2006年11月28日

注意欠損障害をもつ大リーガー

 李啓充さんの「大リーグファン養成コラム」【週刊文春 2006年11月30日号】によると、メジャーリーグ、ブレーブスの一塁手アダム・ラローシュ(27)は、「集中力に欠けた選手」として知られているという。

 そんな不名誉なレッテルを貼られたのは、いわゆる「ボーンヘッド」を繰り返したためだ。プレー中、集中力を途切れさせないために、常に周りの選手が怒鳴りつける必要があるほどだった。中でも昨年の一塁カバーを忘れた事件は語り草になっている。

 三振振り逃げの状況で空振りした打者が手を滑らせ、バットは一塁手の前へ転がった。ここで一塁手のラローシュは捕手からの送球を待たなければならないのに、なんと、バットを拾いに行ってしまったのだ。もちろん打者走者は誰もいない一塁でセーフとなってしまった。

「飛んでくるバットを見た瞬間に試合の状況を一切忘れてしまった」からだった。
 と、信じがたいボーンヘッドを繰り返してきたラローシュだが、実はその原因は「ADD(注意欠損障害)」を患ってきたことにあった。この病気、子供では「ADHD(注意欠損多動障害)」と呼ばれることが多いが、米国では小児の5%が薬剤治療を受けていると言われるほど、「ありふれた」病気である(薬で学校の成績が良くなるケースが多いので、本当は必要ないのに親が治療を要求する傾向が強い)。

 ラローシュは、今年の5月に、またとんでもない信じられないプレーをしてしまった。それもあって試合は負け、ファンからの激しい罵倒を浴び、監督の怒りにも触れた。これらがよほどこたえたのか、ラローシュはついに薬剤治療を受ける決心をしたのだった。

 ラローシュの病気は子供のころからのものなのだが、薬が合わないという理由で今まで治療を受けていなかったのだ。ところが今回は、幸い数年前に認可されたばかりの新薬コンサータが効果をあげ、集中力が生まれ、ボーンヘッド・プレイは消えた。

 そればかりか打撃まで好調になり、打撃の総合的指標OPS(出塁率と長打率の和)が、オールスター前はリーグ60位だったのが、オールスター後はリーグ6位に急上昇する効果まであったのだ。この新薬コンサータは、厳密に言うと禁止薬物なのだとか。しかし大リーグ機構からは治療目的の使用ということで事前許可を得られている。(今のところオリンピックなどではドーピングになるらしいデス)

 世の中には、ラローシュと同じ病気なのに、本人も周りも気づいていないケースってあるのでしょうか。もしあるとしたら、真剣に取り組んでいるのにもかかわらず初歩的なミスを連発してしまい、周囲からは「たるんでいる」とか「やる気が無い」と誤解され、本人も自分を無能だと勘違いしている可能性もありますね。治療によって道が開けるかもしれません。
のり at 10:30 | Comment(3) | TrackBack(0) | 李啓充

2006年11月27日

首輪をつけられたニワトリ

 室井滋さんの「すっぴん魂」【週刊文春 2006年11月30日号】は、小学6年のときのお話。卒業近くなると、男子は中学入学に備えて坊主頭にならなければならなかった。ところがT君は、坊主頭にしたその日から、皆から笑われたり、囃し立てられるようになってしまった。頭に十円玉より大きなハゲがあったからだ。

 T君は「やめれま〜」と、必死で抵抗していたが、一週間程して、突如ハゲに黒マジックを塗るという作戦に出た。
 これはこれで、また騒ぎを呼んでしまったが……、そんな中、彼を可哀想に思う声も当然湧き上がって、やさしい数人の男の子達が、自分らの頭の小さなハゲや傷にもマジックを塗り出したのだ。
 すると、T君のハゲを冷やかす声はピタリと収まった。

 事態は一転して、こんどは頭にマジックを塗るのが流行り出し、T君はユニークは発想の持ち主として、皆から尊敬の眼差しを向けられるようになったとか。

 T君が黙ってうつむいてしまう性格でなく、「やめれま〜」と声に出すことができる子だったこと。T君を可哀想だと思う子たちが数人いたこと。つまり本人の勇気と数人の同級生のやさしさとがあったからこそ、この件は深刻にならず、むしろ明るい結末となったのでしょう。

