2007年01月05日

年賀状の細い糸

 私にとって年賀状とは、書くのは面倒だけれど、いただくと嬉しいもの。ただ、年賀状だけのお付き合いの人も多く、こういう習慣は意味があることなのだろうかと時には考えることもある。

 女優の沢村貞子さんの『わたしの脇役人生』(新潮文庫)に、「年賀状・心のふれあい」というエッセイがあり、年賀状だけの粋なお付き合いがあることも知った。

 ある年、沢村さんのもとに、昔結婚して仕事をやめた古い女優仲間から、35年の空白を経て年賀状が届いた。沢村さんは、彼女の相手が実は相当な結婚詐欺師で、亡父が残した財産まで取られてしまったことを、風の便りに聞いていたので、「元気だったのね」と心から安堵する。以来賀状のやりとりが続く。会おうと思えばすぐにも会える距離に居るけれど、会わないほうが良いと思っている。

 逢って抱きあって、それぞれの苦労話に涙を流したとしても、それでどうなるんだろうか――別々の四十年のすみずみまでわかりあえる筈もなく、話すほどしらけてきて……やがては折角つながった二人の間の細い糸が、プツンと切れてしまうかも知れない。知らないことは知らないまま、一年に一度のたよりの中で、ソッといたわりあっている方が……いいような気がする。

 お正月は生きていくうえでの大切な折り目だったとも言う。人と人とのつきあいで生まれるわだかまりをも水に流すキッカケになったとか。

 ちょっと改まった格好で、当の相手の家の高い敷居をパッとまたいで、
「エエ、あけましておめでとうございます――昨年中はまことにどうも、何ともおはずかしい次第で……」
 と、頭をさげれば、向こうも、
「イヤイヤ、ま、あめでとう。こちらもまったく年甲斐もない。今年は一つ、お互いに仲良くやってゆきましょうや」
 ということになる。もてあましたこだわりをとかすにも丁度いいとき――お正月をむやみに目出度がるのは……昔の人の生活の知恵のような気がする。

 久しぶりに沢村さんの文章に接して、あの懐かしい声と歯切れの良い口調が耳に蘇ってきた。思わず背筋をすっと伸ばしてしまった。

2006年10月17日

たった2つ

「じんむ、すいぜい、あんねい、いとく……」と聞いて、何のことかすぐにわかる人は何歳以上でしょうか。戦前の小学生たちは、この歴代の天皇の名を初代から全部暗誦したのだそうですね。今調べてみたのですが、大正天皇までで123代もありました。

 1928年生まれの作家・澁沢龍彦(しぶさわたつひこ)のエッセイ「記憶力について」(『文藝春秋』1983年9月号の掲載、のちに文春文庫『巻頭随筆W』に収録)を読むと、昔の人はこればかりではなく、いろいろと暗記させられたようです。

 小学生のときは、先ほどの歴代天皇の名以外にも、「教育勅語」や「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」を、(澁澤さんの)旧制中学では、英語の時間に必ず、前の授業で習った個所を暗誦させられたとか。

 国語で「太平記」を習えば、さっそく「落花の雪に踏み迷う、交野の春の桜がり……」の道行文を暗誦させられた。子どもの頃の記憶力はというものは恐るべきもので、今でも私はほとんど間違えることなく「池田の宿に着き給う」まで暗誦できるのである。

 すごいですよね。この文を書いたときの澁澤さんは55歳ですから、40年以上前に覚えた長文なのに、それがすらすら出てくるわけですからね。子供の頃覚えたことは残るのでしょうか。

 私たちの時代、学校で暗誦させれることは、どのくらいあったのでしょうか。それすら記憶にありません。今でも覚えているのは算数の九九くらいかも…。

 子供の頃、記憶力を鍛えておかなかったせいか、ただの生まれつきなのか(たぶんこちらだと思う)、私は丸暗記というものがとても苦手です。今日も失敗をしてしまいました。

 覚えられないことを自覚している私は、たいてい買物リストを書いたメモを片手にスーパーで買物をします。いつも冷蔵庫に貼ってあるメモに、思いつくたびに書きこんでおくのです。今日は他の用事の帰りにスーパーに寄る予定でした。

