2006年10月31日

カメラマンという存在

 棋士・先崎学さんの「先ちゃんの浮いたり沈んだり」【週刊文春 2006年11月2日号】に、カメラマンについての素朴な疑問が書かれています。私も兼ねがね同じようなことを思っていたので、面白く読みました。

 動いている被写体なら腕の良し悪しがあるだろうし、静物だとしても照明や位置などを決めるところまではカメラマンの技術が介在するのもよく分かる。しかし、それらの状況が決まってしまえば、あとは誰がシャッターを押そうが同じではないか、というのが先崎さんの疑問でした。

 先崎さんは、酒の席で友人のカメラマンに、この疑問をぶつけ「私が押すのとプロが押すのとでは、何が違うのだろうか」と尋ねたけれど、「お前が押すのと俺が押すのじゃ、全然違った写真になる」と返された。理詰めで説明を求めても、「それが写真というものなのだ」と言われてしまう。分かる人から、分からない人に、言葉では説明できない次元の話なんでしょう。

 私は納得できなかったが、同時に感動も覚えていた。自分から一番遠いところにある奥深い世界に胸がときめいたのである。

 私も芸術からほど遠い人間なので、自分の理解を超えた世界に憧れもありつつ、自分に感じられないものを感じることができる人たちが不思議でもあります。名画を前にして、どう説明されても、私にはわからないと思うのです。

 写真でなくともよい。絵、音楽など、真の意味で理詰めではない世界に生きてみたいとよく思う。今さら無理なことは分っているが、だからこそ強く憧れる。

 同感です。いわゆる”クリエイティブ”な仕事や趣味を持っている人が羨ましいです。ただ、理詰めの世界といっても、プロ棋士の頭の中だって、私たち素人から見たら芸術的ですらありますけどね。
のり at 10:20 | Comment(2) | TrackBack(0) | 先崎学

2006年10月30日

紙で豊かな気分に

 【週刊文春 2006年11月2日号】の最後に、「紙と私」という日本製紙連合会提供のページがあります。今週の執筆者は、作家の出久根達郎さんで、子供の頃からの話で始まっています。

 実家が印刷屋さんだったので、いつも紙は身近な存在であり、大切なものだったとか。「破れ」と呼ばれる印刷物の傷ものをもらって、絵を描いて遊び、近所の子たちにせがまれてその絵をあげていた。

 ところが子の親が、ある日、血相を変えてどなりこんできた。縁起でもない、と私の絵をつっ返す。図柄ではない。用紙である。黒枠が印刷された破れであった。
 戦争中、父の仕事は、戦死者の挨拶状を印刷することだった。

 小説を書くようになった出久根さんは、その下書きには裏白のチラシを使っていた。それを知った友人や読者から、裏白チラシを大量に送ってもらったことがあった。下書きだけでは使い切れないので、ファクシミリの送信用紙に使っていたのだが…。

 ある日、送信先の友人から、文面が読みとれない、と苦情を言われた。
「サンマが三匹で二百八十円、という字が見えるぞ」と言う。チラシ広告の裏うつりが、そのまま送信されたらしい。誰も指摘してくれなかったが、言うのは悪いと思ったのだろう。

 そんなのが送られてきたら、笑っちゃいますね。読み取れないのは困り物ですが、微笑ましくも思ったことでしょう。今はメモ用紙に使うくらいなのに、つい裏白チラシを溜めてしまうそうです。紙があると豊かな気分になる、と書いてあるのですが、私にも似たような感覚があります。自分でもその理由は説明はできないのですが、どうしてなのでしょう。

2006年10月28日

'82 朝日新聞の客員編集委員となる

第40回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第41回
【読売新聞 2006年10月28日朝刊(毎週土曜日連載)】

 川端康成にノーベル文学賞受賞は何をもたらしたのだろう。川端自身も受賞を喜び、世間からの尊敬の的となったが、その名声を確かなものとするような作品を、もはや書くことが出来ないようだった。

