週刊文春で連載されていた高島俊男さんの「お言葉ですが…」。
連載終了を残念に思っていた方々、
もっともっと読みたいと思っていた方々に朗報です。
WEB草思にて「新・お言葉ですが…」として復活したそうです。
(Akimboさんのブログで知りました)
まだ「お言葉ですが…」を読んだことのない方も、
ちょっとクリックしてみては…?
【追記】昨年末「翻訳blog」さんにて予告されていたのですね(^_^;)
2007年02月16日
2006年08月11日
うっかり辞書を信じるところだった
年度末でもないのに、週刊文春の連載物が6つも終わってしまう。高島俊男さんの「お言葉ですが…」も【8月17日・24日夏の特大号】が最終回となってしまった。知識の乏しい私には難しい話が多かったけれど、いろいろと勉強させていただいたので、もっと続けていただきたかった。
高島さんが、文中で、物(言葉)を知らない人に向かって憤っている様子は、読んでいるこちらまで、「日本人でいてそんなことも知らないのか」と叱られているような気がすることもあったけど…。
このブログを始めるずっと前に読んだ中で、こんなのがあった。社名は伏せますが、ある大新聞の社説(か、コラムか)の、テロを非難する文中で、その犠牲者は”無垢(むく)の人たち”だと書かれていたそうだ。ある人が”無垢”ではなく”無辜(むこ)”ではないかと質問の手紙を出したところ、「無垢も無辜も英語にすると同じ単語なので、無垢でも良いと思う」という内容の返事が届いた。
そんなバカな話があるかと、その人は怒り心頭で、それを高島さんに送ってきたという話だった。もちろん高島さんも、怒ったり呆れたりして、エッセイで紹介したわけである。
テロで亡くなったり、怪我をしたり、大切な人を失ったり、家を破壊されたのは、何の罪も無い人たちだと言いたかったのだろう。だとしたら、何の罪も無いという意味の”無辜”を使うのがふさわしい。”無垢”は純粋とか汚れていないという意味で、少しニュアンスが違うのだ。そもそも、英語にすれば同じだから、どちらの日本語を使っても同じなどということがあろうはずがない。それを承知の上でこんな返事を書いたのなら、質問者を馬鹿にしているとしか思えないのだ。
恥ずかしながら”無辜”という言葉すら知らなかった私だけれど、さすがにこの新聞社の返答は、ひど過ぎると思った。文章のプロが、こんな子供だましの手を使うんだと知った。
ここ数週間に渡って、高島さんがテーマにしてきたのが、「豫、預、予」は同字だということ(正字、異体字、略字の違いだけ)。したがって「豫言」、「預言」、「予言」、どう書いても同じこと。広辞苑にどう書いてあろうと――だ。
辞書についても、専門家が監修し作っているにもかかわらず、一つの誤りが、そのまま次の辞書に引き継がれ、次第にそれが正しいことのようになっていくことも知った。
新聞も辞書も、人間が作っていることを教えてくださった高島俊男さんに、ありがとうございましたと申し上げたい。
高島さんが、文中で、物(言葉)を知らない人に向かって憤っている様子は、読んでいるこちらまで、「日本人でいてそんなことも知らないのか」と叱られているような気がすることもあったけど…。
このブログを始めるずっと前に読んだ中で、こんなのがあった。社名は伏せますが、ある大新聞の社説(か、コラムか)の、テロを非難する文中で、その犠牲者は”無垢(むく)の人たち”だと書かれていたそうだ。ある人が”無垢”ではなく”無辜(むこ)”ではないかと質問の手紙を出したところ、「無垢も無辜も英語にすると同じ単語なので、無垢でも良いと思う」という内容の返事が届いた。
そんなバカな話があるかと、その人は怒り心頭で、それを高島さんに送ってきたという話だった。もちろん高島さんも、怒ったり呆れたりして、エッセイで紹介したわけである。
テロで亡くなったり、怪我をしたり、大切な人を失ったり、家を破壊されたのは、何の罪も無い人たちだと言いたかったのだろう。だとしたら、何の罪も無いという意味の”無辜”を使うのがふさわしい。”無垢”は純粋とか汚れていないという意味で、少しニュアンスが違うのだ。そもそも、英語にすれば同じだから、どちらの日本語を使っても同じなどということがあろうはずがない。それを承知の上でこんな返事を書いたのなら、質問者を馬鹿にしているとしか思えないのだ。
