2007年06月15日

悲しい失敗

 私は生まれつきそそっかしい。なので今までどれだけ失敗したかは振り返らないことにしている。なんの足しにもならないばかりか、生きているのが嫌になってしまうからだ。ああ、忘れよう、忘れよう!! 

 ただ同じような仲間がいると安心し、すごく嬉しくなる。土屋賢二先生の「ツチヤの口車」【週刊文春 2007年6月21日号】を読んだときもそうだった。

 ある日ツチヤ先生は、電車内で眠ってしまい、気がつくと電車は見知らぬ駅に停車していた。乗り過ごしたのだ。慌ててホームに飛び降りる。


 目がさめて初めて状況が分かった。そういえばその日、千葉県で仕事をして東京に帰る途中だったのだ。

 乗り過ごして失敗したと思っていたが、早く降りすぎたのが失敗だったのだ。

 結局、二十分待って次の電車に乗ると座席は空いておらず、東京まで立ちっぱなしだった。 


 そうそう、それでこそツチヤ先生。

 私も似たような経験がある。埼玉の自宅から東京まで電車通勤していた頃、帰りが深夜だったためぐっすり眠ってしまった。ハッと目を開けると降りる駅より先の駅に見えた。「しまった乗り過ごした!」と慌てて外に飛び出したら1つ手前だった。

 遠ざかっていく電車のあかり。ほとんど人気のないホーム。実はこれが最終電車だったのだ。…ツチヤ先生より悲しいじゃん。
のり at 21:23 | Comment(0) | TrackBack(1) | 土屋賢二

2007年01月15日

今さら名前は聞けません

 土屋賢二先生の「ツチヤの口車」【週刊文春 2007年1月18日号】を読んで、これと似たような話はどこにもありそうだと思った。

 ツチヤ先生が最近通っている武術の道場でのエピソード。稽古仲間に渡部さんという人がいる。ところが、彼といつも仲良く稽古をしている折笠さんに渡部さんの苗字の読み方を尋ねると、<わたなべ>か<わたべ>なのか知らないと言う。

 8年間も一緒に居て、今さら聞けない、のだそうだ。名前を呼ぶときは、<わた>と<べ>の間に微妙な間を置く、という苦肉の策で乗り切っている。そうと知ったツチヤ先生は、道場生が集まっているとき、渡部さんに尋ねた。

「折笠君は君の名前の読み方を知らないんだよ。彼は死ぬまで<わた*べ>とあいまいな発音を続けるしかないと言うんだ。失礼だろう? 何と読むの?」
 彼が「わたなべです」と答えると、その場にいた者が口々に「<わたりべ>だと思っていた」「本当は<わたぶー>だろう?」などと言った(わたしは人名だから「でぶ」という読み方ありうると思っていた)ため、道場の中の全員が正確な読み方を知らなかったことが判明した。

 長年の付き合いなのに、道場の先生を含めて誰も知らなかった―。渡部さん、ショック!

 本当に名前の読み方は難しい。名前を間違っては失礼だと思うので、余計にこんなことが起こるのだ。それにしてもツチヤ先生は、ずいぶんと大胆な性格だ。その調子なら、折笠さんのような苦労はしなくて済むだろうけど。

 そう言えば、わたしは折笠氏を<お*かさ>と呼んでいるが、正しくはどう読むのだろうか。

 自分のときはダメなのか。
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2006年07月20日

いたわって欲しいけど

 電車で席を譲ってもらったら、誰でも喜ぶかと思いきや、「そんな年寄りに見えるのか」とショックを受ける人もいる。61歳の土屋賢二先生が、「ツチヤの口車」【週刊文春 2006年7月27日号】で、「六十歳以上は五パーセント割引」というある食堂のサービスを喜べないといっている。老人割引というものが少しも名誉なことではないからだというのだ。