 三島も川端の受賞を喜んだが、次に日本にノーベル文学賞の順番がまわってくるのには、地理的要因から少なくとも20年はかかることを知っていた。それまで待てなかった。

 ノーベル文学賞受賞の望みは、三島を自殺から遠ざけていた。しかし今やその望みは打ち砕かれ、彼の「ライフワーク」である最後の四部作は終わりに近づこうとしていた。死への道をさえぎるものは、何もなかった。

 つまり、こういうことなのでしょうか。三島にはもともと自殺願望があったけれど、ノーベル文学賞受賞を夢見ていたため、思いとどまっていた。しかしそれが叶わぬ夢となったため、自殺を決行したと。ではなぜ三島には自殺願望があったのでしょうか。それに、ノーベル文学賞の順番というものがあるのも驚きでした。確かに川端康成が1970年、大江健三郎が1994年と、24年かかってますが。

 川端は、1972年秋に開催される外国人日本文学研究会議の発起人となっていた。しかし会議の半年前に自殺を遂げた。
大岡昇平によれば、ノーベル文学賞が三島と川端を殺したのだった。

 もし三島がノーベル文学賞を受賞していたら、歴史はどう変わっていたのでしょう。いえいえ、歴史に「もし」は無いのでした。

 さて、ここから話は1982年になります。ある宴会の席で大いに酔った司馬遼太郎が、同席していた朝日新聞編集局長に対して、大声で「朝日は駄目だ」と言った。「良い新聞にする唯一の方法はドナルド・キーンを雇うことだ」とも言った。

 朝日側はこれを酒の上での冗談として受けとめず、助言として従うこととした。一週間後、当時論説委員だった永井道雄から連絡があり、キーンさんは客員編集委員のポストを与えられた。自分自身の資格に疑問はあったが、光栄に思い引き受けた。

 日本人からよく尋ねられる共通の質問について「日本人の質問」という連載を書いたところ評判が良く、そこから十年間キーンさんは朝日で働き、3つの長期連載を書いた。9世紀から19世紀にかけて日本人が書いた日記の研究「百代の過客」、これは本になり読売文学賞、新潮日本文学賞の2つを受賞した。

 次の連載は、その続編で、1920年代の日記が対象となった。一般に知られていない日記を取り上げた。3回目の連載は、「声の残り」という作家たちとの交友録だったが、連載時になかなか好評だったわりには本は売れなかった。1992年に70歳で朝日新聞を退職し、翌年に「日本文学の歴史」の最終刊を刊行する。

 まだまだ書きたいキーンさんは次のテーマを探していた。ある雑誌から次の本のための連載を依頼してきたとき、日本人の伝記なら書けそうだと思った。

 私の頭にひらめいたのは、明治天皇が日本の天皇の中で一番偉大な君主と称賛されていたにもかかわらず、英語で書かれた伝記が無いことだった。日本語で書かれた伝記も、ほとんど無いに等しかった。明治天皇は、確かに伝記を書くに値した。

 偶然にもその数促月前、値段がとても安かったという理由で、「明治天皇紀」全十三巻を買っていたのだった。それらが、伝記を書いていくうえでの道しるべとなっていった。

 さて余談ですが、今日の挿絵の明治天皇のお顔を見て、「あれ?」と思った人も多いのではないでしょうか。もっと眉毛が太くて瞳が大きい、立派な口髭の写真だけしか知らない人ほど、違和感があるかもしれません。でもこの絵は、明治6年、明治天皇が20歳の頃、内田九一によって撮影された写真を忠実に絵にしています。テーブルの位置や身につけているものを多少アレンジしてありますが、お顔に関してはそのまんまです。