 出かけるときにメモに目をやると、2つしか書いてありません。「たった2つかぁ、あとはいつも買うものを買えばいいんだし、2つくらい、さすがの私でも忘れないしょっ! これを忘れるようじゃ困るもんね」と思いました。そのメモ用紙が「でも一応持っていったら?」と語りかけているような気もしましたが、それでも「大丈夫!」と強がって、メモは置いたままで出かけたのです。

 そして、みなさんのご想像通り、用事を済ませてスーパーに着いた私の頭からは、そのメモの内容は消えてしまっていました。いえ、正確に言うならば、なんとか1つは思い出せたのです。でも、どうしてもあと1つが浮んできません。もう本当にガッカリでした。「たった二つのことも覚えられないんだ…」と何度も心の中でつぶやきながら、若干肩を落として買物をしてきました。

 家では、冷蔵庫に貼り付いて「ほらねっ」と言っているかのようなメモ用紙が待ってました。うつむいたまま下から盗み見るように視線だけ向けました。「マ、マヨネーズ…かぁ〜」。

2006年10月13日

ウォークマンという変な名前

 12日、ソニーが「ウォークマン」の新機種を発表したそうですね。ウォークマンが最初に発売されたとき、「おかしな名前だなあ」と思った記憶があります。しかしそれはすぐに社会現象の一つとなり、世界中の人たちにとって愛着のある名前となりました。

 一昨年の早春に、当社の井深さんが「他人に迷惑のかからないようにステレオを聴きたいのだが、あのヘッドホンは、重くて困るし、ステレオからひもつきでは行動も束縛される。携帯用のステレオにヘッドホンをつけて歩いてもみたが、重くて仕方がない」と言いながら一式を私の部屋に持ち込んできた。そこで私も同様に実験してみたが、なるほど音楽は楽しめるが、全く重くてどうにもならない。

 これは、ソニーの盛田昭夫会長(当時)が『文藝春秋』(昭和56年4月号)に寄せている「ウォークマン考」(『巻頭随筆V』に収録、文春文庫)という一文です。ウォークマンを開発するきっかけは、こんなところから始まったようです。

 盛田はすぐに各部署に、「小さなステレオカセットプレーヤーと軽くて邪魔にならないヘッドホン」という主旨の指令を出し、試作機を作ってもらった。完成した試作機はなかなかの出来で、迫力のあり音も良く、大きさ重さも携帯するのに違和感がなかった。

 自宅で聴いていると、何を聴いているのかと思ったのか、夫人が憮然としている。そこで二人で楽しめるようにと、ヘッドホンを二つ付けられるようにしてみた。すると、今度はいざ会話をしようとするといちいちヘッドホンをはずさなくてはならなくて不便だ。なので、マイクをつけて話ができるようにした。

 商品化しようとしたものの、社内のほとんどの人たちから、売れないでしょう、という答えが返ってきた。それでも売れると確信していた盛田は、会長自らプロジェクト・マネージャーを名乗り出て、商品化していく。

 勿論、中には大変な賛同者もいて、早くも「ウォークマン」という変な名が付けられた。英語的にはおかしな言葉で英語国の販売担当者は絶対にいやだといい出し、英国ではストアウェイ、その他の米国を含んだ英語国ではサウンド・アバウトと命名されることになった。

 その後、日本での爆発的人気が世界に伝わり、日本式英語の「ウォークマン」が世界で通用するようになっていきました。

2006年10月11日

怪獣ゴジラの命名

 東宝撮影所長だった雨宮恒之が、『文藝春秋』(昭和59年11月号)に書いた「ゴジラの誕生」は、ゴジラが生まれたときのエピソード。(『巻頭随筆W』文春文庫)

