2007年09月23日

ドナルド・キーンと平野啓一郎

 奇跡の丘さんに教えていただいたのですが、読売新聞に掲載(7月31日、8月1日)されていた、ドナルド・キーンさんと平野啓一郎さんとの対談がネットで読めます。


「平野啓一郎が聞くドナルド・キーンの世界」(上)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20070731bk01.htm

「平野啓一郎が聞くドナルド・キーンの世界」(下)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20070801bk01.htm


 奇跡の丘さん、ほんとうにありがとうございました〜!

2007年07月12日

『私と20世紀のクロニクル』発売

 7月10日、ドナルド・キーンさんの『私と20世紀のクロニクル』が中央公論新社より出版されました。

 去年一年間(毎週土曜日)、読売新聞に連載されていた作品が書籍化されたものです。当ブログでも連載時には、紹介とも感想ともつかない稚拙な文を毎回書いていましたので、ご記憶の方もいらっしゃるでしょう。

 本はすぐに購入したのですが、あとでじっくりともう一度読んでみたいので、今はパラパラとめくっただけです。

 ひとつ気がかりだったのは、山口晃さんの不思議な挿絵はどうなっているかな、ということでした。少ないですね。残念です。

 ただ、貴重な写真が何枚も載っています。アーサー・ウェイリーと一緒のなんかもあります。もちろん日本の著名な作家たちもです。

 新聞の連載を読まなかった方たちにこそ、この本をおすすめしたいです。私のような歴史や文学などの教養が無い人間でも、大いに感じるものがあったからです。感謝の気持ちと、日本人としての誇りが湧いてきたのでした。


    → 「私と20世紀のクロニクル」連載時の当ブログの記事一覧

 

2007年01月07日

「私と20世紀のクロニクル」書籍化

 【番外編〜連載を終えての続き】

 読売新聞の連載が終わったドナルド・キーンさんの「私と20世紀のクロニクル」は、やはり多くの反響があったそうです。

 今年6月には中央公論新社から出版される予定だとか。

 山口晃さんの挿絵が、どこまで反映されるでしょうか。

【 連載の目次は → こちら


★追記(平成19年7月12日)

7月10日に出版されました → http://rabbit050314.seesaa.net/article/47614754.html

2006年12月23日

60年前のハガキ

 【第48回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の番外編
〜連載を終えて 【読売新聞 2006年12月23日】

 ドナルド・キーンさんは、「私と20世紀のクロニクル」を書き終えて、小さな虚脱感に襲われた。また後悔の念にも駆られた。キーンさんの人生にとって重要な多くの人々のことに言及しきれなかったからだ。

 私に答えられるのは次のことだけで、いざ「クロニクル」を書き始めてみたら、自分が書こうとしているのは、次から次へと「鎖」のように繋がっている一連の体験だということに気づいたのだった。いくら親しくても、別の「鎖」にいる友人は登場しようがなかった。これとまったく違った顔ぶれで自叙伝を書くことも、私には難なく出来たはずである。

 確かにそうだと思いました。人生にはいくつもの側面があって、同じ人物の自叙伝でも何通りにも書けるはず。たった48回の連載の中に、あらゆる面を盛り込むのは無理ですし、もし詰め込んでしまったら、ポイントがぼやけてしまったことでしょう。

 生活様式であれ、交通手段であれ、世界は劇的に変わってきている。それでも、人としての大切なものは同じではないかと、キーンさんは思っている。たとえば「源氏物語」にみる光源氏の感情は、今の私たちと同じであるからだ。

 この連載を読んだ人たちから記憶力の良さを褒められるキーンさんだが、ご自身は、「よくも忘れてしまったものだ」と思っているとか。しかし全て覚えていたら、嫌なこともたくさん思い出しただろうから、思い出そうとしないほうが良いのだ、と結論づけている。