恥ずかしながら”無辜”という言葉すら知らなかった私だけれど、さすがにこの新聞社の返答は、ひど過ぎると思った。文章のプロが、こんな子供だましの手を使うんだと知った。
ここ数週間に渡って、高島さんがテーマにしてきたのが、「豫、預、予」は同字だということ(正字、異体字、略字の違いだけ)。したがって「豫言」、「預言」、「予言」、どう書いても同じこと。広辞苑にどう書いてあろうと――だ。
辞書についても、専門家が監修し作っているにもかかわらず、一つの誤りが、そのまま次の辞書に引き継がれ、次第にそれが正しいことのようになっていくことも知った。
新聞も辞書も、人間が作っていることを教えてくださった高島俊男さんに、ありがとうございましたと申し上げたい。
2006年08月07日
声に恋する
つい人の声に敏感に反応してしまう。声が視覚的なイメージ(特に線状のもの)に変換されてしまうのだ。例えば、か細く、かすれ気味の声を聞くと、墨を少なめに含ませた細筆で、和紙に擦るように描いた線が、頭に浮んでくる。時には、その線に色がついていることもある。
顔を見なくても、テレビやラジオから流れてくる声を聞くと、(それほどメジャーな人でなくても)たいていすぐに誰の声か分かる。それは、普通の人には当たり前のことかもしれないけれど、私は他人の顔や名前を記憶する能力がとても欠如しているので、声に関心が高いことは確かなようだ。
声はその人のイメージとして、とても重要な要素だと思う。試しに、好きな俳優さんやタレントさんの顔を思い浮かべ、声だけ嫌いな人の声に置き換えて想像してみて欲しい。「ガッカリだよ」「やめて〜」となるはずだ。
また、ラジオや歌によって声を先に知って聞き惚れ、イメージを膨らませすぎてしまい、あとから本人を見て失望することもある。もちろんそれは、勝手にイメージを作り上げてしまった側に責任があるのだが、かように声と人物のイメージは繋がりが深い。
高島俊男さんが、テープに録音された斎藤茂吉の声を聞いたという話を、「お言葉ですが…」【週刊文春 2006年8月10日号】に書いている。茂吉が自作の歌をよんだときのものだ。
作家や歌人とはいえ、作品から浮かび上がってくるイメージというものがあるが、それにふさわしい声だったので、高島さんも嬉しかったようだ。
ちなみに、私が一番好きな歌声は、カーペンターズのカレンの声だ。彼女の声から浮んでくる線の画像は、ふっくらと立体的で手触りが良く、それでいて(見えない内部に)芯が通っていて伸びやか。耳も心も安心できるものなのだ。
顔を見なくても、テレビやラジオから流れてくる声を聞くと、(それほどメジャーな人でなくても)たいていすぐに誰の声か分かる。それは、普通の人には当たり前のことかもしれないけれど、私は他人の顔や名前を記憶する能力がとても欠如しているので、声に関心が高いことは確かなようだ。
声はその人のイメージとして、とても重要な要素だと思う。試しに、好きな俳優さんやタレントさんの顔を思い浮かべ、声だけ嫌いな人の声に置き換えて想像してみて欲しい。「ガッカリだよ」「やめて〜」となるはずだ。
また、ラジオや歌によって声を先に知って聞き惚れ、イメージを膨らませすぎてしまい、あとから本人を見て失望することもある。もちろんそれは、勝手にイメージを作り上げてしまった側に責任があるのだが、かように声と人物のイメージは繋がりが深い。
高島俊男さんが、テープに録音された斎藤茂吉の声を聞いたという話を、「お言葉ですが…」【週刊文春 2006年8月10日号】に書いている。茂吉が自作の歌をよんだときのものだ。
想像通りである。正直で重々しく厚みのある声。イ列音とエ列音がやや近い発音。想像していた声と、実際の声とがこんなにぴったり一致したのは初めてだ。
作家や歌人とはいえ、作品から浮かび上がってくるイメージというものがあるが、それにふさわしい声だったので、高島さんも嬉しかったようだ。