 それは昭和29年のことだった。昼休みにスタッフや俳優たちは中庭の芝生に坐って雑談を楽しんでいた。ある日、特殊技術監督の円谷英二が照れくさそうに、雨宮に話しかけた。

「こんなことをいうと子供っぽいと笑うかもしれないが……」
 と前置きしながら、
「あなたはキングコングの映画を見たことがあるでしょう。あれはサルだが、サルよりもっと大きな怪獣が暴れまわる映画を作ろうと思えば作れるのだが……」

 ”サル”というところが、”そんなものに負けないぞ”という気持ちが現れてますね。

 円谷の話を聞くと自信ありげだし、彼の過去の実績から考えて、雨宮は重役と相談の上その映画の製作を決めた。円谷とプロデューサーの田中友幸がひそかに練っていた企画は、
 海底深く眠っていた恐竜時代の怪獣が、たぶかさなる水爆実験の影響で蘇って異常発達し、放射能を吐きながら日本へと上陸してくるという構想で、荒唐無稽といえばそれまでだが、その年の三月に第五福竜丸被爆事件があり、核への恐怖がたかまっていたころだけに、適切なテーマだった。

 さて、肝心の怪獣の名前をどうしようかと、

 撮影所のプロデューサー会議でその話がでたら、佐藤一郎氏が「昔、東宝にいた社員の網倉志朗さんに、友人たちがゴジラというニックネームをつけたことがある。ゴジラはどうだろう」と言い、それは面白いとみんな賛成してそれに決まった。映画の題名もそのまま「ゴジラ」となった。

 戦前、東宝の社員の間で合成したあだ名をつけるのが流行していた。顔が浜口雄幸、歩き方がチャップリンに似ている人のことを、「ハマチャップ」といったぐあいだ。その中にゴジラと呼ばれる人がいたことを思い出したのだった。ゴリラと鯨の合成である。

 だからゴジラの命名者は、昔の東宝社員の悪童どもの誰かで、よみ人知らずということになる。

 その後のことは、もうみなさんご存知のようにゴジラは大ヒットし、世界的な有名人になっていきました。ゴジラ誕生の年には、第五福竜丸被爆事件が背景にあったのですね。見えぬ恐怖、予測のつかない恐怖、放射能はそういった恐怖をかきたてる最たるものでしょう。

 そのこともあって、単に荒唐無稽だと切り捨てられないものを観客に訴えることができたのかもしれません。もちろん特撮技術、ストーリー性、音楽など映画としての完成度が高くなかったら、そういうわけにはいかなかったでしょうが。

2006年09月28日

ふんどしに描かれた棟方志功の虎

 『巻頭随筆U』(文藝春秋編、文春文庫、1980年)に、棟方志功がふんどしに虎の絵を描いた話があります。堺誠一郎「ふんどしが掛け軸になった話」(『文藝春秋』1967年11月号に掲載)がそれ。

 昭和13年のこと。筆者、堺が第一回目の出征をして2年目、友人の八木隆一郎(劇作家)から慰問袋が送られてきた。

 あけてみると、ふんどしが一本入っていて、それにはいっぱいに虎の絵が墨でかいてあり、志功と、棟方式のサインも入っていた。

 棟方は八木と同郷である。八木の紹介で、出版社勤めの堺も棟方とは親交があった。八木は、そのころ出征する友人たちのために、棟方に頼んでふんどしに虎をかいてもらい、餞別にしていたところ、誰もケガもせず、戦死した者もいないというのだ。堺にも、元気で帰ってくるようにと送ってくれたのだった。

 実際しめられるように紐がついていたが、しめずにいつも大事に持ち歩いていた。そのおかげかどうか昭和14年の初めに無事帰還できたので、父親がそのふんどしを掛け軸にした。以来、毎年五月の節句には床の間に飾るようになったとか。