 この「クロニクル」が抱えている数々の欠陥にもかかわらず、一人の人間が本質的にいかに幸せな人生を過ごしてきたかということさえわかっていただければ、私は本望である。

 今回は、貴重な写真が載っているのが嬉しかったです。近年のキーン博士の姿だけではなく、父親と乗船しようとしている9歳のキーン少年、沖縄で捕虜に質問している将校時代、ハーバード大在学中の若くハンサムな25歳のキーン青年。そしてコロンビア大学の角田柳作先生(山口晃さんの挿絵より写真の方が格好良い!)。

 中でも、私が一番食い入るように見たのは、キャプションに「第2次世界大戦末期に中国・青島で知り合った日本人にあてたキーン氏のはがき」とある6枚のハガキの写真です。1946年とか1947年の消印で、ニューヨークから東京に宛てたものですが、何に驚いたといって、その日本語の文字です。なんと書き慣れた大人びた字なのだろう、と。特にはっきり読める宛先の部分には舌を巻きました。日本語と出会ってからたった5〜6年しか経っていないのに、キーン青年の字は、まるで日本語(あるいは漢字)を何十年も書いている人のような字です。端整だけど柔らかく、バランスが取れている。日本人青年で、これだけの文字を書ける人は少ないことでしょう。

 言うまでもなく、語学の才能と文字を上手に書く才能とは別物です。またどんなに書く才能があっても、実際に書いて書いて書かなければ上手くなりません。キーンさんは一体どれほどの努力をしたのでしょう。信じられません。ハガキの文面にビッシリと書かれた細かい文字を見ても、スラスラと書かれていることがわかります。キーンさんが日本語を読めないと思っている人たちにこのハガキを見せたいですね。学問的な功績などの説明は難しくて分らなくても、キーンさんの実力は、60年も昔のハガキが全て物語っているのです。一目瞭然とはこういうことを言うのですね。

「私と20世紀のクロニクル」書籍化へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年12月16日

「私と20世紀のクロニクル」最終回

 【第47回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」
の第48回(最終回)
【読売新聞 2006年12月16日朝刊(毎週土曜日連載)】

 とうとう「私と20世紀のクロニクル」の最終回がきてしまいました。

 自分の人生を振り返ってみると、私の人生を左右してきたのは明らかに幸運であって、長い熟考の末の決断ではなかった。大学の教室で中国人の隣に座った偶然が彼の国に対する関心を目覚めさせ、その関心は後年になって東アジア全体に広がり、さらに年ごとに大きく成長を重ねて今や私の人生の一番大事な部分を占めている。太平洋戦争が勃発したのは、まさに日本語の勉強をやり始めた時で、これが私の一生を決定したのだった。

 言い古された表現ですが、キーンさんは見えない糸で引き寄せられるように日本という国と出会いました。でも、戦後多くの日本語将校たちが日本語を捨てる中、よくぞ見捨てなかったと思わざるを得ません。日本的に言うならば、キーンさんと日本は縁があった、ということなのでしょうか。

 日本での生活に一つ不満があるとしたら、それは私の本を読んだことのある人を含めて多くの日本人が、私が日本語を読めるはずがないと思っていることである。日本語で講演した後に誰かに紹介されることがあるが、中には英語の名刺を持っていないことを詫び、あるいは名前に読みやすいように仮名が振っていないことを謝る人がある。東大のある教授などは、私が書いた「日本文学の歴史」を話題にして、「あなたが文学史で取り上げた作品は、翻訳で読んだのでしょうね」と言ったものだ。

 ………。申し訳ないです。ほんと。

 キーンさんは、いままでの自分の人生の転機に、もし時代の流れが違っていたら、どうなっていたかを考えることがあるが、結論は「私は信じられないほど幸運だったのだ」というものだった。キーンさんは最終回をこう締め括った。

 現在、私の身体を満たしていのは感謝の気持ちで、それは世界の様々な土地にいる私の友人たち、とりわけ日本に対する感謝の気持ちである。

 私は、連載を通してキーンさんの人間性をこう感じてきました。キーンさんは平和主義者であり、人を人種や国籍や社会的地位などの偏見無く見ることのできる人だと。そして、くすぐるようなユーモア感覚の持ち主である、といったことでしょうか。ユーモアの部分は、このブログではなかなか伝えられなかったと思いますが、一部だけ引用しても面白さが半減してしまうので、あまり書けませんでした。

