2008年03月31日

大きな活字と覚悟

 くすんだ色になった2,30年ほど昔の本を開けてみると、文字が小さく読みにくいことに驚く。歳のせいばかりでもなく、最近は本の活字が大きくなっていたんだなぁと、改めて気が付く。

 今日から朝日新聞も読売新聞も活字が大きくなったそうだ(新聞は購読してません)。WEB版で両紙のコラムを比較すると面白いことがわかった。

 まず朝日新聞の「天声人語」。

 一行の字数が増えて、心持ち文はゆったりと、おもむろに底で弾んで次の行へと進む。足の立たないプールで覚える戸惑いと、しばらく泳いでみての解放感を思い出す。全体の分量も6字増えた。うれしいなあ、と書けば消える字数ではあるが、限られた紙幅ゆえにありがたい


 活字も大きくなるが、文字数も増えるのだ。

 一方、読売新聞の「編集手帳」は、反対に77文字分減る。

 情報の密度は高く、潤いはそのままに、きりりと苦み走った男前の文章を求めて記者一人ひとりが我が身に鞭(むち)をあてる。活字を大きくするとは、その覚悟を読者に誓うことでもある 


 ぜひその「覚悟」を持ち続けていただきたい。

2008年03月30日

座禅カフェ

 日比谷の地下に座禅カフェなるものができたそうだ。北尾トロさんがその体験を「ガラスの五十代」【週刊文春2008年4月3日号】に書いている。

 60畳の弾室で、渡された作務衣を着て僧侶から指導を受けながら座禅を組む。90分コースだと、間をおいて25分の座禅を2回、最後にお茶をいただく、といった内容になるらしい。

 私も少しだけ座禅に興味があるので読み始めたけれど、北尾さんが一回目終了後に足がしびれて立ち上がれなかったところまで読んで、「そっか、正座でなくてもしびれちゃうのか」と、自信をなくした。が、2回目になるとちょっと様子が違ってくる。


 また足が痛くなってきた。慌てて呼吸に全力投球。不思議なことに、気持ちの落ち着きとともに呼吸も深くできるようになり、呼吸のリズムが整うと雑念が消えてくる。そうか、座禅の極意はそこなんだ。


 ところで、座禅で連想するのが、よく肩をビシッと叩かれる痛そうな場面だ。あれは警策(けいさく)というもので、けっして罰なのではなく、座禅する人が気合を入れたくなったら、自ら叩いてくださいと望むものなのだそうだ。そこで北尾さんは右手を挙げ合図をしてみた。


 右肩を打ちやすいようにやや左に首を傾け、合掌して待つこと10秒。トントンと合図がきた。
「ビシッ」
 あぅ。突き抜けるような痛さだったが、後に残るのは爽快感だ。一発で眠気も吹き飛び、それからはラストまで息を乱すことなく過ごすことができた。終わってお茶をいただく頃には、なんだかもう放心状態の気持ちよさ。

 作務衣から普段着に戻って表に出ると、おおげさでなく景色が違って見えた。


 確かにお寺に行くより敷居は低そうだけれど、誰でもそんな簡単に座禅の極意がわかったり、雑念が消えたりするのかしら。う〜ん。
のり at 19:15 | Comment(2) | TrackBack(0) | 北尾トロ

2008年03月29日

2008年03月27日

松井選手の「結婚報告」

 ヤンキースの松井選手が結婚する。松井選手に良き伴侶が現れることをひそかに(別にひそかでなくてもいいのだが…)願っていた私としては、親せきのおばさんのような心持ちでホッとしている。

 nikkansports.comに、松井選手からファンへの結婚報告が記載されていた。


ファンの皆様

 いつも日本から心温まるご声援をいただきまして誠にありがとうございます。突然のことで申し訳ありませんが、皆様にご報告させていただきたいことがございます。

 この度、私、松井秀喜は結婚することになりました。相手の方は現在25歳の元会社員で一般の女性です。今後の人生を彼女とともに歩んでいくことに決めました。

 詳細につきましては、またあらためて皆様の前で、私自身の言葉でご説明させていただきたいと考えております。今シーズンも今まで以上のプレーをファンの皆様にお見せできるように頑張ります。今後とも、よろしくお願い申し上げます。