 関西人に聞いたところ「五パーセントでも三パーセントでも結構な話だ。もしハゲ割引があったらハゲの関西人はみんな喜んでサービスを受ける」と言う。信じられないことだが、関西人は老化もハゲも名誉なことだと思っているのだ。
 関西人はどうでもいい。もともと理解を超えているのだ。問題は自分自身だ。

 そんなことを考えているうちに、ツチヤ先生は、いたわって欲しいのか、うやまって欲しいのかわからなくなっていく。いたわって欲しいけれど、いわわられると戸惑う。

 言われてみれば、女性割引やタイムサービスなどのサービスなら、問題なく受けられるけれど、自分への評価にかかわってくるサービスとなったら、ややこしくなる。もしも「体脂肪三十パーセント以上は割引」なんてのに当てはまっても、確かに嬉しくない。「六十歳以上割引」というのも、ツチヤ先生にしてみれば、それに近いものなのだと言う。いやいや、やはり違うでしょう。六十歳以上割引には、いたわりとうやまいが込められている、…はず…です。

★つちやけんじ 1944年生まれ。お茶の水女子大学教授。
待望の新刊『貧相ですが、何か?』、一部の反対を押し切って刊行。
早くも絶版か? 贈答に、鍋敷きに、食べ過ぎに!
===欄外より=== 
のり at 15:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 土屋賢二

2006年06月19日

待つ時間、待たせる時間

 駅は、人間観察にもってこいの場所で、小さなトラブルがしょっちゅう発生している。土屋賢二先生の「ツチヤの口車」【週刊文春 2006年6月22日号】にも、そんな小さな出来事が書かれていた。もちろんツチヤ先生のことなので、相変わらず自己中心的に。

 ツチヤ先生は、駅の自動改札機の10cm手前で、若い男性に割り込まれ、先に定期を改札機に入れられた。「無礼者!」と、心の中で憤慨した。

 人を押しのけてもたかが数秒のことだろう。わたしはどうなる。数秒も遅れたではないか。

 「たかが数秒」と「数秒も」が、あたかも矛盾していないかのように同じ文章に出てくるところが、さすがツチヤ先生。ところがその隙に、今度は横から若い女性が、ゆっくりとした動作で定期を入れてしまい、ますます怒りがつのる。

 イライラしていると「ピンポーン」という音がして(「ピンポーン」といっても「その通り!」という意味ではない)、自動改札機の扉が閉まり、女の行く手をはばんだ。いい気味だと思ったが、失う時間が増えたことに気づき、怒りをあらたにする。

 イライラしながら改札機の回復を待っている間も、隣の改札機ではスムーズに人が通っている。それを見ていらだつ。失った時間が何ヶ月にも思え、その間にやれたはずの仕事の数々を想像して、さらにいらだつ。


 最初に、「自己中心的」だと書いたけれど、待たされる時間が長く感じるのは、ツチヤ先生に限らず、誰でも同じ。そして、やっと自分が改札口を通れる時が来た。ああ、それなのに…、先生が改札機に入れたのは、テレホンカード! 「ピンポーン」と鳴って扉は閉まります。

 わたしの後ろに並んでいる男の顔にいらだちの表情が浮ぶのが分かった。数秒失ったぐらいでガタガタ言うな。それぐらい無駄に過ごしているだろう。わたしなんか、これまでの人生で何十年も無駄に失っているのだ。わたしの方が文句を言いたいぐらいだ。

 やっぱり自己中心的でした。それでこそツチヤ先生。うふふ。

★土屋賢二(つちやけんじ)
1944年生まれ。お茶の水女子大学教授。
最新刊『ツチヤ教授の哲学講義』(岩波書店)絶賛在庫中。
哲学が何を解明しているかを大胆・明快に解説した哲学講義。
===エッセイの欄外より===
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2006年04月10日

本気になれば…

 自分は本当は能力があるのだが、まだそれを発揮できていない。いつか本気にさえなれば、もっと良い結果が出るのだ、と思ったまま、いつになっても、その”いつか”はやって来ない。世の中には、そんな人がたくさん居る。10代くらいまでの私もそうだった。それがだんだんと、自分には、そもそも努力をする能力からして欠けているのだと悟る。