 また、他にも私の力不足からその内容の重要性を充分に伝えきれないことがたくさんありました。特に文学、昔の知識人たち、歴史、地理、古典芸能などについての教養が欠けているため、途中で、「大変なことを始めちゃったなあ」と後悔したことも何度かありました。ですが、一般紙に連載する時点で、私程度の人間が読むことは想定していたと思いますし、大衆向けに書くことを心掛けているキーンさんのことですから、それなりの解釈しかできなくても許していただけるかと思い直し、あとは開き直って書き続けてしまいした。

 それとともに、やむなく割愛した部分もたくさんあります。そういうわけですので、読売新聞を読む機会の無かった皆さまは、このブログに頼らず、いずれ出版されるでありましょう単行本か、図書館に保管されている新聞を読んで、もっと深く楽しんでいただけたらと思います。

 今日これを書き終えると、もう「私と20世紀のクロニクル」とはお別れだと思ったら、書くのを先延ばしにしたい気持ちになりました。でも、キーンさんの文から前向きなメッセージを受け取り、キーンさんのご活躍がまだまだ続くことを確信しました。連載が終わることは寂しいですが、この1年間、楽しませていただきましたし、これからも本などでお会いできることでしょう。また来週は、キーンさんの寄稿が掲載されるそうなので、できたらご紹介したいと思っています。

   最後に、キーンさんへ。
 キーンさんは日本と出会ったことを幸運だったと思ってくださっているようですが、日本こそ、自らの文化に自信を無くしていたあの時代に、キーンさんを始めとする親日家たちと出会えて、なんと運が良かったことでしょう。
 日本人と偏見なく接し、理解し、日本語と日本文化の美しさを世界に、(そして日本人に)紹介してくださったことに対して、感謝の気持ちでいっぱいです。また、なによりも日本と日本人を温かい目で見続けてくださったことを嬉しく思います。
 これからも、健康で楽しく研究を続けていただきたいと心より願っております。
 本当にありがとうございました。

番外編(連載を終えて)へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年12月09日

渡辺崋山のリアリズム

 【第46回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第47回
【読売新聞 2006年12月9日朝刊(毎週土曜日連載)】

 渡辺崋山は、絵画にリアリズムを求めたため、彼の描いた儒教学者佐藤一斎の肖像画はそれまでの日本画とは異なったものとなった。

 崋山が関心を持ったのは一斎という人間そのもので、その生気みなぎる顔は日本画では前例がない。崋山の肖像画に描かれた一斎は、ただの学識ある儒学者ではなかった。それは、まぎれもない一個の人間だった。

 崋山は絵画だけでなく西洋の良い所は学ぶべきだと主張し、蘭学を排除して外の世界のことを知らない儒学者たちを、「井の中の蛙」に譬えた。西洋のことを知らなければ、いつか西洋からの侵略に脅かされる危険があると考えたのだ。しかし、これが日本批判と受け取られ、逮捕された。一人の儒学者の嘆願によって処刑はまぬがれたものの、その後自決している。

 すごいな、と思うのが、江戸時代、蘭学など西洋のことを学ぼうとする人たちが、”日本のため”と思って、必死で学んでいる点です。時には命にもかかわるほどの迫害を受けるのに、日本を守るためにはそれが必要だという信念を持って勉学に励む姿は、今では考えられないのではないでしょうか。

今回のエッセイを読んでいて、何が嬉しかったかといって、84歳のキーンさんが今後の仕事に意欲を燃やして、しかもそれを楽しみにしていることでした。

 すでに私は新しい本の仕事に取り掛かっていて、何とかそれを完成させるとしたら少なくとも五年はかかりそうである。この本を書くのは、さぞかし楽しいことだろうと思う。椰子の木陰に座って海を眺めながら、片手にラムの一杯がある――なんてことを、私はこれっぽっちもしたいとは思わない。