ちなみに、私が一番好きな歌声は、カーペンターズのカレンの声だ。彼女の声から浮んでくる線の画像は、ふっくらと立体的で手触りが良く、それでいて(見えない内部に)芯が通っていて伸びやか。耳も心も安心できるものなのだ。
2006年06月13日
「預かる」気持ち
高島俊男さんの「お言葉ですが…」【週刊文春 2006年月6日15号】に、日本語の「預ける」「預かる」という観念は外国語には無いだろうと書いてある。高島さんは、雑誌『諸君!』(今年5月号)の時局評論「紳士と淑女」にある<だいたい自分の進退を「党に預ける」(…)なんていうセリフ、英語に翻訳できないよ。>という部分を引用して、「まことにその通り」と言っている。
そう言われてみると、「預かる」「預ける」は、ずいぶん幅広い場面で使われている。預けるものが、多種多様なのだ。高島さんはそれらの具体的な場面を、知り合いに英語や中国語に翻訳してもらったが、やはりその場面場面に応じた単語に訳すしかないらしい。
これらをひっくるめて「預ける」「預かる」の一言で、分かり合えてしまうことを今まで不思議に思ったことはなかった。子供やペットを預かるということは、その世話をするという意味も含んでいるということは、説明がなくても日本人なら誰でもわかる。
確かに、たとえ何であれ「預かったものは、粗末に扱えない」という暗黙のプレッシャーがある。こういった「預かる」「預ける」という観念が、英語や中国語の世界には無いそうだ。たぶん他の国でもそうだろうと高島さんは書いている。
もしかして、「(私の)進退は(党の)判断にお任せします」と言わないで、「進退を預けます」と表現するのは、潜在的に”悪いように扱わないでね”という願いが込められているのかな。
そう言われてみると、「預かる」「預ける」は、ずいぶん幅広い場面で使われている。預けるものが、多種多様なのだ。高島さんはそれらの具体的な場面を、知り合いに英語や中国語に翻訳してもらったが、やはりその場面場面に応じた単語に訳すしかないらしい。
クロークが荷物を預かるのは keep。隣の子を預かるのは take care of。銀行が金を「預かる」のも託児所が子供を「預かる」のも look after。
これらをひっくるめて「預ける」「預かる」の一言で、分かり合えてしまうことを今まで不思議に思ったことはなかった。子供やペットを預かるということは、その世話をするという意味も含んでいるということは、説明がなくても日本人なら誰でもわかる。
一般に日本人は、他人のもの(人であれ金や物であれ)を預かったばあい、当然手を加えたり他人に譲ったりすることなく、原形のままもとの持ち主に返すものと思っている。預かった者が相手のことわりなく自分のふところに入れたり処分したりすることは考えていない。
確かに、たとえ何であれ「預かったものは、粗末に扱えない」という暗黙のプレッシャーがある。こういった「預かる」「預ける」という観念が、英語や中国語の世界には無いそうだ。たぶん他の国でもそうだろうと高島さんは書いている。
もしかして、「(私の)進退は(党の)判断にお任せします」と言わないで、「進退を預けます」と表現するのは、潜在的に”悪いように扱わないでね”という願いが込められているのかな。
2006年04月18日
電話が鳴っている
電話をかけるとき、今は相手にとって都合の悪い時間帯ではないかと迷う。なるべく「今、大丈夫?」などと尋ねるようにしているけれど、相手も無理して「大丈夫」などと言っているかもしれない。そんなことを考えてしまうので、事務的な用件は別として、普通のおしゃべりの電話はなかなか自分からはできないでいる。
また、電話の呼び出し音を聞くと、何をしている最中でも、とるものもとりあえず、早く出なくては、と急いでしまう。「はい、はい、はい」などと聞こえるはずもない返事しながら、気ぜわしい。こういう人は珍しくないようで、高島俊男さんの「お言葉ですが…」【週刊文春 4月20日号】の中に、似たような様子が書かれていて可笑しかった。
それと、食事中も口の中に食べ物があるので困る。そして、もっともタイミングの悪いのがトイレに入っているときだ。
そ、そこまでしなくても…。でも、気持ちはわかる。重大な急用かもしれないのだ。ベルの音が「早く、早く」とせきたてる。