 昔、テレビでニワトリ(かアヒルだったか?)を使った実験を見たことがあります。放し飼いにされている何十羽のうちの1羽に、頭から赤い輪をかぶせて、まるで首輪をしているようになりました。すると途端に、今まで一緒にいたニワトリたちが、その1羽を鋭いくちばしで突つくのでした。ただ首輪をつけただけなのに…。可哀想なのですぐに首輪ははずされたと記憶しています。

 先の子供たちがT君をからかったのも、やっていることはこのニワトリたちと似てますね。T君には、ただみんなより大きなハゲがあるだけなんですから…。動物は、生きていくのに必要な警戒心のために「自分達と違う物」「見たことのない物」に、敏感に反応する本能があるのかもしれません。でも、人間は本能だけの生き物ではありませんからね。首輪の仲間を突ついたニワトリたちと、同じレベルじゃあ、恥ずかしいヨ。
のり at 10:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 室井滋

2006年11月25日

西洋文化と蘭学者

 【第44回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第45回
【読売新聞 2006年11月25日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんは、アヤ・ソフィアのモスク、トプカピ博物館のサルタンの宝物などを見るうちに、イスタンブールにも愛着が湧いてきた。特に木造の家々が気に入ったが、最近また訪れてみると、それらは姿を消していた。

 過去15年間で、未知の国々へも旅をした。1998年、日本の巡航客船「飛鳥」での2週間の旅行に招待された。2,3回の日本語の講演をする義務があるだけの、楽しい船旅だ。以来毎年2週間の「飛鳥」の旅が続いている。ニューヨークで生まれ育ったキーンさんでさえ見たことのない、海上からのニューヨークの夜景。夏、太陽の沈まないノルウェーの最北端の岬、などなど世界中の美しく、心を打つ景色を見ることができる旅である。

 世界の各地に愛着を持つキーンさんですが、それは日本への愛情が薄れたことにはならないそうです。旅行者として訪れたい土地はあるけれど、
日本は、いつだって私が行く着く最後の港なのだ
と、嬉しいことを書いてくださってます。不思議ですね。日本人でも外国の方が性に合うと言って、外国で暮らす人もいますしね。

 さて、キーンさんは、日本人が何世紀にも渡って外国人をどう見てきたかにも興味があった。日本人は、歴史的に中国、朝鮮以外の外国人をあまり見たことがなかった。(達磨さんが外国人の顔だとは、今まで考えたことありませんでした)

 16世紀半ばに来日したポルトガル人の顔を、初めて日本人画家が絵に描いた。このころの日本人が次から次へと西洋の文化を取り入れた様子が面白いです。

 流行に敏感な若者たちは、腰のくびれたポルトガルの胴着ダブレットを身につけた。歌舞伎の創始者と言い伝えられる阿国は、宗教的信仰とは関係なく誇らしげに十字架を胸にかけた。ワインはたちまち人気となり、様々な種類の食べ物がヨーロッパのみならず新大陸アメリカからも持ち込まれた、タバコ、カステラ、サツマイモ、テンプラ料理が、この時期に外国から入ってきた。秀吉は西洋の衣服を着てくつろぐのが好きだったし、彼の好物はビーフシチューだった。
 
 今の日本人と変わらないと思うのが、あたらし物好きというか、流行に流されやすいところですね。ところで、テンプラは日本が発祥だと思ってました。

天ぷらは、室町時代に日本に入ってきた南蛮料理の一種。
天ぷらの語源には、ポルトガル語で「調理」を意味する「tempero」、スペイン語で「天上の日(鳥獣の肉が禁じられ、魚肉の揚げ物を食べる日)」を意味する「templo」など諸説ある。
【「語源由来辞典」(http://gogen-allguide.com/)】

 ヨーロッパ人を積極的に受け入れた時代が終わり、鎖国時代がやってくる。ほとんどの日本人は外国人を見たことがなく、「紅毛碧眼(こうもうへきがん)」、つまり赤茶色の髪で青緑色の眼というイメージしかなかった。

 18世紀後半になってヨーロッパの科学の知識を得るため、ごく一部の人達がオランダ語を勉強し始めた。数々の困難にもめげず、日本のためにと学ぶ努力を惜しまなかった。キーンさんは、コロンビア大学の角田先生から徳川時代の思想を学んだときこれらの蘭学者のことを知り、特に本多利明に魅力を感じていた。