 子供の頃、父親から人間は55歳以上になったら役に立たないと言われたことを、真実だと思っていたキーンさんだったが、ある2人の人生を知ることによって考えが変わった。七十代の角田先生の学問に対する愛情と学生にそれを譲ることを喜ぶ姿。(映画の中の)七十代後半の指揮者アルトゥール・トスカニーニの音楽に対する情熱を交響楽団に伝えようとする姿。

いずれの場合も、もっと若い人間には発見できない何かを感じて、それは一つの啓示となって私の心を深く打った。

 何歳になっても何かに打ち込んでいたいと、私も強く思いました。キーンさんが角田先生とトスカニーニの影響を受けたのと同じ心境で、今私たちはキーンさんを見つめています。

第48回へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年12月03日

日本人に道を尋ねられる

 【第45回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第46回
【読売新聞 2006年12月2日朝刊(毎週土曜日連載)】

 経済学者の本多利明は、日本は西洋の国々を見習うべきだと考えていた。それも、何もかも模倣すべきという極端な考え方だった。ヨーロッパ人から、日本人が軽蔑されていると思い込んでいたのだ。

 日本の首都は、ロンドンと同じ緯度にあるカムチャッカに移すべきなどと主張した。そうすればロンドンと同じ繁栄を築けるというのだ。また効率を重視するばかりに、数の多い漢字を放棄し、26文字しかないアルファベットの使用を考えた。絵画まで日本のものを否定し、ヨーロッパの絵画を誉めた。

 今の時代では考えられませんが、未知の言葉をしゃべり、見たこともない外見をしている人に初めて会ったとき、人はいったいどういう気持ちになるのでしょうか。宇宙人との遭遇を想像してみました。そもそも意思疎通ができるのか、自分達と同じ感情があるのだろうかと、恐怖感もあるのではないでしょうか。

 平田篤胤(あつたね)は、オランダ人の外見をまるで犬のようだと描写していた。その内容はなんともすさまじい。この平田の意見は、蘭学者たちの反感を買ったものの、日本人の中にそういう見方があったことは確かだった。

 昨日はここまで書いて中断しましたが、夜になってたまたま見た「世界・ふしぎ発見!」(TBS)のテーマが黒船時代でした。これまた偶然に、当時の日本人が描いた外国人の絵も紹介されていたのです。険しい形相の鬼のようだったり、人魚のように下半身が魚だったり、顔が猫だったり、1つ目小僧のようなものまでありました。外国人を見たことがない人たちがほとんどだったので、誰もそれを否定できなかった。やはり今でいうと宇宙人みたいなものだろう、というお話でした。恐い表情が多いのは、恐怖心の現れではないかともおっしゃってましたね。

 さて、時は明治になり、近代国家建設に向かって外国崇拝の時代もありながら、それでも日本人にとって外国人は「自分たちとはまったく異なる存在」だった。

 明治維新後は外国の文物に対する崇拝の時期と、日本主義の時期がいつも交互に現れた。

 確かに、ここ数十年でも、日本の文化を古いものだと切り捨てて、西洋文化に流れだすと、日本の文化を見なおそうという声が上がるのですよね。自信を無くしたり自信を持ったり、波のように、外国と日本のそれぞれの文化を行きつ戻りつしながら、また新たな文化が生まれるのが日本だと言えるのかもしれません。

 キーンさんには、ごく最近、ことのほか嬉しいことがあった。日本で日本人から道を尋ねられたのだ。
その婦人は私の外見におかまいなしに、私が駅の場所を知っていると判断したのだった。

 これは十年前だったら起こらなかったことだとも言っています。外国人を悪魔か獣としてしか見られなかった昔の日本人のことから考えると、外国人を見る目の大きな変化を示す出来事だったのです。ユーモラスにこう書かれていました。
蘭学者の長い闘いは、ついに実を結んだのだった。

 考えて見ると、キーンさんは私が生まれる前から日本語をしゃべっているのですよね。それに、普通の日本人とは比べようもないほど日本を深く理解しています。しかしその外見から、日本人と同等に、つまりお客さん扱いではなく普通に、扱われないことで傷つくことが多いのかもしれません。まだまだ私たちは鎖国の後遺症の中にいるのでしょうか。そんな気がしてきました。

