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2007年04月14日
2007年04月12日
神社とは何ですか?
歴史に興味がないのに『歴史街道』(5月号、PHP研究所出版)という月刊誌を買ってしまった。”これならわかる! 関裕二先生の「神社」と「神道」 100問100答”という特集記事が目当てでした。
神社のすぐ目の前で生まれ、さまざまな行事を時々目にしていたこと、親戚の葬儀や法事で神葬祭にかかわることが多いことなどから、神社や神道(しんとう)にうっすらと関心があったのです。
神葬祭で行われた葬儀のとき、玉串を捧げ、二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝)をしたのですが、事前に「拍手(かしわで)は音をたてないんだよ」と教えてもらいました。
そして一年後、仏教の一周忌法要にあたる一年祭のとき、(ひと言ひと言覚えているわけではありませんが)神主さまから「一年祭を区切りとして忌み明けとなるので、元の生活に戻ります。それで今日から拍手も音を立てて良いのです」といった説明があり、パンパンと拍手を打ちました。言われないとさっぱりわからないしきたりです。
初め、法事なのに「祭」と付くのが不思議でしたが、家を建てる前に神主さんが来て行われる地鎮祭なども「祭」だと気づき、「お祭り」の賑やかなイメージとは関係ないのだと納得。神社や神道について、考えれば考えるほど素朴な疑問が湧き、基礎的な知識だけでも知りたいと思っていたので、今回基礎知識の問答になっているこの特集に飛びついたのでした。
歴史あることがらは、定説や諸説いろいろで、たぶん異論もあるのでしょうが、何も知らない私にとっては、とってもためになりました。ここにいくつか抜粋してみましょう。
へ〜、本殿が神社だと思ってた…。
感謝よりお願いが先にきてしまってますよね。
最後の質問は、外国の方からのものでしょうか。いちおうこう説明すると納得してもらえるかもしれません。でも本当のところはどうなんでしょうか。
神社のすぐ目の前で生まれ、さまざまな行事を時々目にしていたこと、親戚の葬儀や法事で神葬祭にかかわることが多いことなどから、神社や神道(しんとう)にうっすらと関心があったのです。
神葬祭で行われた葬儀のとき、玉串を捧げ、二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝)をしたのですが、事前に「拍手(かしわで)は音をたてないんだよ」と教えてもらいました。
そして一年後、仏教の一周忌法要にあたる一年祭のとき、(ひと言ひと言覚えているわけではありませんが)神主さまから「一年祭を区切りとして忌み明けとなるので、元の生活に戻ります。それで今日から拍手も音を立てて良いのです」といった説明があり、パンパンと拍手を打ちました。言われないとさっぱりわからないしきたりです。
初め、法事なのに「祭」と付くのが不思議でしたが、家を建てる前に神主さんが来て行われる地鎮祭なども「祭」だと気づき、「お祭り」の賑やかなイメージとは関係ないのだと納得。神社や神道について、考えれば考えるほど素朴な疑問が湧き、基礎的な知識だけでも知りたいと思っていたので、今回基礎知識の問答になっているこの特集に飛びついたのでした。
歴史あることがらは、定説や諸説いろいろで、たぶん異論もあるのでしょうが、何も知らない私にとっては、とってもためになりました。ここにいくつか抜粋してみましょう。
Q1 そもそも神社とは、何ですか?
鳥居と端籬(みずがき、垣根)で囲んだ、俗世間とは異なる聖域です。拝殿や本殿を建て、御神体(依代)に神の降臨を願い、神を祀る場所です。
へ〜、本殿が神社だと思ってた…。
Q15 神社にお参りすると、本当にご利益があるのですか?
心の持ちようです。ひとつだけ申し上げておきますが、基本的に神社は、祈願する場所ではなく「神を敬い、神に感謝する場」であるように思います。
感謝よりお願いが先にきてしまってますよね。
Q22 なぜお祭りで御神輿(おみこし)を担ぐのですか?
