【
第40回の続き】
ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第41回
【読売新聞 2006年10月28日朝刊(毎週土曜日連載)】
川端康成にノーベル文学賞受賞は何をもたらしたのだろう。川端自身も受賞を喜び、世間からの尊敬の的となったが、その名声を確かなものとするような作品を、もはや書くことが出来ないようだった。
三島も川端の受賞を喜んだが、次に日本にノーベル文学賞の順番がまわってくるのには、地理的要因から少なくとも20年はかかることを知っていた。それまで待てなかった。
ノーベル文学賞受賞の望みは、三島を自殺から遠ざけていた。しかし今やその望みは打ち砕かれ、彼の「ライフワーク」である最後の四部作は終わりに近づこうとしていた。死への道をさえぎるものは、何もなかった。
つまり、こういうことなのでしょうか。三島にはもともと自殺願望があったけれど、ノーベル文学賞受賞を夢見ていたため、思いとどまっていた。しかしそれが叶わぬ夢となったため、自殺を決行したと。ではなぜ三島には自殺願望があったのでしょうか。それに、ノーベル文学賞の順番というものがあるのも驚きでした。確かに川端康成が1970年、大江健三郎が1994年と、24年かかってますが。
川端は、1972年秋に開催される外国人日本文学研究会議の発起人となっていた。しかし会議の半年前に自殺を遂げた。
大岡昇平によれば、ノーベル文学賞が三島と川端を殺したのだった。
もし三島がノーベル文学賞を受賞していたら、歴史はどう変わっていたのでしょう。いえいえ、歴史に「もし」は無いのでした。
さて、ここから話は1982年になります。ある宴会の席で大いに酔った司馬遼太郎が、同席していた朝日新聞編集局長に対して、大声で「朝日は駄目だ」と言った。「良い新聞にする唯一の方法はドナルド・キーンを雇うことだ」とも言った。
朝日側はこれを酒の上での冗談として受けとめず、助言として従うこととした。一週間後、当時論説委員だった永井道雄から連絡があり、キーンさんは客員編集委員のポストを与えられた。自分自身の資格に疑問はあったが、光栄に思い引き受けた。
日本人からよく尋ねられる共通の質問について「日本人の質問」という連載を書いたところ評判が良く、そこから十年間キーンさんは朝日で働き、3つの長期連載を書いた。9世紀から19世紀にかけて日本人が書いた日記の研究「百代の過客」、これは本になり読売文学賞、新潮日本文学賞の2つを受賞した。
次の連載は、その続編で、1920年代の日記が対象となった。一般に知られていない日記を取り上げた。3回目の連載は、「声の残り」という作家たちとの交友録だったが、連載時になかなか好評だったわりには本は売れなかった。1992年に70歳で朝日新聞を退職し、翌年に「日本文学の歴史」の最終刊を刊行する。
まだまだ書きたいキーンさんは次のテーマを探していた。ある雑誌から次の本のための連載を依頼してきたとき、日本人の伝記なら書けそうだと思った。
私の頭にひらめいたのは、明治天皇が日本の天皇の中で一番偉大な君主と称賛されていたにもかかわらず、英語で書かれた伝記が無いことだった。日本語で書かれた伝記も、ほとんど無いに等しかった。明治天皇は、確かに伝記を書くに値した。
偶然にもその数促月前、値段がとても安かったという理由で、「明治天皇紀」全十三巻を買っていたのだった。それらが、伝記を書いていくうえでの道しるべとなっていった。
さて余談ですが、今日の挿絵の明治天皇のお顔を見て、「あれ?」と思った人も多いのではないでしょうか。もっと眉毛が太くて瞳が大きい、立派な口髭の写真だけしか知らない人ほど、違和感があるかもしれません。でもこの絵は、明治6年、明治天皇が20歳の頃、内田九一によって撮影された写真を忠実に絵にしています。テーブルの位置や身につけているものを多少アレンジしてありますが、お顔に関してはそのまんまです。
なぜそんなことに詳しいのかというと、たまたま昔読んで、今も手元にある本、猪瀬直樹/著『ミカドの肖像』の「つくられた御真影」にその写真と解説が書かれているためです。ご存知の方も多いでしょうが、明治天皇は写真嫌いであったため、よく知られている明治天皇の「御真影」はご本人を撮影したものではなく、明治21年、明治天皇36歳の時、当時日本に造幣技術指導のために招かれていたイタリア人、エドアルド・キヨソーネによって描かれた肖像画を撮影したものでした。
しかも長時間モデルになっていただくわけにはいかないので、「陰ながら玉顔を拝する」という形でこっそり観察して、あとで描くしかなかった。年齢の違いだけでは説明できないギャップは、そんなところから生まれたようです。
ちなみに、有名な西郷隆盛の肖像画も、このキヨソーネが明治16年に描いたもの。西郷が亡くなって6年後のことで、本人の写真もなく、会ったこともないため、近親者の顔形などから想像して描いている。上野の西郷像は、この肖像画をもとにして作られたもののせいか、除幕式のとき、西郷隆盛の妻、綿子夫人が「うちの人はこげな人じゃなか」と言ったとか。
猪瀬直樹によれば、キヨソーネが描いた他の皇族や明治の元勲(大久保利通、木戸孝允、岩倉具視など)の肖像画は等身大の日本人像なのに、明治天皇と西郷隆盛のだけが西洋人的特徴を持っていた。猪瀬は多くの資料を提示して、「キヨソーネは、わずかな想像の余地がある場合は、彼が日本に来るまで描いていた西洋人の面立ちに回帰してしまいやすい」と結論づけています。
話がずいぶんと脱線してしまいましたね。今日はこのへんで。
【
第42回へ続く】
【 目次は →
こちら 】
★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/)
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。◆ 『昨日の戦地から』
(ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)
終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)
★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。