小林信彦さんの「本音を申せば」【週刊文春 2007年7月19日号】に、ロシアのコーラの話が出ていた。
なんでも「ナイトスクープ」という番組の企画で、大阪万博のときに飲まれたロシアのコーラ、クワスを探していたのだが、小林さんによると、クワスは実際はコーラではなく、清涼飲料のひとつなんだとか。
大阪の人々は、その味を「まずかった」とか「非常に甘ったるかった」と記憶しているそうだ。味の記憶というのは残るものだ。そういえば私自身、長年コーラを飲んでいない。
コーラの味は、初めて飲んだときの印象が強烈だった。小学生のとき、父がゴルフ練習場に連れて行ってくれたことがある。道すがら、ある店の前でクルマを止めた父がコーラ(たぶんコカ・コーラ)を買ってくれた。
一口飲んだ途端、「クスリみた〜い。変なあじ〜」。父も、「そうだな」みたいなことを言ったと思う。たぶん昭和40年前後の話だ。ゴルフ練習場の様子はほとんど記憶が無いのに、あのクスリ臭い味はまだ舌が覚えている。
その後日本人に合うよう改良されたのか、飲み易くはなったけれど、最初の味が蘇ってしまい、以来私はコーラをほとんど口にしていない。父が飲んでいる姿を見たこともない。
2007年07月15日
2006年11月22日
二宮クンの演技力
クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」は、評判が良いらしい。シビアに批評する小林信彦さんも「本音を申せば」【週刊文春 2006年11月30日号】で、珍しく称賛しています。小林さんは、特に、戦時中や昭和30年代を舞台としたドラマや映画に対して、いい加減な時代考証や、ウソっぽい設定などに、よく苦言を呈しています。
その小林さんが、硫黄島二部作のうち、まず先に公開された「父親たちの星条旗」も誉めていたのですが、日本軍の視点で描かれた「硫黄島からの手紙」をどう見るか興味がありました。
見事、らしいです。ポール・ハギスと日系のアイリス・ヤマシタの原案が良かったのと、監督自ら関係者に取材を重ねた結果だろう、とも書かれています。
出演者に関しては、特にアイドルグループの嵐のメンバー二宮和也を何度も誉めているのに驚きました。映画の中心人物の一人となる日本兵に二宮クン、その妻に裕木奈江を配役したことも
以下
とか、
とあるのです。
二宮クンと言っても、私がふだんドラマをあまり見ないせいか、グループで歌っている場面か、バラエティーでの優しげな表情しか知らないので、シリアスな映画の演技者としての姿は思い描けなかったし、ハリウッド映画に挑戦しようという野心(?)みたいなものを感じたことがありませんでした。小林さんのこの評を読んで、私もすごく意外に思ったり、なんだか嬉しくもあったのでした。
その小林さんが、硫黄島二部作のうち、まず先に公開された「父親たちの星条旗」も誉めていたのですが、日本軍の視点で描かれた「硫黄島からの手紙」をどう見るか興味がありました。
いくらイーストウッドに才能があっても、日本軍の複雑な内部事情、当時の日本国内の雰囲気、大本営が硫黄島守備軍を見すてる非情さ、などが描けるのかと、いくらか不安に思っていたら、とんでもない。日本映画が描けなかった暗部までみごとに描ききっている。
見事、らしいです。ポール・ハギスと日系のアイリス・ヤマシタの原案が良かったのと、監督自ら関係者に取材を重ねた結果だろう、とも書かれています。
出演者に関しては、特にアイドルグループの嵐のメンバー二宮和也を何度も誉めているのに驚きました。映画の中心人物の一人となる日本兵に二宮クン、その妻に裕木奈江を配役したことも
このカップルを決めたイーストウッドは目があるとしているのです。
以下
しかも、最前線で西郷(二宮)はあらゆる地獄を見る。これは彼の地獄めぐりの映画だと言った人もいたが、演技力がなければ、こんな役はできない。
とか、
後半は中村獅童の行動(こういう奴が多かったのだ)や中将の最後を見せるが、その最後を見とどけるのは二宮和也の目なのだ。イーストウッドが彼を演技者として信頼しているのが理解される。失礼な言い方だが、ぼくには意外であり、嬉しかった。
とあるのです。