私も、やっちゃいそう…。
また、電話の呼び出し音を聞くと、何をしている最中でも、とるものもとりあえず、早く出なくては、と急いでしまう。「はい、はい、はい」などと聞こえるはずもない返事しながら、気ぜわしい。こういう人は珍しくないようで、高島俊男さんの「お言葉ですが…」【週刊文春 4月20日号】の中に、似たような様子が書かれていて可笑しかった。
電話にでにくいばあいはいろいろある。たとえばふろにはいろうとしてすっかり裸になった時に鳴り出す。あわてて駆けつけて取る。はじめのうちはまだしも、二分三分とたつと寒くてガタガタふるえ出す。相手は平気でしゃべっている。手がとどけば殺してやりたい、と思う。
それと、食事中も口の中に食べ物があるので困る。そして、もっともタイミングの悪いのがトイレに入っているときだ。
飯よりいっそうぐあいがわるいのが小便である。出かけたところへ鳴り出す。
小便をしはじめてからしおわるまでは、あれでなかなか時間がかかる。やむなく小便を無理に中途でとめて電話にかけつける。
そ、そこまでしなくても…。でも、気持ちはわかる。重大な急用かもしれないのだ。ベルの音が「早く、早く」とせきたてる。
何かで見た話。――近くで火事がおきたので急いで家財を持ち出していたところへ電話が鳴った。おっさんあわてて荷をおろして受話器を取った。「はい、もしもし…」。
私も、やっちゃいそう…。
2005年12月23日
零>=0
「零」には「少しある」という意味と、「0」という意味の2つがあるということをご存知でしょうか。もともとは「少しある」の意味だったのが、西洋の数字が入ってきたときに「0」にこの字をあてるようになって、2つの意味が混在するようになった。…と、これは高島俊男さんの「お言葉ですが…」【週刊文春 12月29日号】からの受け売りです。
自分はどうだろう。「零点」「零下3℃」「零細企業」どちらの意味のときも「れい」と読んでいるな、と安心したところ、ふと「ゼロ戦」は確か「零戦」と書いて「ゼロせん」と読んでいることに気がついた。でもレイ戦なんて聞いたことがない。そこでネットで調べて見ることにした。
ありました。「大空の覇者 零戦」というサイトにわかりやすい説明があったので、引用させていただきます。
やはり本当は「レイ戦」だったのだ。戦時中一般の日本人にその名をあまり知られていなかったというのは意外だったけれど、だからこそ戦後その「ゼロファイター」という呼び方が逆輸入されるような形で国内でも「ゼロ戦」と呼ぶようになった、という説明に納得がいった。
ところで、ゼロにまつわるとても面白い話も載っているので紹介したい。まずその前にこの質問を考えてください。「西暦紀元3年の5年前は何年か?」。
コンピュータを使って時代の暦を詳しく再現した本があるそうなのだが、紀元前の出来事が一年ずれているのだという。その原因は、西暦紀元0年という年を計算に入れていたからだそうだ。西暦紀元0年は存在しない。(かくいう私も西暦0年があるとか無いとか考えたことがなかったのだが…)
ごもっとも。すみやかにプログラムのバグを修正していただきたい。へたをすると平成2年の2年前が平成0年になりかねない。そこで先ほどの問題に戻って「西暦紀元3年の5年前」を「紀元前2年」と思ったら、かのコンピュータと一緒です。修正しましょう。
「零」は、雨カンムリがついているのでわかるようにもともとは雨のしづくで、ひいて「小さい、僅少」の意にもちいる。しかしゼロではない。
人に本を読んでもらっていて、「零」を「ゼロ」とよむのにビックリした。音のつもりが訓のつもりか、とにかく「零」のよみは「ぜろ」だと思ってるらしいんですよね。
自分はどうだろう。「零点」「零下3℃」「零細企業」どちらの意味のときも「れい」と読んでいるな、と安心したところ、ふと「ゼロ戦」は確か「零戦」と書いて「ゼロせん」と読んでいることに気がついた。でもレイ戦なんて聞いたことがない。そこでネットで調べて見ることにした。
ありました。「大空の覇者 零戦」というサイトにわかりやすい説明があったので、引用させていただきます。
1 「ゼロ戦」か「レイ戦」か?