 お茶の水女子大学の土屋賢二先生の「ツチヤの口車」【週刊文春 4月13日号】を読んでいると、(レベルは全く違うけれど)そんな昔の自分を思い出す。ツチヤ先生はまず、周囲が自分を人間として無価値であるかのように扱っていると言う。学生には友達のように口をきかれ、喫茶店では、先生の姿が見えているにもかかわらず、店員同士でおしゃべりしていて、無視された。

 わたしは立派な人間ではないかもしれないが、かりにも客だろう。もしもわたしでなく、スターか柴犬かゴキブリが来ていたら、すぐに対応していたはずだ。スターや犬に負けるのはやむをえないが、せめてゴキブリ並みの扱いを受けるべきだと思うのだ。

 犬に負けても良いようで…。で、ツチヤ先生は、確かに自分自身、何も自信を持てるような結果を出していない、と言いつつ、それは本気を出していないからだと、強気な発言。

 わたしはどんなことだってやろうと思えばできる。ただ、やる気が起こらないだけなのだ。やる気は永遠に起こらないだろうが、能力は無限だ。あたら無限の能力を一部しか使わないまま終るのだから、ちょうどフランス料理を前にしてスープしか飲まないようなものだ。(略)つくづく自分が奥ゆかしいと思う。

 奥ゆかしいのか、言い訳がましいのか。ツチヤ先生のことをもっとお知りになりたい方、4月19日(水)午後7時から新宿紀伊國屋ホール(予約:紀伊國屋書店事業部 03-3354-0141)で、ツチヤ先生のトークショーが開催されるそうですよ。愛弟子の柴門ふみさんと恋愛について語るそうです。…って、恋愛?!
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2006年03月13日

電球ジョークと哲学者

 アメリカの電球ジョークというジャンルを知ってますか? お茶の水女子大学哲学科の土屋賢二先生が「ツチヤの口車」【週刊文春 3月16日号】で紹介しています。

『○×(バカにしたい民族の名)人が電球を交換するには十人必要。一人がテーブルの上に立って電球をあてがい、九人がテーブルを持って回す』というものだそうです。これをモデルにして、ツチヤ先生は「電球を交換するには何人必要か」と、13ものケースを考えています。中でも特に私のお気に入りを幾つか挙げてみましょう。

★日本の小学生が交換するにはクラス全員が必要。不公平にならないように全員が少しずつ回す。

一人だけにさせると、お母さん方からクレームがくるのでしょうねえ。

★官僚組織なら多数。交換願いの書類を出す者、書類の不備を指摘する者、過去の事例を調べる者、許可証を発行する者、業者の納品書、申請書、領収書をチェックし保存する者(電球の欠陥を調査する者はいない)。

余計な手続きは多いのに、肝心なことは抜けている。最後の”電球の欠陥を調査する者はいない”ってところがトドメ。

★俳人ならゼロ。交換しないで「暗がりに猫の声する春の宵」などと俳句を詠む。

ある意味プラス思考。

★学生ならゼロ。教師が交換を命じると、学生が「そんなことをなぜ学生にやらせるんですか」と説明を要求し、議論の結果、論破された教師が取り替える。

論破されてしまうところが哀れ。では、学者同士なら…。

★哲学者なら多数。電球が切れたと主張する者、その証明を要求する者、電球の存在が疑わしいと主張する者、「われ思う、ゆえにわれあり」ということしか確実ではないと主張する者、それに反論する者、まず電球とは何かを明らかにすべきだと主張する者、それに反論する者、(すみません、あまりに長いので途中23行ほど割愛させていただきますbyのん)…二千年以上たっても電球を取り替えるに至らない。