神道の発想の基本は、人智を超える恐ろしい存在=神を、いかになだめすかし、豊穣をもたらす神に変身させるか、にありました。そこで荒ぶる神を表に引き出し、遊び、暴れさせ、無聊(ぶりょう)をなぐさめたのでしょう。
Q30 同じ神様の神社があちこちにあるのはなぜですか?
離れた土地にいても、神の分霊を迎い入れ、社殿に祀ることができたのです(これを勧請<かんじょう>という)。もっともこの発想、本来は、仏教から借りてきたようです。
Q31 ひとつの神社に複数の神様が祀られているのはなぜですか?
神社には本社の主祭神のほかに、摂社(せつしゃ)や末社(まつしゃ)に、主祭神とゆかりの深い神々が祀られています。大家族が同居していると考えればよいでしょう。多神教ですから、神様はいっぱいいてもよいわけです。
Q33 神様はなぜ一柱(はしら)二柱と数えるのですか?
神社の本殿に神様がいらっしゃると考えられがちですが、実はそうではありません。神様が、神社にやってくるのです。神の宿る場所は、「柱」などの依代(よりしろ)でした。それで神様を数える単位が「柱」となったわけです。
Q60 神道とは何ですか?
「神道」の二文字が歴史に初めて登場するのは、西暦720年編纂の正史『日本書紀』の中のこと。ただし、仏教に対する日本の信仰を、「神道」と呼んでいるにすぎません。厳密には、「神道」という言葉が定着するのは中世のことです。「神道」はあくまで、便宜上の「日本人の信仰」の呼び名であると、心得てください。
Q68 神道は政治と関係あったのですか?
政治を「まつりごと」と呼び慣わしてきたように、神道と政治は、古来深く結びついていました。天皇は「まつりごと」を司る祭司主として神聖視されたのです。
Q77 神道は多神教的といいますが、悪いことをする神様はいないのですか?
万物の精霊は宿るというアニミズムから発展した多神教の神は、実に人間味溢れた神々です。機嫌を損ねると、何をしでかすか分かりません。
Q78 悪いこともするのに、神と呼ぶのはおかしくありませんか?
「多神教の神=大自然」と考えればよいのです。神は人々に災害をもたらす恐ろしい存在であり、逆に、人々に幸をもたらす存在でもあるのです。そこに善悪の基準などありません。
Q98 なぜ日本では、キリスト教徒でない人もクリスマスを祝うのですか?
多神教は、いたるところに神がいると考えますから、仏陀もキリストも、「海の外からやってきたもう一柱の神様」と捉え、抵抗なく受け入れてしまったのでしょう。
最後の質問は、外国の方からのものでしょうか。いちおうこう説明すると納得してもらえるかもしれません。でも本当のところはどうなんでしょうか。
2007年04月10日
こっちの水は甘いぞ
初めて水の味にショックを受けたのは、高校の水道水を口にふくんだときだった。「何これ? まずいっ」。それまで水に「おいしい」とか「まずい」があるなんて、思ってもいなかった。
自宅と高校は(同じ埼玉でも)50キロほど離れていただろうか。荒川の流れで比べるならば、上流と下流の違いがあるので、「下流ほど水はまずくなるものなんだ」などという説明に、なんとなく納得した。
その後、もっと下流である東京で、さらにまずい水道水を知り、やっぱりねえと確信した。もちろんそれだけが原因ではないのだろうけれど…。
そんなはるか昔のことを思い出したのは、棋士の先崎学さんの「先ちゃんの浮いたり沈んだり」【週刊文春 2007年4月12日号】を読んだからだ。