第46回へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年11月22日

二宮クンの演技力

 クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」は、評判が良いらしい。シビアに批評する小林信彦さんも「本音を申せば」【週刊文春 2006年11月30日号】で、珍しく称賛しています。小林さんは、特に、戦時中や昭和30年代を舞台としたドラマや映画に対して、いい加減な時代考証や、ウソっぽい設定などに、よく苦言を呈しています。

 その小林さんが、硫黄島二部作のうち、まず先に公開された「父親たちの星条旗」も誉めていたのですが、日本軍の視点で描かれた「硫黄島からの手紙」をどう見るか興味がありました。

 いくらイーストウッドに才能があっても、日本軍の複雑な内部事情、当時の日本国内の雰囲気、大本営が硫黄島守備軍を見すてる非情さ、などが描けるのかと、いくらか不安に思っていたら、とんでもない。日本映画が描けなかった暗部までみごとに描ききっている。

 見事、らしいです。ポール・ハギスと日系のアイリス・ヤマシタの原案が良かったのと、監督自ら関係者に取材を重ねた結果だろう、とも書かれています。

 出演者に関しては、特にアイドルグループの嵐のメンバー二宮和也を何度も誉めているのに驚きました。映画の中心人物の一人となる日本兵に二宮クン、その妻に裕木奈江を配役したことも
このカップルを決めたイーストウッドは目がある
としているのです。

 以下

 しかも、最前線で西郷(二宮)はあらゆる地獄を見る。これは彼の地獄めぐりの映画だと言った人もいたが、演技力がなければ、こんな役はできない。

とか、

 後半は中村獅童の行動(こういう奴が多かったのだ)や中将の最後を見せるが、その最後を見とどけるのは二宮和也の目なのだ。イーストウッドが彼を演技者として信頼しているのが理解される。失礼な言い方だが、ぼくには意外であり、嬉しかった。

とあるのです。

 二宮クンと言っても、私がふだんドラマをあまり見ないせいか、グループで歌っている場面か、バラエティーでの優しげな表情しか知らないので、シリアスな映画の演技者としての姿は思い描けなかったし、ハリウッド映画に挑戦しようという野心(?)みたいなものを感じたことがありませんでした。小林さんのこの評を読んで、私もすごく意外に思ったり、なんだか嬉しくもあったのでした。
のり at 15:10 | Comment(2) | TrackBack(1) | 小林信彦

2006年11月18日

ヨーロッパへの郷愁

第43回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第44回
【読売新聞 2006年11月18日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんはずっとオペラを楽しみ続けている。日本人にはセリフが分らないという理由で敬遠されがちだが、セリフそのものは面白味がなく、それが歌われたときの美しさや、主人公の心の奥底にあるものが伝わってくることが楽しめるのだという。

 日本とニューヨークとを半年ずつ暮らし、それぞれの魅力を満喫していた。しかし、ヨーロッパもまた魅力的だった。1981年、キーンさんはケンブリッジ大学から文学博士号を受けた。1つの成果に対してではなく、これまでの仕事すべてに対する評価としてのものだった。

博士号の授与式は、数世紀前にさかのぼるかもしれないケンブリッジの伝統に従って執り行われた。私は文学修士のガウンを着て、大学副総長の前で真紅のベルベットのクッションに跪いた。お祈りの時のように指を組んだ私の手を副総長は両手で包み込み、ラテン語で何か言った。私は答えて、伝統的な文句を短く呟いた。あたかも自分が古代の学者たちの仲間入りをして、過去の多くの偉人たちに連なったような気がした。

 最後のフレーズと似たような文を以前読んだ記憶があります。そうです。「第25回」で、キーンさんが狂言を習ったときの気持ちを、
自分の先生をひたすら真似することは、私をがんじがらめにするどころか、むしろ喜びを与えてくれた。まるで私は、前任者たちが代々受け継いできた狂言の長い歴史の一番お尻のところに自分が連なっているような気がした。
と表現していたのです。

 現代人は「形式」を軽視する傾向があります。私も世の中の様々なことに関して、「形にこだわることはない」と考える人間です。ところがキーンさんの文によって、形式には形式の存在する意味があるのかもしれないとも思えてくるのです。