通称「零戦」の呼び方は「ゼロセン」の方が一般的には知られているが、これは開戦と同時に現れ、味方機をバタバタと撃墜してしまう悪魔のような(米軍から見て)戦闘機に恐怖感とゼロの発音から来る不気味さを込めて、米軍側で「ゼロファイター」と呼んでいたのです。
太平洋戦争中「零戦」の名はあまり国内では知られておらず、専ら陸軍機の「隼」の方が「加藤隼戦闘隊」などの歌で宣伝され国民には親しまれていたのですが、戦後米軍による「ゼロファイター」の名で、「零戦」の優秀性や苦戦談などの記録が発表されと同時に日本側でも「零戦」に関する多数の書物が発刊されるに至り、一気に広く知れ渡り国内でも多くの人が「ゼロ戦」と呼ぶようになりました。
しかし「零戦」の制式名は「零式艦上戦闘機」で、海軍では略称「レイ戦」と呼ばれていました。
やはり本当は「レイ戦」だったのだ。戦時中一般の日本人にその名をあまり知られていなかったというのは意外だったけれど、だからこそ戦後その「ゼロファイター」という呼び方が逆輸入されるような形で国内でも「ゼロ戦」と呼ぶようになった、という説明に納得がいった。
ところで、ゼロにまつわるとても面白い話も載っているので紹介したい。まずその前にこの質問を考えてください。「西暦紀元3年の5年前は何年か?」。
コンピュータを使って時代の暦を詳しく再現した本があるそうなのだが、紀元前の出来事が一年ずれているのだという。その原因は、西暦紀元0年という年を計算に入れていたからだそうだ。西暦紀元0年は存在しない。(かくいう私も西暦0年があるとか無いとか考えたことがなかったのだが…)
ある人にこの話をしたら、「そりゃコンピュータは0(ゼロ)を設定しないと駆動しません。西暦0年がないのなら作らなきゃいけませんね」と言った。
コンピュータのつごうで歴史の年代をずらすなんてムチャクチャだ。
ごもっとも。すみやかにプログラムのバグを修正していただきたい。へたをすると平成2年の2年前が平成0年になりかねない。そこで先ほどの問題に戻って「西暦紀元3年の5年前」を「紀元前2年」と思ったら、かのコンピュータと一緒です。修正しましょう。
2005年12月05日
「春は紺より水浅黄よし」
高島俊男さんが「お言葉ですが…」【週刊文春 12月8日号】で、面白い句を紹介している。幸田露伴の『平将門』に七七の句がひんぱんに出てくるんだという。ことわざでもなく俳諧とも思えないと高島さんは定義に困っておられるのだが、それはともかくとして、「そういう表現があるのか」と愉しめた。「」でくくった七七の句が文中にうまくはまっていて、高島さんの解説とあわせて読むとなるほどと感心する。
幸田露伴がこう書いている。
なるほど歳を重ねてくると、そんな風に思えてきますよ、ほんと。
以下、七七句と高島さんの説明を並べてみます。
心あたりのある方、居ますよね、いっぱい。
最後に紹介されている句は「春は紺より水浅黄よし」。これには解説がない。つまり誰でもわかるってことらしいのだけど、私にはわからない。調べてみたら「水浅黄色」という色がありました。辞書によれば「薄いあさぎ色」で、その浅黄色(または浅葱色)は「わずかに緑色を帯びた薄い青。また、青みをおびた薄い緑色」。いずれにしても綺麗な色です。
そこでこの句を勝手に解釈してみた。「おだやかな暖かい陽射しの季節には、紺色よりも水浅黄のような爽やかな淡い色がよく似合う」と。きっともっと深い意味があるのでしょうけど、まだ冬が始まったばかりだというのに春が恋しくなってしまった。
幸田露伴がこう書いている。