 2003年、キーンさんは渡辺崋山(思想家、画家)をテーマに研究を始めた。崋山が西洋を偏愛したかどで逮捕され、拷問にあっている絵が、キーンさんの頭から離れなかった。また崋山は日本古来の肖像画や風景画に不満を持っていた。肖像画は、本人と似ていなくても、「威厳がある」などといった抽象的な特徴さえ捉えていれば良かったのだ。

第47回へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年11月25日

西洋文化と蘭学者

 【第44回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第45回
【読売新聞 2006年11月25日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんは、アヤ・ソフィアのモスク、トプカピ博物館のサルタンの宝物などを見るうちに、イスタンブールにも愛着が湧いてきた。特に木造の家々が気に入ったが、最近また訪れてみると、それらは姿を消していた。

 過去15年間で、未知の国々へも旅をした。1998年、日本の巡航客船「飛鳥」での2週間の旅行に招待された。2,3回の日本語の講演をする義務があるだけの、楽しい船旅だ。以来毎年2週間の「飛鳥」の旅が続いている。ニューヨークで生まれ育ったキーンさんでさえ見たことのない、海上からのニューヨークの夜景。夏、太陽の沈まないノルウェーの最北端の岬、などなど世界中の美しく、心を打つ景色を見ることができる旅である。

 世界の各地に愛着を持つキーンさんですが、それは日本への愛情が薄れたことにはならないそうです。旅行者として訪れたい土地はあるけれど、
日本は、いつだって私が行く着く最後の港なのだ
と、嬉しいことを書いてくださってます。不思議ですね。日本人でも外国の方が性に合うと言って、外国で暮らす人もいますしね。

 さて、キーンさんは、日本人が何世紀にも渡って外国人をどう見てきたかにも興味があった。日本人は、歴史的に中国、朝鮮以外の外国人をあまり見たことがなかった。(達磨さんが外国人の顔だとは、今まで考えたことありませんでした)

 16世紀半ばに来日したポルトガル人の顔を、初めて日本人画家が絵に描いた。このころの日本人が次から次へと西洋の文化を取り入れた様子が面白いです。

 流行に敏感な若者たちは、腰のくびれたポルトガルの胴着ダブレットを身につけた。歌舞伎の創始者と言い伝えられる阿国は、宗教的信仰とは関係なく誇らしげに十字架を胸にかけた。ワインはたちまち人気となり、様々な種類の食べ物がヨーロッパのみならず新大陸アメリカからも持ち込まれた、タバコ、カステラ、サツマイモ、テンプラ料理が、この時期に外国から入ってきた。秀吉は西洋の衣服を着てくつろぐのが好きだったし、彼の好物はビーフシチューだった。
 
 今の日本人と変わらないと思うのが、あたらし物好きというか、流行に流されやすいところですね。ところで、テンプラは日本が発祥だと思ってました。

天ぷらは、室町時代に日本に入ってきた南蛮料理の一種。
天ぷらの語源には、ポルトガル語で「調理」を意味する「tempero」、スペイン語で「天上の日(鳥獣の肉が禁じられ、魚肉の揚げ物を食べる日)」を意味する「templo」など諸説ある。
【「語源由来辞典」(http://gogen-allguide.com/)】

 ヨーロッパ人を積極的に受け入れた時代が終わり、鎖国時代がやってくる。ほとんどの日本人は外国人を見たことがなく、「紅毛碧眼(こうもうへきがん)」、つまり赤茶色の髪で青緑色の眼というイメージしかなかった。

 18世紀後半になってヨーロッパの科学の知識を得るため、ごく一部の人達がオランダ語を勉強し始めた。数々の困難にもめげず、日本のためにと学ぶ努力を惜しまなかった。キーンさんは、コロンビア大学の角田先生から徳川時代の思想を学んだときこれらの蘭学者のことを知り、特に本多利明に魅力を感じていた。