 さて、話をヨーロッパに戻しましょう。授与式の前に同僚夫妻と見て歩いた景色、荘厳な大聖堂とそれを取り巻く田園風景は、キーンさんが忘れかけていた英国への愛着を蘇らせた。また何度か会議のために訪れたイタリアも、幸せな気分にさせてくれた。また1990年の1ヶ月、コレージュ・ド・フランスで日本の日記について講義した。その間パリを歩き回り、懐かしいホテルを見つけたりした。ここでも幸福だった。

 ヨーロッパで「冒険」したこともあった。1951年、友人3人と英国からイスタンブールへジープで旅行したのだ。目的は東洋学者の会議に出席するためだったが、寝袋持参の旅だった。ジープと共に飛行機でフランスへ着いた後、イタリア、ユーゴスラビア、ギリシャ、トルコと辿った。ギリシャとトルコの間には道がなかった。親切な男の道案内に従って、草原を飛び跳ねながら走っていくと、遠くに一軒の家が見えた。そこがトルコだった。

第45回へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年11月15日

映画『めぐみ―引き裂かれた家族の30年』の監督夫妻と横田夫妻

 アメリカ生まれのクリス・シェリダンさんとカナダ生まれのパティ・キムさん夫妻が製作した映画『めぐみ―引き裂かれた家族の30年』(以下『めぐみ―』)は、北朝鮮による日本人拉致事件を扱ったドキュメンタリー映画です。特に横田めぐみさんのご両親、横田滋さん、早紀江さんへの真剣な取材が基になっているようです。

 『文藝春秋』(2006年12月号)に、監督夫妻と横田夫妻との対談が載っていましたので、一部抜粋してみました。

シェリダン 私たちはこの映画を、政治的な観点からではなく、人間ドラマとして描きたいと考えていました。ごく普通の銀行員の家庭に、想像を絶する出来事が起き、人生が一変してしまった。そして愛する娘を取り戻したいという一心で、長年戦ってきた。その姿を描きたかったんです。

早紀江 本当にわたしたちのありのままの姿を撮っていただきました。そして、いったい何が大切なことなのかをはっきりと伝える映画をつくっていただいて、心から感謝しています。わざとらしさや無理に感動させようとするところはまったくなくて、本当にリアルな映画で、そこが見る人を惹きつけると思います。

 横田夫妻が口喧嘩する場面なども、そのまま映し出されているとのこと。ただ、ここ数年のことはともかく、それ以前の取材は出来ていなかったわけです。そこはどう表現されているのでしょうか。たとえば、昔、横田夫妻がテレビ番組「小川宏ショー」の家出人捜索コーナーに出演したことがあるのですが、放送日がわからなくなっていました。フィルムは処分されているかもしれません。

 監督夫妻は、そのフィルムを懸命に探し、ついに見つけたのです。キムさんは、「小さな奇蹟」が起きた、神様からの贈り物ではないかと思ったそうです。(番組出演シーンの一部を予告編で見ましたが、ここだけでも胸が詰まります)

 何年か前までは、ほとんどの日本人も拉致事件には無関心でした。

キム 横田夫妻がチラシを配ろうとしたら、ある女性が「こんなのダメ!」と言って、横田さんの手を激しくぶつシーンが印象的でした。この場面には、いかに人が無知かということ、また、事件について社会の理解が広がっていなかった当時の現実が、象徴的に現れていると思います。

 『めぐみ―』はアメリカやカナダの各地で上映され、数々の賞を受賞しています。ドキュメンタリー賞はもちろんですが、特に観客賞が多く与えられたことは注目すべきで、いかに観た人の心に響いたかを現しているのではないでしょうか。来年はイギリスでも上映されるそうです。

 拉致問題の解決のためには、問題の国際化が重要です。この映画の上映が世界の人に拉致問題を知ってもらえるいい機会になり、拉致問題の国際化、ひいては解決の大きな一助になることを期待しています。

 日本でも、『めぐみ―』は11月25日から全国で上映されます。ですが、ある程度限られた地域の方々しか観ることはできません。そこで、これからは、全国の自治体や団体で催される横田夫妻の講演会の代わりに、この映画を上映することはできないのかな、と考えました。公民館でもどこででも。

 確かに横田夫妻の生の声が、訴える力が一番強いかもしれません。しかし、お二人とも、もう本当に疲労困憊のはずで、痛々しくてたまりません。楽しい話をするのならともかく、話すたびに辛い思いをしなければならないのです。もう全国の都道府県すべてを回り、お二人の講演回数は千回を超えているそうです。