 なぜそんなことに詳しいのかというと、たまたま昔読んで、今も手元にある本、猪瀬直樹/著『ミカドの肖像』の「つくられた御真影」にその写真と解説が書かれているためです。ご存知の方も多いでしょうが、明治天皇は写真嫌いであったため、よく知られている明治天皇の「御真影」はご本人を撮影したものではなく、明治21年、明治天皇36歳の時、当時日本に造幣技術指導のために招かれていたイタリア人、エドアルド・キヨソーネによって描かれた肖像画を撮影したものでした。

 しかも長時間モデルになっていただくわけにはいかないので、「陰ながら玉顔を拝する」という形でこっそり観察して、あとで描くしかなかった。年齢の違いだけでは説明できないギャップは、そんなところから生まれたようです。

 ちなみに、有名な西郷隆盛の肖像画も、このキヨソーネが明治16年に描いたもの。西郷が亡くなって6年後のことで、本人の写真もなく、会ったこともないため、近親者の顔形などから想像して描いている。上野の西郷像は、この肖像画をもとにして作られたもののせいか、除幕式のとき、西郷隆盛の妻、綿子夫人が「うちの人はこげな人じゃなか」と言ったとか。

 猪瀬直樹によれば、キヨソーネが描いた他の皇族や明治の元勲(大久保利通、木戸孝允、岩倉具視など)の肖像画は等身大の日本人像なのに、明治天皇と西郷隆盛のだけが西洋人的特徴を持っていた。猪瀬は多くの資料を提示して、「キヨソーネは、わずかな想像の余地がある場合は、彼が日本に来るまで描いていた西洋人の面立ちに回帰してしまいやすい」と結論づけています。
 
 話がずいぶんと脱線してしまいましたね。今日はこのへんで。

第42回へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年10月26日

向かってるんです

 バイオリズムの波が下降しているのかもしれない、と思うことありませんか。何をやってもうまくいかないし、心配事も多いし、溜め息が続くとき、現実から逃げてしまいたいことありますよね。

 劇団ひとりのエッセイ「そのノブは心の扉」【週刊文春 2006年11月2日号】の今回のタイトルは、「誘惑する別れ道」というもので、衝動的に失踪したくなった日のことが書かれています。

 仕事や人間関係でストレスが溜まったある日、仕事帰りに首都高速をクルマで走っていて、あてもなく遠くに行きたくなってしまった。降りるはずのインターチェンジをそのまま直進してしまう。「名古屋まで350キロ」という標識も目に入る。どこにいつまでという予定もなく、ただ遠くへ向かう。そして、あるパーキングエリアにいったん止まるのですが、そこの描写が目を惹きました。

 駆け足でトイレに入り力強く息むとパチンコ玉ぐらいの球体がコロコロと何個か出てきました。僕はストレスを感じると必ずと言っていいほど便秘になり、小さな玉を排出するんです。

 神経性の下痢は知っているけれど、そういう場合もあるんですね。それで
トイレを出て、鏡を見ると目が赤く充血していました。真っ赤な目と小さなフン、ひょっとしたら僕の前世はウサギなのかもしれません。
と書いています。ウサギに結びつけたのが意外で面白いです。

 車中で仮眠をとった後、早朝軽いストレッチをしてからクルマを出発させる。寝たぐらいで冷静になって引き返すほど意気地無しではないと言いつつ、道路標識が東京に近づいていることを示している。

 これは別に引き返しているワケじゃなく、向ってるんです。行き先は何処でも良かったんですから、別に名古屋じゃなくても東京だって良いはずです。帰っているのか、それとも向かっているのか、それは本人の気持ち次第なのです。

 言い訳に聞こえるかもしれないけれど、そうじゃないですね。これは発想の転換で、向かう方向が問題なのではなく、”本人の気持ち次第”なんですよね。

 結局失踪先が、東京の自宅となるのですが、またウサギが出てきます。
 体調の方もすこぶる良くて、つい先ほども硬くて太いウンコが出てきました。ひょっとしたら僕の前世は硬くて太いウンコをするウサギなのかもしれません。

