議な話です。

 さて、これは二十数年前のお話でした。その後いつごろまでその帽子は健在だったのでしょうか。先日のニュースでは、水木しげる先生は、出身地の鳥取県境港市で開催された「妖怪そっくりコンテスト」で審査委員長をしていらっしゃいました。たいそう盛り上がったそうです。水木先生はとても感激して、出場者に「これからもりっぱな妖怪になれるようにがんばって下さい」とおっしゃったとか。

水木しげる先生の近況はこちらでどうぞ!

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