四角な蟹、円い蟹、「生きて居る間のおのおのの形」を果敢(はか)なく浪の来ぬ間の沙に痕つけたまでだ。形は「なり」と読む。高島さんの解説はこれ。
どんな人生の軌跡も、波とつぎの波との間のほんの何秒か、砂の上に這ったあとを印したにすぎない。
なるほど歳を重ねてくると、そんな風に思えてきますよ、ほんと。
以下、七七句と高島さんの説明を並べてみます。
「親の位牌で頭こつつり」
放蕩息子か怠け息子のたぐいを、親戚の叔父さんか何かが死んだ親父の仏前にすわらせて説教しているさま。ほんとうに位牌で頭をコツンとやることがあったのかどうか知らないけど。
「負け碁は兎角あとをひく也」
「もう一番!」「もう一番!」である。人生も同じ。敗者ほどしつこい。
心あたりのある方、居ますよね、いっぱい。
「上戸も死ねば下戸も死ぬ風邪」
タバコを吸っても吸わなくても肺ガンになるやつはなる。
最後に紹介されている句は「春は紺より水浅黄よし」。これには解説がない。つまり誰でもわかるってことらしいのだけど、私にはわからない。調べてみたら「水浅黄色」という色がありました。辞書によれば「薄いあさぎ色」で、その浅黄色(または浅葱色)は「わずかに緑色を帯びた薄い青。また、青みをおびた薄い緑色」。いずれにしても綺麗な色です。
そこでこの句を勝手に解釈してみた。「おだやかな暖かい陽射しの季節には、紺色よりも水浅黄のような爽やかな淡い色がよく似合う」と。きっともっと深い意味があるのでしょうけど、まだ冬が始まったばかりだというのに春が恋しくなってしまった。
2005年11月25日
サンマに失礼
「さんま」を漢字変換してみると「秋刀魚」と出た。というか、これしか出なかった。高島俊男さんが「お言葉ですが…」【週刊文春 12月1日号】で、サンマについて面白いことを指摘している。
魚ヘンの字は訳がわからないくらいたくさんある。サンマだって仲間にいれてあげても良かったはずなのに、何か事情があったのでありましょうか。というか、サンマは秋刀魚でいいんだろうか。
高島さんによれば、わが国最初の近代的国語辞書『言海』(明治22年)では、さんまを【小隼、三馬】の二通りの漢字で表しているのだそうだ。『ことばの泉』(明治三十一年)では【三馬】となっていて、「秋刀魚」については「たちうをに似て秋とるるものとの意にて、明治以後に作りたる字」と説明がある。明治時代に作った字のようだ。どうせ作るのなら他の魚みたいに一字でもよかったはず。う〜ん、でも差別とは言えないかも。別格扱いだったのかもと良い方に考えようとしたけれど、さきほどの『言海』には「賤民ノ食トス」と書いてあるそうだから、良い意味での特別扱いってことはなさそうだ。
落語の「目黒のさんま」は、サンマは身分の低い人々の食べ物であり、お殿様が口にすることはないという背景があるからこそ笑えるわけだけれど、いったい食べ物の価値って何だろう。「安いけど不味い」のなら身分の高い人が食べないというのもわかるけど、サンマは美味しい。かのお殿様だって生まれて初めてサンマを食べてご機嫌だったのだから。
個人(?)用の漢字一字名がない。いや日本近海の魚の漢字というのはたいていみな、もともと関係のない魚ヘンの字を持ってきてあてたり、それでもたりないのはこっちで勝手に作ったりしたものだからまあかなりエエカゲンだが、それでも鯵(あじ)も鰯(いわし)も一応は一字名を持っておる。
サンマは、食われるのは盛大に食われながら、どうも、差別あつかいされとる、という気がいたしますな。
魚ヘンの字は訳がわからないくらいたくさんある。サンマだって仲間にいれてあげても良かったはずなのに、何か事情があったのでありましょうか。というか、サンマは秋刀魚でいいんだろうか。