 礼儀をわきまえつつも簡潔な文章は、いかにも松井選手らしい。
「今後の人生を彼女とともに歩んでいくことに決めました」と報告されたら、「ずっとずっと仲良く暮らしてね」と言いたくなるじゃありませんか。

 松井選手、おめでと〜!!
のり at 20:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事・話題

2008年03月22日

「春雨じゃ、濡れてゆこう」

 読売新聞(WEB)の「編集手帳」(3月22付)の一部を引用させていただく。


 俳人、長谷川櫂(かい)さんの句集「古志(こし)」に一句がある。〈春の水とは濡(ぬ)れてゐるみづのこと〉。朝、水道の蛇口をひねっての感懐か。あるいは雨上がりの舗道か。どの水かは分からない

 つまらぬ理屈をこねれば四季を問わず、水はいつも濡れている。そういう無粋な講釈を寄せつけず、「ああ、言われてみれば、春の水はなるほど濡れている…」と一読、うなずかせるのが詩の力だろう


 「言われてみれば」がポイントですよね。自分からは「春の水は濡れている」という発想は出てきません。ああ、そこらへんが言葉を自分のものにして表現している人と、普通の人との決定的な違いなんだろうなあ。
 
 また、こうも続いている。

 歳時記では、「春の雨」と「春雨」を区別している。「春の雨」は冬の名残の冷たい雨をも含み、「春雨」は春の後半にしっとり降る雨を指す。芝居の月形半平太が「春雨じゃ、濡れてゆこう」と舞妓(まいこ)の雛菊(ひなぎく)に言う、あの雨である


 日本語の繊細さに、ただ驚くばかり。 

2008年03月15日

やっぱり花粉症

 花粉症です。
2月29日(http://rabbit050314.seesaa.net/article/87735232.html)に、風邪が治ったら花粉症も治るかも、なんて書きましたが、あえなく希望は落胆へと変わってしまいました。

 以上、ご報告まで。

 へ〜くしゅん!
のり at 19:47 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

気の悪い新語

 聞いた時、なんか嫌な感じのする言葉というものがある。もちろん「嫌な感じ」は人それぞれだ。

 4月から後期高齢者医療制度というものが始まるそうだ。どうやら「後期高齢者」というのは75歳以上の方々を指すらしい。何か月か前に初めて聞いたとき、びっくりしたし、いかがなものかと思った。

 読売新聞(WEB版、08/03/14)の「よみうり寸評」にも、こんなことが書いてあった。
 

〈後期高齢者といふ新語出づ長生きするは罪のごとくに〉――今月3日の本紙「読売歌壇」の一首(清水房雄選)。日野市の三浦正さんの作歌で投稿に作者80歳と注記があった


 ああ、やっぱり……、言われた側としては気を悪くするよね、この言葉。よみうり寸評さんはこう続けている。


いかにもお役所言葉のにおいがふんぷんの新語だ。人生の先輩たちへの尊敬や温かな配慮がいささかも感じられない


 言葉がどうのよりも、重要なのは中身なのだと十分承知の助だけれど、どうせ新語を作るなら、もちっとデリカシーを持ってね。
のり at 11:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | ことば

2008年03月14日

自叙伝

「私はいま、ひとりで暮している。仕事もない。あと二年半足らずで還暦を迎える」…これは、ショーケンこと萩原健一がこんど出版した自叙伝に書いている言葉。

【週刊文春2008年3月2日号】に、その自叙伝の概要がある。女性遍歴、数々のトラブル、大麻、…。

 そのどれよりも、私にとって衝撃的だったのが冒頭で紹介した文だ。

 本人も言っているように今の状況は自業自得なのだ。それでも、なんとなく読んでしんみりしてしまった。

 だって私、昔むかし、ショーケンのことちょっと好きだったんだもの。
のり at 22:15 | Comment(0) | TrackBack(1) | 時事・話題

2008年03月09日

己のセンスを信じて

 誰に命令されるでもなく損得でもなくブログを書いている人は、言葉で自己表現をしたいタイプの人だろう。本人としては、書きたいから書いているだけなのだが、書くことによって自分の心を見つめなおし、発散し、結果的にそれが自分を支えている。