 当時の棟方志功は、まだごく一部の人だけが知っているという程度で、小さな借家に住んでいたそうだ。そこへ掛け軸の箱書きを頼みに行ったところ、いつも通り大きな声で喜んで迎えてくれた。堺に言わせると、棟方の絵は、じかに描かれたものは版画に比べて全体からの迫力が弱まっている場合が多いのだそうだ。

 ふんどしから生まれ変わった私の掛け軸の虎も、虎を前方ななめ上から見た絵でバックの所どころに竹があり、尻尾がS字型に長く、上の方までのびており、虎の斑点があるのでたしかに虎にはちがいないが、顔を見るとどうしても猫に近い、しかしこんないい記念品はめったにないので、私は大事にしている。

 掛け軸は、丈夫な男の子に育つようにと端午の節句に飾ったのでしょうが、元々がふんどしで、しかも虎の顔が猫に近いとなると、かなり弱そうです。それでも実際、戦地でのお守りになったわけですからね。確かにめったにないいい記念品だと思います。テレビの「なんでも鑑定団」に出してみたいと思うのは私だけでしょうか。

2006年09月25日

落語家チームの珍プレー

 今はたぶん無いと思いますが、昔、落語家の野球チームがあったそうです。イメージだけで言えば、あまり上手な人は居そうにないけれど、やはり実際そのようで、『高座奇人伝』(小島貞二/著 立風書房 昭和54年)にある珍プレーの数々は、いかにも落語家らしく、出来すぎとも思えるほどでした。

 昭和3年に柳屋金語楼が結成した「ダイナマイト・チーム」は、
「初試合をぜひ勝利で飾ろう」と、相手に小学生チームをえらんで七十対〇。これも残念ながら相手が強すぎたのである。

 負けたんかい!

 昭和5年、八代目桂文冶が「桂文冶チーム」を作り、初戦相手は漫画家チームとだったが、初回に主戦投手の鈴々舎馬風が12点取られた。

 そこで応援団長の橘家円太郎(当時百円)が、球審にコップ酒を二杯ふるまって、少し手心を加えてもらったが、その涙ぐましい裏面作戦も空しく、結局二十対三で惜敗(?)した。馬風の出した四球が三十六個。あとで馬風、「どうだい、四球三十六というだろう」

 さすが、噺家! …って誉めていいのやら。

 七代目林家正蔵(林家三平の父)は太っていて、百メートルを走るのに1分半もかかるうえ、ひどい近眼だったが、なんと「語睦会チーム」の主力選手だった。戦時中の軍隊慰問で、傷痍軍人チームとの試合のとき、めったに打たないヒットを打ったため、嬉しさのあまり打球の飛んで行ったレフトへ走ってしまった。もちろんアウトになり、「一塁まであんなに遠いとは思わなかった」。外野守備のとき、鳥を球と見間違えて、鳥の方に走ってしまったりもした。

 また別のゲームで、試合中にセンターを守ってるはずの正蔵がいない。さがすと、外野席にいたお客さんから声をかけられ、すわりこんで、一ぱいごちそうになっていた。

 オーイ! 戻って来〜い! 

 以前堀井憲一郎さんが書いていた話に、こんなのがありました。あまり野球に詳しくないメンバーでチームを作ったとき、満塁なのに、なぜか二塁ランナーだけが、(だけが、デスヨ)盗塁をして、びっくりした三塁ランナーが飛び出してしまい、行き場を失ってアウトになったというのです。三塁ランナーの困った顔が目に浮んで大笑いしてしまいました。

 落語家チームの珍プレーは、審判を酒で惑わしたりと、堀井さんのチームとは違った意味で、あまりに大胆で、そんな野球を見てみたいと思いました。高度な技術や真剣勝負はプロ野球でしょうが、草野球には野球の楽しい原点があるような気がします。草野球、最近は身近であまり見られなくなりました。 

2006年09月20日

しとしとぴっちゃん

 森本哲郎著『日本語 表と裏』(新潮文庫、昭和63年)にある「しとしと」という文を読むと、日本語には擬態語や擬声語がいかに豊富にあるかを知ることができるのですが、特に水にまつわる言葉が多いことも思い出させてくれます。