高島さんによれば、わが国最初の近代的国語辞書『言海』(明治22年)では、さんまを【小隼、三馬】の二通りの漢字で表しているのだそうだ。『ことばの泉』(明治三十一年)では【三馬】となっていて、「秋刀魚」については「たちうをに似て秋とるるものとの意にて、明治以後に作りたる字」と説明がある。明治時代に作った字のようだ。どうせ作るのなら他の魚みたいに一字でもよかったはず。う〜ん、でも差別とは言えないかも。別格扱いだったのかもと良い方に考えようとしたけれど、さきほどの『言海』には「賤民ノ食トス」と書いてあるそうだから、良い意味での特別扱いってことはなさそうだ。
落語の「目黒のさんま」は、サンマは身分の低い人々の食べ物であり、お殿様が口にすることはないという背景があるからこそ笑えるわけだけれど、いったい食べ物の価値って何だろう。「安いけど不味い」のなら身分の高い人が食べないというのもわかるけど、サンマは美味しい。かのお殿様だって生まれて初めてサンマを食べてご機嫌だったのだから。
「ああ、これは食して大事ないか?」
「大事ございません。天下の美味でございます」
「さようか」
一箸つけてみると、こいつがうまい!
「おお、美味である。代わりを持て!」
代わりを持て、代わりを持てってんで、ひとりであらかた食べちまった。
「やあ、美味であった。そのほうどもには、頭と骨をつかわす」
『古典落語H武家・仇討ちばなし』(落語協会編/角川文庫)より
2005年10月31日
「シカク」か「シキャク」か
最近頻繁に「刺客」という言葉が飛び交っていた。まるで選挙用語かと思わされそうな使い方をされていて、意味が変わってしまいそうだけれど、そんなことよりも「刺客って本当はどう読むのかなあ?」というのが私の関心事だった。高島俊男さん「お言葉ですが…」【週刊文春 11月3日号 P.92】を読むと、高島さんへ同様の質問をした人が何人もいたそうだ。「シカク」か「シキャク」か、あるいは「セッカク」かと。実は、どれでも良いのだという。「客」についていえば、「キャク」でも「カク」でも良い。ただ…
「カク」と「キャク」のニュアンスの違いがなんとなくつかめたところで、では「セッカク」とは何だろう。「刺」はシともセキとも読むそうなのだ。
「殺すばあいには」とあったけれど、まさに刺客の仕事は殺し屋。「刺」には刺し殺す、狙った人物を暗殺するという意味もある。でも何故「客」なのだろう。「お客さま」の客というイメージしかない。これまた説明があった。「客」のもとの意味は「よそから来た人」だったのだが、「もっぱら〜する人」になり、さらに「〜する人」になったのだという。
しまった!「刺客=客を刺す」だと勘違いしていた。殺される側の人を「客」と表現するのは変だなあと思っていたのだ。「暗殺する人」そのままだったのですね。
全体の趨勢として、カクからキャクへと移りつつある。だからカクはややかたい。古めかしい、ものものしい感じをあたえる。キャクのほうが「フツー」という感じがする。小生などが子供のころ、「客観」を、おとなや爺さんは「カッカン」と言い、若い者は多く「キャッカン」と言った。その若い者が爺さんになって、いまはもうカッカンと言う人はほとんどないだろう。
「カク」と「キャク」のニュアンスの違いがなんとなくつかめたところで、では「セッカク」とは何だろう。「刺」はシともセキとも読むそうなのだ。
なお日本語で「セキ」というと「シ」とはよほどちがうようだが、中古漢語音の入声韻尾kは英語の sick や stick の k とおなじく呑みこむ音だから、まあだいたい「セッ」というような音だと思ってください。シとそんなにちがわない。殺す、というばあいには力強く「セッ」と言うことが多かったろう。