 元気になって何よりです。でも今はテレビの仕事も順調そうで、本も売れているのに、失踪したくなることもあるのですね。仕事が増えて余計にストレスの原因も増えたのかもしれません。それにしても、”気持ち次第”って考え方、気に入りました。私も今気持ちが下向きっぽいので、発想を変えてみようかなぁ。
のり at 11:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 劇団ひとり

2006年10月22日

川端康成と三島由紀夫とノーベル文学賞

第39回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第40回
【読売新聞 2006年10月21日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんは、1月24日の三島由紀夫の葬儀直前に日本に着いた。葬儀のとき弔辞を述べることをいったん引き受けたが、親しい友人たちに葬儀に出席してはいけないと止められた。三島の右翼思想を擁護しているように取られてはまずいという理由だったからだが、その助言に従ったことを、あとで何度も後悔した。

 私は三島夫人を訪問した。三島の写真がある祭壇に、私は彼に捧げた自分の翻訳「仮名手本忠臣蔵」を置いた。その本には、下田で会った時に三島がこの浄瑠璃から選んだ一節が題字として掲げられていた。

 国治まってよき武士の忠も武勇も隠るゝに。
たとへば星の昼見えず、夜は乱れて顕はるゝ。

「平和な時代では、立派な武士の忠義や武勇も目立たない。それは昼間には見えなくて、夜暗くなったときに姿を現す星のようなもの。(つまり武士の忠や武勇は、いざというときに初めて見えるもの)」という感じでしょうか。古文の読解力が無いので自信ありませんが…。それにしても、三島由紀夫は、生まれる時代を間違えた武士だったのかも、と言ったら言い過ぎでしょうか。

 川端康成が葬儀委員長を務めた。彼は今までに数多くの葬儀に出席していた。

 しかしこの葬式は、川端にとってとりわけ辛いものがあったに違いない。三島の文学的才能を認めた最初の一人である川端は、一九五七年に三島に宛てた手紙の中で、もし自分の名が日本文学史に残るとしたら、それは三島を「発見した」人物としてだろうとまで言ったのだった。

 川端が三島をどれほど高く評価していたかが分かります。その才能あふれる、しかも自分より若い三島の衝撃的な死は、川端の心に何を残したのでしょうか。想像すらできません。

 キーンさんは、川端の私生活のある一面に触れることがあった。川端は孤独を渇望すると同時に、バーで楽しむことも好きだった。キーンさんは、川端の秘密めいたことに巻き込まれそうになったこともあったが、川端夫人を悲しませたくないので協力しなかった。

 キーンさんは、三島がノーベル文学賞を受賞すると思い込んでいた。スウェーデンの一流出版社の重役からほのめかされていたこともあったが、
ダグ・ハマーショルドが「金閣寺」の翻訳を読み、三島を高く評価することをスウェーデン・アカデミーに伝えていた。この筋からの推薦は、軽視されないということだった。

 だから、川端が受賞したことは大きな驚きだったのだ。川端が受賞するにふさわしいことも認めるし、祝福したい気持ちがあるにもかかわらず、スウェーデン・アカデミーがなぜ三島に賞を与えなかったのかが、今でもキーンさんにとって謎となっている。

 1970年5月、キーンさんはコペンハーゲンの友人宅に招かれた。そこで会った人物が「私が川端に賞を取らせたのだ」と言った。ノーベル賞委員会がこの人物に意見を求めた際、三島の受賞を強行に反対し、川端を推したためだと言うのだった。三島の受賞を妨げた理由は、三島が比較的若いため過激派に違いないと判断したためだそうだ。

 ノーベル賞委員会がなぜこのような人物に意見を求めたのでしょうか。1957年の東京での国際ペンクラブ大会に出席したその人物と会っているキーンさんは
日本で数週間を過ごしたお蔭で、どうやら彼は日本文学の権威としての名声を得たようだった。
と、痛烈な皮肉を込めて書いています。いずれにしてもこの人物は、三島のことを何も知らないで反対したわけですね。