「雨がしとしと降る」を、日本語が堪能な中国人に訳してもらうと、「さて、何と訳したものかなあ。強いて訳せば、細雨不停地下とでもいうかな」と言い、それでも「しとしと」という情感はとうてい伝わらないだろうと、つけ加えたとか。

 水に縁のある言葉が列挙されていました。
唱歌「春の小川はさらさら…」の「さらさら」、「ざぶざぶ」、「さめざめ」、「しっとり」、「じっとり」、「じめじめ」、「じゃーじゃー」、「じゃぶじゃぶ」、「ぽたぽた」、「ぴちゃぴちゃ」、「びしょびしょ」、「ぷかぷか」、「ぶくぶく」、「ぽつぽつ」、水から泡が立つ音「ぼこぼこ」、「がぶがぶ」、「ごぼごぼ」、「とどろ」、「ごうごう」、「どぶん」、「ぱちゃん」、「ざー」、「しとしと」

 「とどろ」は、「大波はとどろに打ち寄せ…」というように使うそうです。これは知りませんでしたが、その他は無意識に使い分けしています。「しっとり」より「じっとり」の方が水分が多いと感じられますが、この感覚は誰かに言葉で説明されて学んだのではなく、生活をしていく中で身に付いたものなので、実際その違いはなかなか日本語でも説明しにくいです。

 さて、筆者は、「しとしと」と「じとじと」、「きらきら」と「ぎらぎら」、「さーっ」と「ざーっ」などの例を出して、清音は快く、濁音は不快感を伴う感覚語になっていると述べています。なるほどと思いましたが、濁音には不快感だけでなく、力強さのようなものも含まれているのではないでしょうか。

 同じ音を重ねても、それが清音であるか濁音であるかによって、意味や情感がすっかり変わるという日本語のオノマトペは、何と微妙な言語であろうか! そろそろ歩く、といえば、その歩き方は忍びやかで、もの静かな動作だが、それを、ぞろぞろ歩く、と濁れば反対に騒がしい多勢の人間の歩行のさまとなる。

 最後は、田辺聖子さんのエッセイ『男はころり女はごろり』のタイトルを評して、<何とまあ、心憎い表現ではないか! >と締め括られています。なんだか納得できません。やはり濁音には不快感が伴ってしまうからなのでしょうか。

2006年09月18日

数学は忘れても

 最近、映画「博士の愛した数式」を観ました。終わったあと、また一つ一つの情景を思い出したくなるような映画でした。きっとあちこちに深い意味が込められているのでしょう。私にはその一部しか見えていなかったのかもしれませんが、それでも充分でした。

 ただ、数学をすっかり忘れていることを、しっかりと再認識させられました。そこで今日は、あの映画にもちょっとだけ繋がる数字のお話を紹介します。

 数学者・矢野健太郎「数学者のしゃれ」より、矢野健太郎が直接教えを受けていた掛谷宗一先生のお話。
【月刊『文藝春秋』の巻頭随筆欄に掲載され、『巻頭随筆』(文藝春秋編、文春文庫、1979年)に収録。『すうがく随筆』(新潮社)などにも収録】

 あるとき私は掛谷先生から風呂敷をいただいた。それをひろげてみると、なんとそこは、平方根マイナス・イチ、すなわち√-1 が図案化されて染めぬかれていた。

 掛谷先生から意味がわかるかと聞かれた。√-1(-1はルート記号の中にあると思ってくださいbyのん)が、iで現されることから、そこに何かあるとは思ったものの、それ以上はわからなかった。

 すると掛谷先生は、してやったりという顔をされて、
「愛はすべてを包む」
 という意味だよと言われたのには参った。
 私は、この掛谷先生のしゃれを拝借して、平方根マイナス・イチのことを忘れてしまったある女子大生に、
「御婦人が愛を忘れては困りますね」
 と言ってみたが、これはあまりうまくは通じなかった。

