2008年06月28日

お疲れさまです

 満員の通勤電車の中で、「ウッ、肋骨が折れるぅ〜」と思ったことが何度もある。ブレーキがかかり、ドアのところの手すりにたくさんの人たちの重みで押し付けられたときとか。

 そう、池袋で乗り換えるときも新宿で降りるときも、電車からまさに吐き出されるようにホームに降り立ち、やっと呼吸ができたような気がしたものだ。6年以上もよく通えたものだと思う。

 もうずっと昔のことなのに、そんな痛さや息苦しさが蘇ってしまったのは、北尾トロさんの「ガラスの五十代」【週刊文春2008年7月3日号】を読んだせいだ。

 ふだん通勤電車には縁のない北尾さんが朝7時半ごろの超満員電車に乗り合わせ、パソコンなどが入った荷物を持ったまま、長身の男性(壁男)と小柄な男性(坊主頭)に挟まれ身動きができない様子に、「そうそう、そんな感じだったなあ」と思い出した。


 電車が大きく揺れた反動でパワーアップした坊主頭の体当たりで、パソコンの角がみぞおちを直撃したのだ。く、苦しい、息ができん。壁男からのプレッシャーもますますきつく、身をそらせることもできない。

 よせ、そんなに尻を突き出すんじゃないよ。こ、腰が。キャリーを握る左手も、すでに感覚がなくなり始めている。


 北尾さんの目的地は四ッ谷だったのにとても耐えられないと、新宿でいったん降りてしまった。

 いけない、私がこのエッセイを取り上げたのは、なにも満員電車の辛さだけを語りたかったのではない。車内で泣きそうな顔をして耐えていた痩せた男性のことを、北尾さんが温かく描写しているところに、ちょっと感じるものがあったからだ。新宿で降りて…。


 車内を見ると、スダレおやじがつり革を確保し、髪の毛をかきあげているところだった。年齢は50代後半くらい。よく見ると優しそうな顔をしている。家庭は円満、会社では部下にも愛されていそうだなあ。

 スダレおやじはバッグから新聞を取り出して読み始める。オレの通勤タイムはこれからだよ、と言わんばかりの余裕しゃくしゃくな表情だ。

 こりゃ一本取られたな。発車する電車を見送りながら、ぼくはスダレに軽い尊敬の念を抱いていた。


「尊敬の念」という言葉は、けっして皮肉や茶化したものではないと思う。

 私からも、多くのビジネスマン、特に長年勤め続けているみなさんに、心から「お疲れさまです」。
のり at 00:20 | Comment(4) | TrackBack(0) | 北尾トロ

2008年03月30日

座禅カフェ

 日比谷の地下に座禅カフェなるものができたそうだ。北尾トロさんがその体験を「ガラスの五十代」【週刊文春2008年4月3日号】に書いている。

 60畳の弾室で、渡された作務衣を着て僧侶から指導を受けながら座禅を組む。90分コースだと、間をおいて25分の座禅を2回、最後にお茶をいただく、といった内容になるらしい。

 私も少しだけ座禅に興味があるので読み始めたけれど、北尾さんが一回目終了後に足がしびれて立ち上がれなかったところまで読んで、「そっか、正座でなくてもしびれちゃうのか」と、自信をなくした。が、2回目になるとちょっと様子が違ってくる。


 また足が痛くなってきた。慌てて呼吸に全力投球。不思議なことに、気持ちの落ち着きとともに呼吸も深くできるようになり、呼吸のリズムが整うと雑念が消えてくる。そうか、座禅の極意はそこなんだ。


 ところで、座禅で連想するのが、よく肩をビシッと叩かれる痛そうな場面だ。あれは警策(けいさく)というもので、けっして罰なのではなく、座禅する人が気合を入れたくなったら、自ら叩いてくださいと望むものなのだそうだ。そこで北尾さんは右手を挙げ合図をしてみた。


 右肩を打ちやすいようにやや左に首を傾け、合掌して待つこと10秒。トントンと合図がきた。
「ビシッ」
 あぅ。突き抜けるような痛さだったが、後に残るのは爽快感だ。一発で眠気も吹き飛び、それからはラストまで息を乱すことなく過ごすことができた。終わってお茶をいただく頃には、なんだかもう放心状態の気持ちよさ。

 作務衣から普段着に戻って表に出ると、おおげさでなく景色が違って見えた。


 確かにお寺に行くより敷居は低そうだけれど、誰でもそんな簡単に座禅の極意がわかったり、雑念が消えたりするのかしら。う〜ん。
のり at 19:15 | Comment(2) | TrackBack(0) | 北尾トロ