 本当に、そんなことがあったのだろうか。三島が左翼の過激派と思われたせいで賞を逸したなんて、あまりに馬鹿げている。私は、そのことを三島に話さずにいられなかった。三島は笑わなかった。

 いくらなんでもそんな現実を無視した理由で受賞を逃すなんて、しかもその主張にノーベル賞委員会が承服したなんて、そんなことはあり得ないと思っているキーンさんは、笑い話のつもりで話したのでしょう。その人物が、自分の影響力を誇示するために作った話とも受け取れますからね。でも、…三島は笑わなかった。

第41回へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年10月20日

今パソコンを買うとしたら

 きょうは、いつもと内容が違って、今困っていることを書きたいと思います。知人が、ここ2,3ヶ月のうちにパソコンを購入する予定です。仕事で(個人情報が漏れないようにネットに繋ぐことを禁じられている)パソコンは使っていますが、ネットに関しては初心者です。どんな機種が良いか見当もつかないということで、私も一緒に買物についていくことになりました。(といっても私も詳しいわけではありません)

 そこで、少し情報を集めてみたのですが、一番の問題はOSです。Windows Vista が来年1月か2月にも発売されるということで、それまで待つという手もありますが、しばらくはきっと不安定でトラブルもあるでしょう。だとしたら、Windows XP 搭載機で良いと思っていました。Vista 発売直前ということで安くなってるでしょうし…。(価格も重要です)

 ところが数日前、Windows XP Home Edition のサポートが、Vista発売から2年間で打ち切られることを知りました。ということは、あと2年ちょっとしたら、Vista にアップグレードしなければ、セキュリティ面を考えると使えないことになるのでしょうか。

 そういうのって、慣れていない人にとっては、けっこう面倒な作業ですよね。それに、メールとたまにネットを利用するくらいだったら、わざわざVistaにする必要もないように思います。

 それで、Windows XP Professional ならば Home Edition より5年先まで(つまりあと7年)サポートされると聞きました。ということは、Windows XP Professional 搭載機を買うのが一番手間がかからないと、いまのところ思っているのですが、何か重大なことを見落としているような気もします。そこで質問なのですが、

1.Windows XP Professional のサポート期間は
  あと最低7年間はあるというのは正しい情報でしょうか?

2.Windows XP Professional 搭載機は、
  一般の量販店でも注文できますか?

3.NEC Directのようなメーカー直売サイトでカスタマイズして買う場合、
  何か注意点がありますか?

 これ以外のことでも、今、新規でパソコンを買う上でのアドバイスがありましたら、教えていただけたら助かります。よろしくお願いいたします。
のり at 13:17 | Comment(5) | TrackBack(1) | 時事・話題

2006年10月19日

松井が思うヤンキースに足りなかったもの

 日の暮れるのが早くなったり、朝晩冷え込んだりと、なんだかもの寂しい気持ちになっているここ数日です。久しぶりに週刊文春(2006年10月26日号)を読んでみると、鷲田康さんの「松井秀喜インサイドレポート2006」も今年の最終回になっていました。

 飛行機事故でビルに激突して亡くなったコーリー・ライドル投手のことが最初にありました。松井のリハビリ中にヤンキースに移籍してきたので、それほど話をしなかったそうですが、非常に物静かでジェントルマンという印象だったそうです。ご冥福をお祈りいたします。

 この事故がとどめのように、今年のヤンキースは松井のケガに始まり、悪夢を見た年でした。結局またワールドシリーズに出場できませんでした。鷲田さんから、地区シリーズで敗退してしまった理由を問われると、松井の口から「チームに対する気持ち」という言葉が返ってきました。

――気持ち?
「そう。選手個々がどれだけチームに強い気持ちや犠牲心を持っているか。チームに対する忠誠心の大きさ、強さだと思います」
(略)
――スタンドから観ているとジーターの気迫は、ヒシヒシと伝わってきます。
「そうですね。彼のそういうものは同じフィールドにいても感じます」