 しゃれは難しいですね。
このエッセイには、他にも何人かの数学者のしゃれが書かれていましたが、高木貞冶先生のところを読んで、突然昔の記憶が蘇りました。

 あるとき先生は、微分学の定理であるのに、それまでは積分学を用いて証明されていた定理を、ついに微分学だけを用いて証明することに成功された。これを発表された折りに先生は、その立派な学術論文の最後に、
「昔から言うではありませんか、ビブンのことはビブンでせよと」
 と付け加えられたたが、これには読んでいた私の方があっけにとられてしまった。

 学術論文でそう来ましたか……。
私の学生時代も、数学の先生がよく言っていたことを思い出しました。「ビブンのことはビブンで」って。でもその先生は、微分の問題は自分で解きなさいという風な意味に使っていましたっけ。肝心の授業内容はさっぱり忘れてしまっているのに、こんなことだけはしっかりと記憶にあるのでした。

2006年09月15日

やっこらしょ

 昔の旧制中学でのエピソードが書かれているのだと思い込み、気楽に読み進んだ。作曲家・服部公一「やっこらしょ、どっこいしょ」というエッセイ('74年)は、ユーモアのある書き出しだったのだ。
【月刊『文藝春秋』の巻頭随筆欄に掲載され、『巻頭随筆』(文藝春秋編、文春文庫、1979年)に収録されたもの】

 松木先生というそれはそれは怖い英語の先生がいた。生徒たちは先生の罵詈雑言に耐え、飛んでくるチョークに怯えなくてはならなかった。先生の言葉は不勉強な生徒たちの心を容赦なくえぐった。

 したがって、松木先生の授業の始まる前の休み時間は、誰一人室外に出ず、戦々兢々のうちに秒きざみの予習をし、気の弱いものは、もはや上がり気味で、赤くなったり青くなったりしているていたらくであった。

 クラスにMという少年が居た。背は低いのだが、フットボールの試合などで自分より大きな相手をはねとばしかけ回るファイトマンだ。Mも松木先生の授業の前はかなり緊張して、細心の下調べをしていた。

 そして、始業のベルが鳴るとつとめて気をひきたたせるようにおどけた調子で
「やっこらしょ、どっこいしょ」
 と調子をつけてドスンと椅子に腰をかけ、この苛酷な授業を待つのであった。
 Mのこのひょうきんなかけ声は、近くの席のもののまねるところとなり、そこここで、「やっこらしょ、どっこいしょ(……ドスン)人事を尽くして天命を待つ、どうぞ松木先生おてやわらかに」という風に使われ、この授業の前のはやり言葉になっていた。

 ところが、このエッセイは最後になって思わぬ展開をみせる。高校卒業し、二十数年のブランクのあと同窓会に現れたMは、国際線機長となっていた。

 そして再会後数ヶ月の昭和四十七年十一月二十九日、彼はモスクワ・シュレメチェボ空港で離陸に失敗して墜落したDC8の機長として死んでしまったのである。
 えものにうえていたはげ鷹のように、マスコミはその事件をとり扱い、機長の気のゆるみがこの大事故の原因ではないかとまことしやかな推論をたてた。
 それが証拠には、ボイスレコーダーの録音テープに、
「やっこらしょ、どっこいしょ……」という機長のおどけた声が残っているというのである。
 しかし、その衝撃のニュースの中で、私は二十数年昔の松木先生の英語の時間をすぐ想い出し、あのおどけた声が、気のゆるみのあらわれなどでは決してないということを確信していた。
 早いもので彼の一周忌もすぎてしまった。

 27年前、最初にこの部分を読んだときは愕然とした。これは濡れ衣ではないか、ちゃんと真相は解明されたのだろうかと心配し、マスコミの取材も偏見に満ちている、と憤慨した。そんな風に正義感に燃えた。