第46回へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
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◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年11月18日

ヨーロッパへの郷愁

第43回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第44回
【読売新聞 2006年11月18日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんはずっとオペラを楽しみ続けている。日本人にはセリフが分らないという理由で敬遠されがちだが、セリフそのものは面白味がなく、それが歌われたときの美しさや、主人公の心の奥底にあるものが伝わってくることが楽しめるのだという。

 日本とニューヨークとを半年ずつ暮らし、それぞれの魅力を満喫していた。しかし、ヨーロッパもまた魅力的だった。1981年、キーンさんはケンブリッジ大学から文学博士号を受けた。1つの成果に対してではなく、これまでの仕事すべてに対する評価としてのものだった。

博士号の授与式は、数世紀前にさかのぼるかもしれないケンブリッジの伝統に従って執り行われた。私は文学修士のガウンを着て、大学副総長の前で真紅のベルベットのクッションに跪いた。お祈りの時のように指を組んだ私の手を副総長は両手で包み込み、ラテン語で何か言った。私は答えて、伝統的な文句を短く呟いた。あたかも自分が古代の学者たちの仲間入りをして、過去の多くの偉人たちに連なったような気がした。

 最後のフレーズと似たような文を以前読んだ記憶があります。そうです。「第25回」で、キーンさんが狂言を習ったときの気持ちを、
自分の先生をひたすら真似することは、私をがんじがらめにするどころか、むしろ喜びを与えてくれた。まるで私は、前任者たちが代々受け継いできた狂言の長い歴史の一番お尻のところに自分が連なっているような気がした。
と表現していたのです。

 現代人は「形式」を軽視する傾向があります。私も世の中の様々なことに関して、「形にこだわることはない」と考える人間です。ところがキーンさんの文によって、形式には形式の存在する意味があるのかもしれないとも思えてくるのです。

 さて、話をヨーロッパに戻しましょう。授与式の前に同僚夫妻と見て歩いた景色、荘厳な大聖堂とそれを取り巻く田園風景は、キーンさんが忘れかけていた英国への愛着を蘇らせた。また何度か会議のために訪れたイタリアも、幸せな気分にさせてくれた。また1990年の1ヶ月、コレージュ・ド・フランスで日本の日記について講義した。その間パリを歩き回り、懐かしいホテルを見つけたりした。ここでも幸福だった。

 ヨーロッパで「冒険」したこともあった。1951年、友人3人と英国からイスタンブールへジープで旅行したのだ。目的は東洋学者の会議に出席するためだったが、寝袋持参の旅だった。ジープと共に飛行機でフランスへ着いた後、イタリア、ユーゴスラビア、ギリシャ、トルコと辿った。ギリシャとトルコの間には道がなかった。親切な男の道案内に従って、草原を飛び跳ねながら走っていくと、遠くに一軒の家が見えた。そこがトルコだった。

第45回へ続く】

【 目次は → こちら

★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。

2006年11月11日

キーンさんの世界の中心

第42回の続き】

ドナルド・キーンさんの自伝的長編「私と20世紀のクロニクル」の第43回
【読売新聞 2006年11月11日朝刊(毎週土曜日連載)】

 キーンさんは、足利義政をきまぐれな専制君主だと思っていた。しかし、「日本のこころ」の研究を始めてみると、特に晩年の義政は、繊細で美的天分に溢れた人物だとわかった。

 この時代が日本人に残した文化遺産には、測り知れないものがあることが明らかとなっている。たぶん日本史上、義政以上に「日本のこころ」の形成に影響を及ぼした人物はいなかったのではないだろうか。

 キーンさんの原稿は『中央公論』に約一年間連載されたが、一般の読者には難しかったかもしれなかった。

「日本のこころ」について一番注目すべきことは、日本人がこの言葉を使って次のような信念を伝えてきたことかもしれない。それは、日本人の審美的かつ精神的な嗜好のある部分が日本人独特のものだということだった。あるいは、それは正しいかもしれない。しかし自分たちだけが特別だという確信を、このように強く抱いている国民が他にいるだろうか。