多数というより、誰も役に立たないってことですね。

 どのケースもバカバカしく、しかも、なかなか電球を交換できない。風刺に妙なリアリティがあって、よくこれほど考えられるものだと、笑いながら感心してしまった。でも、こう言ったら”みもフタも無い”んですけど、なんでもいいから早く電球を取り替えてくださいな、特に哲学者の先生方。
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2006年02月13日

悩みが無さそうね

 悩みが無いことは喜ばしいことのはずなのに、人から「なんにも悩みが無さそうだね」と言われると、たいていの人はムッとする。「私だって悩みくらいある」と。そう、「悩みが無い人」という言い方には、「何も考えていないおめでたい人」とか「無神経な人」という意味が含まれているため、つい反論してしまうのだ。かといって、もちろん人は悩むことを望んでいるわけではない。お茶の水女子大の土屋賢二先生は「ツチヤの口車」【週刊文春 2月16日号】で、悩みについてこんな会話をしている。

 学生に言った。
「悩み相談室を開設しようと思っているんだ。何も悩まない君には関係ないが」
「わたしも悩んでいます」
「泥棒にも五分の魂だな」
「間違ってますよ。ことばづかいも言おうとしていることも」

 瞬時に的確な指摘が出来る学生さんは偉い。さすがツチヤ先生に日頃鍛えられているだけのことはある。ところで正しいことわざは何でしたっけ? そうそう「泥棒(盗人)にも三分の理」と「一寸の虫にも五分の魂」でしたね。まあそんなことはさておき、ツチヤ先生はこのエッセイの最後で、「自分の悩みの相談にのってほしくて相談室を開く」のだと白状している。それなのに、中年には悩みが無いとも主張する。自分の悩みだけ本物だと。

「だいたい若いころはどうでもいいことに悩むものだ。中年になったら悩まなくなる。何も悩まない中年女になりたいか」
「……いいえ」
「ほら悩むのは若さの特権なんだ。ニキビとか無知とか未熟と同じだ。自信を持って悩みなさい」
「中年の人はどうして悩まないんですか」

 ちょっと、ちょっと、学生さん! いつもツチヤ先生の話にことごとく反論しているのに、なんでそこだけ疑問に思わずスルーしちゃうかなあ? 「中年の人はどうして悩まないんですか」っていう質問、おかしいでしょう。でもまあ、若いから仕方がないか。ツチヤ先生がおっしゃるように”若いうちは自信を持って悩みなさい”ネ。
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2005年12月29日

ありがとう、そして良いお年を!

 この記事が2005年最後の記事となります。もう来年の目標や誓いを立てた方はいますか? 水を差すようですが、お茶の水女子大の土屋賢二先生はこう書いています。(「ツチヤの口車」【週刊文春 平成18年1月5・12日新年特大号】)

 新年の誓いを立てない人もいるが、人間を見る目さえあれば、誓いを立てない人は短気で横暴だと簡単に分かる。なぜ分かるかというと、妻がそういう性格だからだ。(〜略〜)自分には何も直すところがないと思っている自信過剰な人間で、確実に不幸な夫をもつ運勢だ。

 …かと思うと
 自信過剰なタイプにはもう一種類ある。それは誓いを立てる人である。誓いというものは、結婚式での誓いでも何でも守れないに決まっている。そもそも実行できるのなら、誓いを立てるまでもなく即座に実行しているはずだ。日記に「誓いのことば十箇条」を丁寧に書いた三日後には、日記をつけること自体をやめるような人間が、誓いを立てるところが、自信過剰である。

 どっちにしてもたいしたことは出来ないので、もう何も考えず川の流れのように自然に身を任せて新年になだれ込むつもりです。ただこのブログだけは来年も続けていけたらいいなあと思っています。今これを読んでくださっている皆様、いつも本当にありがとうございます。雪にもインフルエンザにも負けないでくださいネ。では良いお年を!
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2005年12月01日