 映画の配給、上映にまつわる決まり事、運営方法、費用のことなど何も知らない私の思いつきです。でも、この映画の影響力を拉致事件解決のために活用しないのはあまりに惜しいです。

キム 映画のラストで、奥様が「もしめぐみが帰って来られたら、自由になれたという思いをまず味わわせてあげたい。それには自然が一番いい。広い牧場のようなところで寝転がって、『自由になれた―!』と言わせてあげたい」とおっしゃる場面があります。この言葉を聞いた瞬間、私は現在のめぐみさんが置かれた状況を、心の底から理解することができました。これは自由の問題なのだ、とより強く実感できたのです。本当に胸の奥に響く言葉でした。

 『めぐみ―』には政治色が無いと言われる理由がわかったような気がします。今日、11月15日は、29年前に横田めぐみさんが拉致された日。拉致された人の数だけ、今このときも長い長い悲劇は続いている。すべての、すべての方々が、一刻も早く自由になれますように!

2006年11月13日

もつたいなし

 読売新聞の「くらし」のページに、日曜日だけ連載されている「よむサラダ」というエッセイ欄があります。いつも読んでいるわけではないので詳しいことはわかりませんが、執筆者は何週かごとに変わるようです。

 11月5日からはアーサー・ビナードさんの連載が始まりました。昨日(2006年11月12日)のそれは、読売新聞の読者(の一部)だけしか読めないのではもったいないものなので、ここに紹介させていただくことにしました。

 昔から日本人がよく口にしていた言葉「もったいない」。ビナードさんに言わせると、明治・大正期の詩人、山村暮鳥(やまむら ぼちょう)ほど、その「もったいない」を味わい深くうたった詩人はいないそうです。病床で書かれた2篇が載っているのですが、私には暮鳥の詩よりも、むしろビナードさんの評の方がインパクトがあり、そのうまさに舌を巻きました。

 ああ、もつたいなし
 もつたいなし
 妻よ
 びんぼうだからこそ
 こんないい月もみられる

 暮鳥は器の大きい人間だった。自らの貧苦も含めて、万物を受け入れられるほど。もちろん、好き好んで極貧の生活を送っていたわけではないが、そんな中で、いらないものが削ぎ落とされ、大きな満月の引力がもろに届いた。


 ああ、もつたいなし
 もつたいなし
 森閑として
 こぼれる松の葉
 くもの巣にひつかかつた
 その一つ二つよ

 蜘蛛の巣の糸に吊るされて震えながら光る松葉――その美しさが、結核で床についていた詩人の目には、よすぎるものに映った。のみならず、つかの間のその存在に心をあずけることがどれほど役立つか、詩人はその有用性も感じ取っている。独り占めにするのが惜しく、他者と分かち合おうと、詩が生まれたのだ。

 「もったいない」の真髄をここまで掴んでいることに脱帽。

★アーサー・ビナード
詩人。1967年、アメリカ・ミシガン州生まれ。
コルゲート大学英米文学部卒。
90年に来日し、日本語で
詩作、翻訳、エッセー執筆を始める。
詩集「釣り上げて」で中原中也賞、
「日本語ぽこりぽこり」で講談社エッセイ賞を受賞。

2006年11月11日

キーンさんの世界の中心

第42回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第43回
【読売新聞 2006年11月11日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんは、足利義政をきまぐれな専制君主だと思っていた。しかし、「日本のこころ」の研究を始めてみると、特に晩年の義政は、繊細で美的天分に溢れた人物だとわかった。

 この時代が日本人に残した文化遺産には、測り知れないものがあることが明らかとなっている。たぶん日本史上、義政以上に「日本のこころ」の形成に影響を及ぼした人物はいなかったのではないだろうか。

 キーンさんの原稿は『中央公論』に約一年間連載されたが、一般の読者には難しかったかもしれなかった。

「日本のこころ」について一番注目すべきことは、日本人がこの言葉を使って次のような信念を伝えてきたことかもしれない。それは、日本人の審美的かつ精神的な嗜好のある部分が日本人独特のものだということだった。あるいは、それは正しいかもしれない。しかし自分たちだけが特別だという確信を、このように強く抱いている国民が他にいるだろうか。

 つまり「そういう国民は他にない」ということですね。これは多くの外国の方々に指摘されるところです。キーンさんが一番言いたいことは、日本人の具体的な価値観や考え方よりも、「自分たちだけが特別だと強く確信している」こと自体が、日本人特有のものだという点でしょう。