 今感じている、考えていることを「言葉」という形でアウトプットする、と同時に目からフィードバックされ、自分の存在を確認できて快感になるのか、ん〜、難しい理屈はわからないけれど、書けなくなったら自分を見失ってしまうことは確かなのだ。

 書き手のプロである小説家が小説を書けなくなったら、どんなに苦しいだろう。職業としてだけでなく、人間として行き詰ってしまうのではないだろうか。支えるものがなくなってしまうのだから。

 中村うさぎさんが、「小説が書けなくなってしまった」と【週刊文春2008年3月6日号】の「さすらいの女王」で嘆いておられた。エッセイは書けても小説が書けなくなっていたのだ。

 そして翌号の3月13日号で、やっと元気を取り戻しつつある様子がうかがえる。桜庭一樹さんが直木賞を受賞したニュースがきっかけだった。桜庭さんのデビュー時に、その実力を認め一押ししたのが中村うさぎさんだったのだ。彼女の作品を評価しなかった人たちに対して勝ち誇った気持ちになった。

 そしてこんな風に生き生きと書いている。(注:女王様=中村うさぎさん)

 女王様は誇りに思わずにいられないのだ。それは自分の鑑識眼というよりも、自分が「これはいい!」と思ったものが間違ってなかったという、要するに己のセンスに対する肯定感だ。

 だって、私がいいと思うものが世間に認められたってことは、これから先、私は自分がいいと思うものを書き続けても大丈夫、ということだもんね。もちろん、うまく書けるかどうかわからないけど、少なくとも核になる部分……テーマというか。作品の「魂」みたいなものを、大きく誤ることはないように思えてきたの。よかった、私は間違ってなかった、自分のセンスを信じて大丈夫なんだ、という気持ちね。


「己のセンスに対する肯定感」、ああ、とってもよくわかる。それがあれば、人は元気に生きていける。

「小説とエッセイでは使う脳ミソの部位が全然違う」というのは、うさぎさんのセリフだけど、エッセイを書いていられただけでも、まだ本当のどん底ではなかったと思う。いや、それは素人の考えか。

 さて、あなたにとっての自己表現は何ですか? 美しいとか、面白いとか、苦しいなどと感じた時、どうしてますか? 文章を書きたいですか、曲を作りたいですか、歌を歌いたいですか、絵を描きたいですか、何か作りたくなりますか、誰かにしゃべりたくなりますか。

 どんなに辛いときでも、表現できているうちは大丈夫…。とても幸せなこと。一人でも認めてくれる人がいたら、なおさら幸せ。
のり at 12:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑誌

2008年03月08日

ロス疑惑の終結は

 ロス疑惑は衝撃的な出来事で、当時かなり長期に渡って報道されていたのに、今となると案外細部については覚えていないものだ。

 今回アメリカで疑惑の人が逮捕され、数々の疑惑や登場した人たちのことが流されると、そういえばそうだったなあ、などと思いだす。

 当時、疑惑の人は饒舌だった。素人がマスコミの前であれだけの態度がとれることが驚きだったし、だからこそ私たちもまるで芸能人のスキャンダル報道でもあるかのような錯覚を持ってしまったのかもしれない。殺人事件というおどろおどろしい事実があるのに。

 彼はまた本筋の件とは別のスキャンダラスな話題を次々と提供してくれた。してくれた、という言い方は妙かもしれないが、まさににそんな雰囲気だったのだ。だんだんとドラマを見ているかのような気分にさせられていった。

 そして裁判でも灰色のままで、いつか疑惑解明についてはあきらめのムードが漂い、もう続きはないと思っていた。ところが、まだ終わっていなかったのだ。こんなことがあるんだ。またドラマチックな展開になってきた。

 こんどこそ真相が明らかになるだろうか。10年後、この事件はどう振り返られているのだろう。まさか、まだ続いているんじゃ…。
のり at 21:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事・話題