ところが、
そのときから先崎さんは、大阪の水道水が飲めなくなったばかりか、東京のものまで飲めなくなってしまったそうだ。歳月が経ち、浄水システムが変わり、大阪も東京の水道水もだいぶ改善され、おいしくなってきたという。今では先崎さんも(浄水器つきの)水道水をごくごくと飲んでいる。
私は、おいしい水の地で生まれ育ったことを、今さらながらありがたいことだったなあと感謝している。
自宅と高校は(同じ埼玉でも)50キロほど離れていただろうか。荒川の流れで比べるならば、上流と下流の違いがあるので、「下流ほど水はまずくなるものなんだ」などという説明に、なんとなく納得した。
その後、もっと下流である東京で、さらにまずい水道水を知り、やっぱりねえと確信した。もちろんそれだけが原因ではないのだろうけれど…。
そんなはるか昔のことを思い出したのは、棋士の先崎学さんの「先ちゃんの浮いたり沈んだり」【週刊文春 2007年4月12日号】を読んだからだ。
あれはたしか二十年ぐらい前だろうか、大阪で対局した折、地元のうどん屋で先輩棋士にいわれた。
「うどんとお好み焼きはうまいんやけど、水がまずいさかい、気いつけてな」
私ははあ、とうどんをすすりながら首を傾げた。それまでの人生で水の味なんて、気にしたことが一度もなかったのである。
ところが、
夜、大阪で泊まっていたそこそこに格式ある老舗のホテルで水道の水を飲んでみた。
すぐに鼻にツン、ときた。これが噂のカルキ臭かあ、と思った。
不思議なもので、前日までは匂いなんてまったく気にならなかったのである。単に私が鈍感なだけかもしれないが、とにかくこれぽっちも意識しなかった。
そのときから先崎さんは、大阪の水道水が飲めなくなったばかりか、東京のものまで飲めなくなってしまったそうだ。歳月が経ち、浄水システムが変わり、大阪も東京の水道水もだいぶ改善され、おいしくなってきたという。今では先崎さんも(浄水器つきの)水道水をごくごくと飲んでいる。
私は、おいしい水の地で生まれ育ったことを、今さらながらありがたいことだったなあと感謝している。
2007年04月08日
白アリが消えた?
3月25日に起こった能登半島地震。富山県出身の室井滋さんも、「すっぴん魂」【週刊文春 2007年4月12日号】の中で、親戚や友人たちのことをたいそう心配していた。当日は、東京在住の同郷の友人たちも、なかなか故郷の家族に連絡がとれないため、少々パニックになっていたようだ。
さて、このエッセイの中に気になる話があった。この地震の前日、室井さんと知人2組の夫婦とで交わした会話だ。知人両家ともここ半年の間に中古の一戸建てを購入して、それぞれ神奈川県逗子市と埼玉県所沢市に住んでいる。
妙に暖かかった冬などとからめて、室井さんたちは不気味な気持ちになり、地震の前ぶれかも、などとも思い浮かべていたらしい。
それにしても、白アリがいなくなったのは、室井さんの身近にたまたま起きたことなんだろうか。それとも関東一円、あるいは全国的に起きていることなんだろうか。すぐに何かに結びつけるのは短絡的であやうい。誰か白アリのことを調べてくれたらいいのに、と思った。たとえ地震と関係なくても、白アリ対策のヒントが得られるかもしれないではないか。
なにはともあれ、被災地のみなさまが、一日も早く普通の生活に戻ることができますように!