「殺すばあいには」とあったけれど、まさに刺客の仕事は殺し屋。「刺」には刺し殺す、狙った人物を暗殺するという意味もある。でも何故「客」なのだろう。「お客さま」の客というイメージしかない。これまた説明があった。「客」のもとの意味は「よそから来た人」だったのだが、「もっぱら〜する人」になり、さらに「〜する人」になったのだという。
しまった!「刺客=客を刺す」だと勘違いしていた。殺される側の人を「客」と表現するのは変だなあと思っていたのだ。「暗殺する人」そのままだったのですね。
2005年09月25日
焼きいもは十三里
「九里四里うまい十三里」は「クリよりうまいジュウサンリ」と読み、九里は栗、十三里は焼きいも(またはサツマイモ)を指す。今の焼きイモ屋さんはどうかわからないけれど、昔は店先に「九里四里うまい十三里」という看板がかけてあったそうだ。「栗よりおいしい焼きいもですよ〜!」というより、調子が良いし覚えやすい。
「十三里」という言葉の発生は、ただ「栗」に「より」を足しただけかと思っていたが諸説あるようで、高島俊男さんは「お言葉ですが…」【週刊文春 9月29日号 P.88】では、H君なる人物が高島さんに
また、味が栗に近いという意味から「8里半」としゃれて言っていたのだが、それでは栗より味が落ちるということになるので、栗より美味しいという意味をこめてあるときから四里を足したとも言われているようだし、他にも説があるらしい。
今はもしかしたら「一里」が約4kmという距離を表していることを知らない世代の方が多いかもしれないが、それより何より「九里四里うまい十三里」を聞いたことのない人にこれを音読させたら何と読むだろう。高島さんはこう書いている。
…ギクッ! 私も昭和十キュウ年って読んでます…。十ク年が正しいんですか? 「九」は臨機応変にキュウ、クのどちらに読んでも良いのだと思って、この場合は自然とキュウの方を使っていました。でも昭和九年だと「ク年」と読んでいるし、昭和十四年については「十ヨン年」とは言わないですけどね。栗とキュウリか…。
「十三里」という言葉の発生は、ただ「栗」に「より」を足しただけかと思っていたが諸説あるようで、高島俊男さんは「お言葉ですが…」【週刊文春 9月29日号 P.88】では、H君なる人物が高島さんに
「関東ではサツマイモの本場は川越である。川越は街道が通っていて江戸からの距離が十三里。話がちゃんとあっているのだ」と教えてくれた。
また、味が栗に近いという意味から「8里半」としゃれて言っていたのだが、それでは栗より味が落ちるということになるので、栗より美味しいという意味をこめてあるときから四里を足したとも言われているようだし、他にも説があるらしい。
今はもしかしたら「一里」が約4kmという距離を表していることを知らない世代の方が多いかもしれないが、それより何より「九里四里うまい十三里」を聞いたことのない人にこれを音読させたら何と読むだろう。高島さんはこう書いている。
「キュウリヨンリうまい…何のこと?」と言いそうだ。何しろ昭和十九年が昭和十キュウ年になる世なのだから。
…ギクッ! 私も昭和十キュウ年って読んでます…。十ク年が正しいんですか? 「九」は臨機応変にキュウ、クのどちらに読んでも良いのだと思って、この場合は自然とキュウの方を使っていました。でも昭和九年だと「ク年」と読んでいるし、昭和十四年については「十ヨン年」とは言わないですけどね。栗とキュウリか…。