 私もよく「日本人特有の」という言葉を使うのですが、そのときいったいどういう心理が働いているのか自問自答してみました。明快な答えは出ないのですが、「日本の価値観をまったく知らない人からは、不思議に思われるかもしれない」といったニュアンスが少し含まれている気がします。無意識のうちに世界を意識しているのです。

 どこの国(民族)にも独自の文化や価値観があります。ただ、ほとんどの国では、自国のことを語るときに外国のことは意識していないのかもしれません。そのため、自国が特別だという観念も生まれないのではないでしょうか。仮にそうだとして話をすすめますが、ではなぜ日本人は外国を意識するのか、といった疑問が湧いてきます。自分でもよくわかりません。どなたかに教えていただきたいです。

 さて、キーンさんは1980年代には、「年中行事」と呼ばれる一連の生活パターンが出来ていた。大晦日は安部公房・真知夫妻と過ごす。

 安部が言うことはすべて興味深かったし、深刻な発言には機知がはさまれ、特に逆説によって耳に快いものとなった。安部夫人もこれに劣らず才気煥発で楽しく、会話に弾みをつけた。

 安部家で会話と日本料理を楽しんだあと、新年は(今でも)永井道雄一家とおせち料理を食べて過ごす。翌日か翌々日には今度はキーンさんが永井家をもてなし、その後はデパートを駆け回る。アメリカの友人たちへのお土産を買うためだ。1月10日ごろニューヨークへと向かう。コロンビア大学の春の学期に間に合わせないといけないのだった。

 私はいつも日本を発つのが悲しくなり、最後にゲートを振り返って私を見送りに来てくれた友人たちに手を振る時、運良くまた戻って来られるだろうかと今でも思う。

 ニューヨークの20年も住んでいる自分のアパートに戻っても、あまり我が家に戻った気がしない。思い出の品々が出迎えてくれるが、キーンさんにとって
私の世界の中心は、日本に移っていた
のだった。

 もちろんニューヨークにも魅力はある。なかでも一番は旧友たちと会えることだ。キーンさんよりかなり年上もいるがまだぴんぴんしているので、5,60年間に渡る昔話に花を咲かせることができるのだ。キーンさんにとってニューヨークといえば、メトロポリタン・オペラのことだった。10代の頃から芝居や映画も数多く見たが、オペラは特別なものであり、誕生日プレゼントに「オペラ観劇の会員券」を買ってもらったことを感謝していたキーン少年だった。

第44回へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年11月08日

昭和9年、沢村投手vs全米チーム

 ソフトバンクの王監督が、「正力松太郎賞」を受賞しました。この春、WBCにおいて日本代表チームを優勝に導いたことが、正力松太郎の「アメリカ野球に追いつけ、追い越せ」という精神を具現化したこととして、受賞理由の1つになったそうです。

 さて、今年も日米野球が開催されていますが、アメリカ野球と読売新聞社社長だった故・正力松太郎との関係にちなんで、昔の日米野球のエピソードを書いてみたいと思います。参考資料は『野球百年』(大和球士/著)です。

 時は、昭和9年(1934年)。このとき来日した全米チームは、ベーブ・ルースを主将とし、ルー・ゲーリックなどスーパースターばかりを揃えた本物のオールスターチームだった。アメリカのファンでさえも、これだけのメンバーを揃えたチームは見たことがないだろうと思われるほどだったのだ。

 当時、まだ日本にはプロ野球はなかったため、全日本チームを編成しなければならなかった。メンバーの所属を見ると早大の学生が目立つが、エースとなったのが京都商業の学生だった沢村栄治であった。このときの日米野球は、全国各地を転戦しながら、なんと17試合も行われている。ここに全試合の結果がある。

 5-1 5-2 7-0 10-0 13-2 14-0 15-0 21-4 1-0
 6-5 6-2 15-3 5-1 8-1 14-1 23-5 14-5

 当然のごとくアメリカの圧勝だった。しかし上段の右端の1-0が目をひく。この第9戦こそ、後に語り草となった、沢村投手の記念すべき試合だったのだ。これだけの強豪チームを、沢村はルー・ゲーリック(この年のア・リーグの首位打者であり、最高殊勲選手)に打たれたソロホームランの1点のみに抑えたのだ。