ちょいワルにもなれない

 よく知らないが、ちょっと不良っぽい中年男性を「ちょいワルおやじ」と呼び、流行っているらしい。しかもモテるそうだ。お茶の水女子大の土屋賢二先生と学生の会話。(「ツチヤの口車」【週刊文春 12月8日号】)

「シャレたファッションで不良っぽくて渋い中年男のことです」
「そういう服装なら、わたしにもできそうだ。中年だし男だし」
「先生には無理です。<ちょいサル>じゃないんですよ。(略)」

 自分でもなれそうだと思った先生だったが、その「不良っぽい」ということが伝わらない。これは雰囲気であり、その人から発せられるものなので確かに説明は難しいのだけれど、土屋先生はわざとわかろうとしない。

「えっ、不良なのか? いい歳をして不良ぶるなんてみっともなくないか? 中学生じゃないんだから。やっぱり頭がワルいんじゃないのか?」
「でも社会からはみ出るぐらいじゃないと人間的に面白味がないでしょう。本当の悪人だと困りますけど」
「ということは、車を盗んだりはしないが、自転車は盗むんだな」
「自転車なんか盗んじゃダメです」
「じゃあ三輪車か乳母車を盗むのか」
「盗むようなことはしないんです」

 土屋先生の学生をやっているのも大変ですね。毎日こんな徒労ともいえる会話をしているんでしょうか。それはさておき、学生さんが「先生には危険な香りがないから無理」と言っているので、きっとそうなんでしょう。だったら、別にちょいワルになんてなる必要はなく、「そばに居てほっとする」男性になればいいんじゃないかなあと思う。きっと頼りにされる。すなわちモテるってことだ。なにも女性が皆「ちょいワル」にひかれるわけでもないのだ。ただ、土屋先生が頼りにされるようになるにもちょっと努力が必要かも。

「危険が足りないか? 何なら君たちのレポートを公表してもいいんだ」
「先生は<ちょいワル>にも<ワル>にもなれません。サイテーです!」

やっぱ無理だ。
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2005年11月19日

私はどっちに向かっていたか

 学者が研究に没頭し過ぎて実生活で信じられないようなことをしてしまった、というエピソードは昔からよくあるようで、お茶の水女子大の土屋賢二先生の「ツチヤの口車」【週刊文春 11月24日号】にもこんな話がある。

 アメリカでは、よく「上の空の教授」が登場して笑いものになっている。たとえば高名な教授ノーバート・ウィーナーが路上で友人に会い、数分間立ち話をした後、別れ際に「君に会ったとき、わたしはどっちに向かっていたか教えてくれないか」と聞いた。「マサチュセッツ通りに向かってたよ」と友人が答えると、教授は言った。「良かった! それなら昼食は食べたんだ。もう一度食べるところだった」

 もし私が同じセリフを吐いたなら、周りから何を言われるだろう。学者に限らず、スポーツ選手でも芸術家でも、飛び抜けた実績のある人物であるからこそ、こんな話も一つの伝説になるのだ。ニュートンが卵と間違えて懐中時計を茹でたとか、夕食をとるのをちょくちょく忘れたと言われているのも、研究に夢中になっていたからだ。それだけ1つのことに夢中になれるのは、人間として幸せなことなんだと思う。

 私は幼い頃からそそっかしく、うっかりミスをしては恥をかくことの連続だった。それでも歴史上の有名人が笑ってしまうような失敗をした逸話を知り、ほっとしていた。自分も立派な大人になれるかもしれないと心強く思ったのだ。なんと、彼らを自分と同じ仲間だと感じていたのだ(もちろんあとで現実を思い知らされるのだが…)。ところで、哲学者である土屋先生の場合はどうなんだろう。

 わたしは現実離れした人間ではない。物にぶつかったり転んだりしても、それは、「上の空の教授」のように研究に没頭しているからではなく、さっき食べたうどんが塩辛すぎたといった、地に着いた現実的なことに気を取られるためだ。

 ある意味、仲間かも。
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