 このあとAロッドやシェフィールドの名前を出して質問すると、松井は上手にはぐらかしていますが、とにかく選手全員がそういう強い気持ちを持たないと勝てないと信じているようです。松井らしい考え方だと思いました。

 松井の野球人生にとっても、悪いことばかりの一年だったけれど…、
「ただ、復帰のときのあのスタンディング・オベーションだけは生涯忘れられないと思います。(略)ああやってケガから戻ってきて、ただそれだけで5万人のファンの拍手に迎えられるというのは、これから先もないでしょう。これはない方がいいんですけど(笑)。でも、ボクは本当に幸せだと思いました」

 来年の「松井秀喜インサイドレポート2007」に楽しい話題が増えますよう、まず怪我をしっかりと治して欲しいものです。まだ多少のしびれと腫れが残っているようですからね
のり at 14:41 | Comment(0) | TrackBack(1) | 鷲田康

2006年10月17日

たった2つ

「じんむ、すいぜい、あんねい、いとく……」と聞いて、何のことかすぐにわかる人は何歳以上でしょうか。戦前の小学生たちは、この歴代の天皇の名を初代から全部暗誦したのだそうですね。今調べてみたのですが、大正天皇までで123代もありました。

 1928年生まれの作家・澁沢龍彦(しぶさわたつひこ)のエッセイ「記憶力について」(『文藝春秋』1983年9月号の掲載、のちに文春文庫『巻頭随筆W』に収録)を読むと、昔の人はこればかりではなく、いろいろと暗記させられたようです。

 小学生のときは、先ほどの歴代天皇の名以外にも、「教育勅語」や「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」を、(澁澤さんの)旧制中学では、英語の時間に必ず、前の授業で習った個所を暗誦させられたとか。

 国語で「太平記」を習えば、さっそく「落花の雪に踏み迷う、交野の春の桜がり……」の道行文を暗誦させられた。子どもの頃の記憶力はというものは恐るべきもので、今でも私はほとんど間違えることなく「池田の宿に着き給う」まで暗誦できるのである。

 すごいですよね。この文を書いたときの澁澤さんは55歳ですから、40年以上前に覚えた長文なのに、それがすらすら出てくるわけですからね。子供の頃覚えたことは残るのでしょうか。

 私たちの時代、学校で暗誦させれることは、どのくらいあったのでしょうか。それすら記憶にありません。今でも覚えているのは算数の九九くらいかも…。

 子供の頃、記憶力を鍛えておかなかったせいか、ただの生まれつきなのか(たぶんこちらだと思う)、私は丸暗記というものがとても苦手です。今日も失敗をしてしまいました。

 覚えられないことを自覚している私は、たいてい買物リストを書いたメモを片手にスーパーで買物をします。いつも冷蔵庫に貼ってあるメモに、思いつくたびに書きこんでおくのです。今日は他の用事の帰りにスーパーに寄る予定でした。

 出かけるときにメモに目をやると、2つしか書いてありません。「たった2つかぁ、あとはいつも買うものを買えばいいんだし、2つくらい、さすがの私でも忘れないしょっ! これを忘れるようじゃ困るもんね」と思いました。そのメモ用紙が「でも一応持っていったら?」と語りかけているような気もしましたが、それでも「大丈夫!」と強がって、メモは置いたままで出かけたのです。

 そして、みなさんのご想像通り、用事を済ませてスーパーに着いた私の頭からは、そのメモの内容は消えてしまっていました。いえ、正確に言うならば、なんとか1つは思い出せたのです。でも、どうしてもあと1つが浮んできません。もう本当にガッカリでした。「たった二つのことも覚えられないんだ…」と何度も心の中でつぶやきながら、若干肩を落として買物をしてきました。