さて、このエッセイの中に気になる話があった。この地震の前日、室井さんと知人2組の夫婦とで交わした会話だ。知人両家ともここ半年の間に中古の一戸建てを購入して、それぞれ神奈川県逗子市と埼玉県所沢市に住んでいる。
「実はね。白アリが出たのよ。あれが発生すると、柱も何もかんもやられて大変になるって聞いて、私達、慌てたの。すぐに業者に相談して、駆除を頼んだのね。ところが、日程を合わせて、そろそろだわって頃になって、まったく白アリがいなくなってるのに気が付いたの。あんなにいたのに、今はどこにも一匹もいないのよ」
逗子の夫婦がこう語れば、所沢の夫婦もそれに大きく頷いた。
所沢で買い求めた古い家も白アリが発生してたのに、ここのところ、きれいさっぱり見かけなくなったと言うのだ。
妙に暖かかった冬などとからめて、室井さんたちは不気味な気持ちになり、地震の前ぶれかも、などとも思い浮かべていたらしい。
それにしても、白アリがいなくなったのは、室井さんの身近にたまたま起きたことなんだろうか。それとも関東一円、あるいは全国的に起きていることなんだろうか。すぐに何かに結びつけるのは短絡的であやうい。誰か白アリのことを調べてくれたらいいのに、と思った。たとえ地震と関係なくても、白アリ対策のヒントが得られるかもしれないではないか。
なにはともあれ、被災地のみなさまが、一日も早く普通の生活に戻ることができますように!
2007年04月06日
Rソックス・ファンの悲しい習性
李啓充さんの「大リーグファン養成コラム」【週刊文春 2007年4月12日号】によると、大リーグのレッドソックスは、松坂加入ということもあって、ファンのみならず専門家(野球専門誌『ベースボール・アメリカ』3月26日号)からも、今年のワールドシリーズ優勝を予想されているそうだ。
ところが、レッドソックス・ファンの心理は複雑で、優勝への期待だけでなく、疑念も持っているのだとか。それも相当深刻なものらしい。
わ〜、その映画、観たいなあ。
恐ろしい「罰」だこと。でも、2004年にやっとワールドシリーズに優勝したという例外があったはず。しかし、このときは、「もう絶対負けた」と思ったのに勝ったという形をとっただけで、だまされたことに違いはないのだそうだ。
松坂の初登板、初勝利のニュースは、ますますレッドソックス・ファンに優勝の期待を抱かせることになるだろう。それでも心のどこかに、「まただまされているのでは…」という思いがあるのだとしたら、ちょっと気の毒なような、笑っちゃうような。人の一生ほどの長きに渡ってだまされ続けてきたのだから、そんな習性になってしまったのも無理もないかな。
ところが、レッドソックス・ファンの心理は複雑で、優勝への期待だけでなく、疑念も持っているのだとか。それも相当深刻なものらしい。
1919年から2003年までの84年間、「これで勝った」と思いこまされた挙げ句に最後には負けるという仕打ちを何度も受けてきただけに、レッドソックス・ファンは警戒心を解いていない。
「これで勝った」とだまされた挙げ句に負けた試合の格好の例が、86年、メッツ相手のワールドシリーズ第6戦だが、延長10回2点差2死走者なし、「68年ぶりの優勝まであと一人」の場面から逆転されてしまった(この試合を巡って引き起こされる悲喜劇を描いた映画『ライフ・イズ・ベースボール』[原題『ゲーム6』]が、近々日本で公開されるという)。
わ〜、その映画、観たいなあ。
ギリシャ神話で、シジフォスは、苦労して山頂まで運び上げたと思った途端に運んだ石が転げ落ちるという、永遠に終わることのない罰を科されたが、レッドソックス・ファンも、長年、シジフォスと類似の「罰」を受けてきただけに、「まだだまされているのではないか」という疑念は強い。
恐ろしい「罰」だこと。でも、2004年にやっとワールドシリーズに優勝したという例外があったはず。しかし、このときは、「もう絶対負けた」と思ったのに勝ったという形をとっただけで、だまされたことに違いはないのだそうだ。
松坂の初登板、初勝利のニュースは、ますますレッドソックス・ファンに優勝の期待を抱かせることになるだろう。それでも心のどこかに、「まただまされているのでは…」という思いがあるのだとしたら、ちょっと気の毒なような、笑っちゃうような。人の一生ほどの長きに渡ってだまされ続けてきたのだから、そんな習性になってしまったのも無理もないかな。