 つまり「そういう国民は他にない」ということですね。これは多くの外国の方々に指摘されるところです。キーンさんが一番言いたいことは、日本人の具体的な価値観や考え方よりも、「自分たちだけが特別だと強く確信している」こと自体が、日本人特有のものだという点でしょう。

 私もよく「日本人特有の」という言葉を使うのですが、そのときいったいどういう心理が働いているのか自問自答してみました。明快な答えは出ないのですが、「日本の価値観をまったく知らない人からは、不思議に思われるかもしれない」といったニュアンスが少し含まれている気がします。無意識のうちに世界を意識しているのです。

 どこの国(民族)にも独自の文化や価値観があります。ただ、ほとんどの国では、自国のことを語るときに外国のことは意識していないのかもしれません。そのため、自国が特別だという観念も生まれないのではないでしょうか。仮にそうだとして話をすすめますが、ではなぜ日本人は外国を意識するのか、といった疑問が湧いてきます。自分でもよくわかりません。どなたかに教えていただきたいです。

 さて、キーンさんは1980年代には、「年中行事」と呼ばれる一連の生活パターンが出来ていた。大晦日は安部公房・真知夫妻と過ごす。

 安部が言うことはすべて興味深かったし、深刻な発言には機知がはさまれ、特に逆説によって耳に快いものとなった。安部夫人もこれに劣らず才気煥発で楽しく、会話に弾みをつけた。

 安部家で会話と日本料理を楽しんだあと、新年は(今でも)永井道雄一家とおせち料理を食べて過ごす。翌日か翌々日には今度はキーンさんが永井家をもてなし、その後はデパートを駆け回る。アメリカの友人たちへのお土産を買うためだ。1月10日ごろニューヨークへと向かう。コロンビア大学の春の学期に間に合わせないといけないのだった。

 私はいつも日本を発つのが悲しくなり、最後にゲートを振り返って私を見送りに来てくれた友人たちに手を振る時、運良くまた戻って来られるだろうかと今でも思う。

 ニューヨークの20年も住んでいる自分のアパートに戻っても、あまり我が家に戻った気がしない。思い出の品々が出迎えてくれるが、キーンさんにとって
私の世界の中心は、日本に移っていた
のだった。

 もちろんニューヨークにも魅力はある。なかでも一番は旧友たちと会えることだ。キーンさんよりかなり年上もいるがまだぴんぴんしているので、5,60年間に渡る昔話に花を咲かせることができるのだ。キーンさんにとってニューヨークといえば、メトロポリタン・オペラのことだった。10代の頃から芝居や映画も数多く見たが、オペラは特別なものであり、誕生日プレゼントに「オペラ観劇の会員券」を買ってもらったことを感謝していたキーン少年だった。

第44回へ続く】

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★ キーンさんの原文(英文)は
『DAILY YOMIURI ONLINE』 (http://www.yomiuri.co.jp/dy/
→ Features → Esaay で、ご覧になれます。


◆ 『昨日の戦地から』
  (ドナルド・キーン編 中央公論新社 2006年7月)

 終戦直後、米軍の若き日本語将校たちがアジアの各地から交わした手紙の全文を、松宮史朗の訳によって読むことができる。今まで抄訳はあったが全文の日本語訳は初めてのこと。手紙とはいえ、その内容は記録とも言うべき詳しさで書かれている。彼らの目から見た当時の日本を含むアジアの様子を知ることは、現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。
(byのん)

★ Donald Keene
コロンビア大学名誉教授、日本文化研究者。日本学士院客員。
菊池寛賞、読売文学賞等受賞多数。勲二等旭日重光章受章。
1922年、米ニューヨーク生まれ。
第2次大戦中、海軍語学校で日本語を学び、英ケンブリッジ大学などを経て、
53年京都大大学院に留学。三島由紀夫らとの交友が始まる。
以来、日米に半年ずつ滞在する研究生活を半世紀にわたって続ける。
『日本文学の歴史』『明治天皇』『思い出の作家たち』など
日米で刊行される著作を多数持つ。