 しかし、今もう一度読んでみると、自分だって同じじゃないかとゾッした。もし、その事件のとき、「『よっこらしょ、どっこいしょ』というおどけた声が……」などと聞いたら、私もきっと「機長はたるんでいたんだ」と思ったに違いないのだ。今でもテレビなどのマスコミから流れる情報に、(乗せられまいと思いつつ)乗せられている。

 「よっこらしょ、どっこいしょ」という声が残っていたことは”事実”であってウソではない。だが、第三者が”事実”を繋ぎ合わせたからといって、必ずしも”真実”にはならないということだけは、肝に銘じていこうと思っている。

2006年09月13日

快食快眠快便・考

 入院すると、看護婦さんから毎日「食事はどのくらい食べられましたか? 夜よく眠れましたか? 昨日は、おしっこと便は何回出ましたか?」などと聞かれる。病気の種類にかかわらず共通した質問のようだ。やはり人間の体調管理の基礎なのだろう。実際、この中のどれかひとつでも不調になると苦しいもので、他のふたつにまで影響してくる。健康なときには何とも思わなかったこれらのことが、いかに大切かと思い知らされることになる。

 今日も古いエッセイをご紹介。本のタイトルはズバリ『快食快眠快便』(文春文庫 1990年12月)。ここでの有名人約80人の体験談が面白い。(敬称略)
1970年頃から20年間『オール読物』の連載コラム「快食快眠快便」から選ばれて収録されたもので、1990年の文庫収録にあたって本人により追記されているものもあります

 「快便」にまつわる話の中で、和田アキ子のエピソード。
デビューしたての若かりし和田が便秘薬を飲もうとしたところ、佐々木勉に見つかり、何の薬かと尋ねられた。若い女性なら誰しも言葉を濁すだろう。彼女も例外ではなく、つい二日酔いの予防だと答えてしまう。だったら俺も、というわけで和田の飲んだ2倍の量を口の中に放り込んでしまった。佐々木が翌日寝込んでしまったのは言うまでもない。しかも食中毒だと信じたまま…。男性は女心を察しましょう。

 タイトルが「快食快眠快便」でも、便について語られている部分が一番長いようだ。多くの人たちが熱心に詳細に書いている。他人には感心が薄い話題なのに、当人にとっては相当意味のあることだとよくわかる。

 「食」生活は、かなりめちゃくちゃな人が多く、例えば鈴木義司は、飲んだあとでも深夜にトンカツを食べ続ける。痛風になってもやめられない('70年)。同じ漫画家でも福地泡介は、逆に食べるという作業が面倒で、ちょっと箸をつけただけで嫌になる('72年)。伊丹十三は一日一食。徹底的な空腹感を味わわないと気が済まないのだという('76年)。ストイックなところが、”らしい”。

 作家の胡桃沢耕史にいたっては、あるときから、食べるのは肉だけにしようと決めた。穀物は消化が悪く、肉は消化が良いと思ったからだ。消化が良ければ胃の負担が少なく、胃さえしっかりしていれば、脳に血が回り、心臓に活力が届くと考えた。

 そこでぼくは決めたのです。経済力と事情が許せば、今後一切の食事を肉に統一しよう。一人ぐらいそんな人間がいてもいいのではないか。単に便を増やすだけの野菜や果物は口に入れずに生きてきました。
 おかげで一日一回、完全にこなれたものをストンと落とすだけ、我が生涯は、消化不良、下痢、便秘、全くしらずの快調です。
('81年)

 これを読んで、本当にそんな食生活で快調なのかと不思議に思う方も多いはず。心配は現実のものとなっていました。10年後の追記にはこう書かれていたのです。考えさせられます。

 ところが大変。肉だけでは、人間はやはり六十四歳までしか生きられません。去年血管に脂がつまって、心筋梗塞、やっと生命は取り止めましたが、今のぼくは本来なら没後の一年を、細々と生きています。

 さて、「眠」に関しては、あまり印象に残った話がありません。
ただ、作家の渡辺淳一が外科医だったころ、手術中に居眠りをしてしまったという話はおそろしかった。