 家では、冷蔵庫に貼り付いて「ほらねっ」と言っているかのようなメモ用紙が待ってました。うつむいたまま下から盗み見るように視線だけ向けました。「マ、マヨネーズ…かぁ〜」。

2006年10月15日

'70 三島由紀夫自決

第38回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第39回
【読売新聞 2006年10月14日朝刊(毎週土曜日連載)】

 1968年、ノーベル文学賞は三島由紀夫ではなく川端康成が受賞した。

 この最も権威ある文学賞を川端が受賞したことは、確かに喜ぶべきことであったに違いない。しかし、このことが二人の死の一因となったかもしれない。

 1970年11月25日の三島の死。

 三島の自決の詳細が報道されるや、政界や文学界の人々がそれぞれ意見を求められた。内閣総理大臣は、三島の自決を「狂人」の行為だと断定した。作家たちは、自分自身が自殺に駆り立てられた場合を想定して、三島は書けなくなったから自殺したのだと推測した。

 キーンさんと三島とは16年間の親交だったが、いつもある程度の節度をもって接していて、深く立ち入ることはなかった。ただ会って、文学や世界情勢、共通の友人などについて話をするだけで楽しかった。もちろん三島の本を翻訳するという仕事仲間でもあった。

 1970年夏、キーンさんは三島一家が滞在する下田に招待された。毎年8月は、いつも忙しい三島が子供達と一緒に過ごせる貴重な1ヶ月間だった。キーンさんはぎっくり腰で痛かったにもかかわらず下田に向かう。三島の性格からいって、きっと分刻みの計画を立てて待っていてくれているに違いなく、それを壊すのが堪え難かったからだった。

 キーンさんを陽気な笑顔で迎えた三島はその日、寿司屋では中トロばかり食べ、夕食には過剰なほどの伊勢エビを注文した。その姿に、キーンさんは「何かおかしい」と感じる。

 翌日、完結間近い四部作『豊饒の海』について話す。

 三島が言うには、作家として身につけたすべてを、この作品に注ぎ込んだとのことだった。そして笑いを浮かべながら、付け加えた。あと残っているのは、死ぬことだけだ、と。私も、笑った。しかし私は、何かおかしいと感じたに違いない。「べたべたした」問題については話さないという私たちの誓いを破って、尋ねていた。「何か悩んでいることがあるんだったら、話してくれませんか」と。彼は眼を逸らして、何も言わなかった。しかし、三島は三か月後に自分が死ぬことを知っていたのだ。

 その日、三島は四部作四巻目の最後章を一気に書きあげた。夜、原稿をいったんキーンさんに手渡している。つまり8月に書き上げていたのだが、それにもかかわらず、三島は自衛隊市谷駐屯地へ向かう直前に、その原稿に11月25日と書き込んだのだった。

 9月、キーンさんはニューヨークへ向かう。空港に見送りに来た三島は、徹夜明けらしく、無精髭で眼が充血していたが、不吉な予兆とは思えなかった。しかしその直後、一緒に見送った友人たちとレストランに入った三島は「つまらない死に方はしたくない」と言って、皆を驚かせた。この日が、キーンさんが三島に会った最後となる。

 ニューヨークから手紙を書き、「豊饒の海」という題をつけた理由を尋ねると、返事がきた。

「豊饒の海」は月のカラカラな嘘の海を暗示した題で、
強いていへば、宇宙的虚無感と豊かな海のイメージとを
ダブらせたやうなものであり、禅語の「時は海なり」を
思ひ出していただいてもかまひません。

 キーンさんは、何か不安で不吉なものさえ感じた。その後に届いた手紙が三島からの最後の手紙になったのだが、それは三島が亡くなって二日後に届いた。事件当日、三島が出かけた後、机の上に残されていたものを夫人が投函したからだった。

 ニューヨークのキーンさんは、深夜12時頃、事件のことを知らされる。それは読売新聞ワシントン支局からの電話によってだった。数時間前に起こった事件のことを説明され、そして感想を求められた。