 この全米チームを招聘したのが、正力松太郎であり、昭和6年にも全米選抜チームを招いている。そして、昭和9年12月、全米チームが日本を離れた直後、全日本チームは発展解散し、大日本東京野球倶楽部が創立された。これが東京巨人軍である。

 さて、それから数十年後から巨人軍のみならずプロ野球の繁栄に多大な功績を残してきた王さんでしたが、今年は極端に良いことと悪いことがあった激動の年となってしまいました。でも一時と比べてずいぶんと体調も良さそうで、それが何よりだと思いました。それにしても、今年の日米野球は、日本が1勝もできないまま終わってしまうのでしょうか。
のり at 15:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事・話題

2006年11月04日

『明治天皇』出版と「日本のこころ」

第41回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第42回
【読売新聞 2006年11月4日朝刊(毎週土曜日連載)】

 明治天皇の伝記を書くにあたって、父親の孝明天皇について調べ始めたキーンさんは、孝明天皇に興味を持ち、非常に面白い人物だと感じた。結果、明治天皇の伝記の最初の五分の一が孝明天皇時代のことになってしまった。

 さらにその伝記が他の研究と異なっていたのは、数多くの和歌を取り上げたことにあった。明治天皇を取り巻く人々や、天皇自身が詠んだ和歌である。一通の手紙も残さなかった明治天皇像を描くには、これらの和歌が貴重なものとなったのだ。

 主人公を生き生きと蘇らせる個人的な情報なしに伝記を書くことは難しかったが、この人物について調べていく過程で私はかなり天皇本人に近づいたと思う。

 和歌を読み取る力があったからこそなのでしょうが、キーンさんは<時には和歌一首から天皇の肉声が聞こえてくることがあった>そうです。たぶん読んだときに「ああ、そうなのか」という、ストンを身体に入ってくる感覚があり、ジワッとした温かいものが流れる瞬間があったのだろうと思いました。ただの言葉の羅列なのか、心の声なのか、読む人が読めばわかりますからね。

 そして、『明治天皇』は6万部を超える売れ行きとなり、韓国語やロシア語にも翻訳されるという成功をおさめた。ただ、成功したばっかりに、キーンさんにとって気まずい思いも残った。せっかく売れた『明治天皇』だったが、それは新潮社に勧められて書いたものだっため、中央公論社の恩に報いることが出来なかったのだ。中央公論社社長の嶋中雅子と話しながら、そのことを思った。

 亡くなった彼女の夫の元中央公論社社長嶋中鵬二は、親友であったばかりでなく、私を日本の文学界にデビューさせてくれた恩人なのだった。

 キーンさんの『日本文学の歴史』全十八巻も出版してもらったが、たぶん赤字だったのではないかと思っている。それなのに売れる本を他社から出してしまったため、罪の意識を感じたのだ。次の本は中央公論社から出すと嶋中雅子に約束し、テーマについて尋ねると、「日本のこころ」という返事だった。

 キーンさんは、美術品であったり、建築物であったり、演劇などからそれを解き明かそうとしている。もちろん時代、社会的階層などの違いを乗り越えて説明できる「日本のこころ」といったものはなさそうだった。

 私は、「日本のこころ」はごく一部の貴族階級の文化ではなく、圧倒的多数であった庶民の生活の中から見いだせるのではないかと思いながら読んでいました。ところが、現代の庶民の生活も、昔の貴族階級から発した文化と無縁ではないことに気づかされるのです。

 応仁の乱終結の五年後――。
 東山で足利義政の別荘の建築が始まり、そこが新しい文化発祥の地となった。この新しい文化は今日なお生きていて、それは高級料亭のみならず、一つでも日本間があるすべての建物の中で息づいている。

 現代にも生き続けているほど、東山時代が日本文化にとって重要な意味を持つ時代なのだと、いくつかの例で説明されている。角柱、部屋全体に敷き詰められた畳、障子、床の間、芸術としての生け花など。歴史の勉強をおろそかにしてきた私にとって、新たな発見となったのでした。

 角地幸男さんの訳が、「日本の心」ではなく「日本のこころ」となっているのは意味があるのでしょうか。私は、「心」だと「気持ち」に限定され、「こころ」の方が対象となるものの輪郭がぼんやりとなって、思い描く範囲が広がる気がするので、この場合ぴったりだなあ、と思いました。さて、「日本のこころ」という言葉から、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか。

第43回へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。