 私は呆然として、論理的に返答できなかった。電話は一晩中鳴り続け、いずれも日本の新聞、雑誌からだった。

 さて、私事になりますが、この事件のとき、私は中学3年生になっていました。三島由紀夫が自決したという衝撃的なニュースは、15歳の少女にとっても驚きでした。「なんでこんなことになったの?」という私の問いに、納得できるような説明ができた大人はいなかったと思います。

 それも今回のキーンさんの文を読むと、無理からぬことだったのだと理解できます。公のコメントでも、身近な人たちでさえもそれぞれの解釈をしていたということは、誰も三島の心の動きを説明できる言葉を持っていなかったからでしょう。ある記事では、道化師に例えていたことさえありました。

 当時の私の目には、三島が自衛隊の建物のバルコニーから自衛隊員たちに向かって(本当は国民に向かって?)檄を飛ばしているとき、その声がヤジなどの怒号でかき消されたこと。その直後に、覚悟の割腹自殺をしたこと。それらの状況がショックでした。

 のちに、三島は国を憂い、自衛隊を憂いていたのだと大まかな話を聞いたときも、特にその内容に関心が湧くわけでもなく、だからといって何故…、というモヤモヤした感情はぬぐえないままでした。

 冒頭に書かれているように、キーンさんはなぜ三島がノーベル賞を獲らなかったことが、死の一因となったかもしれないと思ったのでしょうか。そのプロセスは次回で説明されるのでしょうか。

第40回へ続く】

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★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年10月13日

ウォークマンという変な名前

 12日、ソニーが「ウォークマン」の新機種を発表したそうですね。ウォークマンが最初に発売されたとき、「おかしな名前だなあ」と思った記憶があります。しかしそれはすぐに社会現象の一つとなり、世界中の人たちにとって愛着のある名前となりました。

 一昨年の早春に、当社の井深さんが「他人に迷惑のかからないようにステレオを聴きたいのだが、あのヘッドホンは、重くて困るし、ステレオからひもつきでは行動も束縛される。携帯用のステレオにヘッドホンをつけて歩いてもみたが、重くて仕方がない」と言いながら一式を私の部屋に持ち込んできた。そこで私も同様に実験してみたが、なるほど音楽は楽しめるが、全く重くてどうにもならない。

 これは、ソニーの盛田昭夫会長(当時)が『文藝春秋』(昭和56年4月号)に寄せている「ウォークマン考」(『巻頭随筆V』に収録、文春文庫)という一文です。ウォークマンを開発するきっかけは、こんなところから始まったようです。

 盛田はすぐに各部署に、「小さなステレオカセットプレーヤーと軽くて邪魔にならないヘッドホン」という主旨の指令を出し、試作機を作ってもらった。完成した試作機はなかなかの出来で、迫力のあり音も良く、大きさ重さも携帯するのに違和感がなかった。

 自宅で聴いていると、何を聴いているのかと思ったのか、夫人が憮然としている。そこで二人で楽しめるようにと、ヘッドホンを二つ付けられるようにしてみた。すると、今度はいざ会話をしようとするといちいちヘッドホンをはずさなくてはならなくて不便だ。なので、マイクをつけて話ができるようにした。

 商品化しようとしたものの、社内のほとんどの人たちから、売れないでしょう、という答えが返ってきた。それでも売れると確信していた盛田は、会長自らプロジェクト・マネージャーを名乗り出て、商品化していく。

 勿論、中には大変な賛同者もいて、早くも「ウォークマン」という変な名が付けられた。英語的にはおかしな言葉で英語国の販売担当者は絶対にいやだといい出し、英国ではストアウェイ、その他の米国を含んだ英語国ではサウンド・アバウトと命名されることになった。

 その後、日本での爆発的人気が世界に伝わり、日本式英語の「ウォークマン」が世界で通用するようになっていきました。