二宮クンと言っても、私がふだんドラマをあまり見ないせいか、グループで歌っている場面か、バラエティーでの優しげな表情しか知らないので、シリアスな映画の演技者としての姿は思い描けなかったし、ハリウッド映画に挑戦しようという野心(?)みたいなものを感じたことがありませんでした。小林さんのこの評を読んで、私もすごく意外に思ったり、なんだか嬉しくもあったのでした。
2006年11月02日
「泣ける」という宣伝文句
何年か前から、映画や本の宣伝で、「泣けます」という言葉をよく目にするようになりました。そう言われると、観たり読んだりしたときに泣かなくてはいけないような、妙なプレッシャーを感じてしまいます。なのでたいてい、観もせず、読みもしません。
小林信彦さんが「本音を申せば」【週刊文春 2006年11月9日号】で、こんなことを書いています。平成元年のある日、本屋でのこと。女子高校生が棚の本『ノルウェイの森』を指さして、「ねぇねぇ、この本、泣けるよ」と大声で友達に呼びかけていた。
そうなんですよね。いつのまにか、「泣ける」が肯定的なニュアンスを持って使われてるようになったのです。だからこそ宣伝文句に登場するわけで、それに抵抗を感じるのは古いのかもしれません。泣きたいという理由で見る(読む)人もいるのかもしれませんね。もちろん、「泣くくらい感動的なのだろう」と想像させる意味合いが強いのでしょうが。
それにしても、頻繁に宣伝文句に使われるのは不思議な現象だなあ、と思います。大人が泣くって、そんなおおっぴらに前面に出して良いんだろうかっていう気持ちがどこかにあるのです。
同じ涙でも、後味の良いのが好きです。私が最近テレビを見て泣いた番組は、ナント! ドラマ「ちびまる子ちゃん」でした。笑いながら泣いてしまいました。私にはこれくらいがちょうど良いようです。
小林信彦さんが「本音を申せば」【週刊文春 2006年11月9日号】で、こんなことを書いています。平成元年のある日、本屋でのこと。女子高校生が棚の本『ノルウェイの森』を指さして、「ねぇねぇ、この本、泣けるよ」と大声で友達に呼びかけていた。
<泣ける>という言葉が、こういう風に肯定的に使われるのを初めて耳にしたから、ぼくには新鮮なオドロキであった。それまでも<泣けちゃう>という言い方はあったが、人を笑わせるためであったり、自己をからかうような調子が多かったからである。
そうなんですよね。いつのまにか、「泣ける」が肯定的なニュアンスを持って使われてるようになったのです。だからこそ宣伝文句に登場するわけで、それに抵抗を感じるのは古いのかもしれません。泣きたいという理由で見る(読む)人もいるのかもしれませんね。もちろん、「泣くくらい感動的なのだろう」と想像させる意味合いが強いのでしょうが。
それにしても、頻繁に宣伝文句に使われるのは不思議な現象だなあ、と思います。大人が泣くって、そんなおおっぴらに前面に出して良いんだろうかっていう気持ちがどこかにあるのです。
同じ涙でも、後味の良いのが好きです。私が最近テレビを見て泣いた番組は、ナント! ドラマ「ちびまる子ちゃん」でした。笑いながら泣いてしまいました。私にはこれくらいがちょうど良いようです。
2006年08月25日
夢でよかった
昭和11年7月25日、上野動物園から黒ヒョウが逃げ出して大騒ぎという事件があったそうだ。小林信彦さんの「本音を申せば」【週刊文春 2006年8月31日号】に詳しく書かれている。
読み始めた途端、私は子供のころ見た、奇妙な夢を思い出した。上野動物園からライオンが逃げたというニュースが流れてすぐに、獰猛なライオンが我が町に現れたのだ。そいつは人々に襲いかかった。逃げ切れなかった私は、あっという間に食べられてしまった。
ところが、ライオンのお腹の中は広々として、まるでヨーロッパの宮殿のような造りになっていた。大理石(らしき)ピカピカした床と太くて飾り彫りされた円柱があった。食べられたのは私だけではないようで、見知らぬ人たちも何人か居て、どうやったらここから抜け出せるかを相談していたのだった。
結末は思い出せない。目が覚めてから、ホッとしたことは覚えている。ただ、しばらくはそのショッキングな夢の恐怖感が消えなかった。
では、夢ではなく、現実に黒ヒョウが町中に逃げ出したら…。
小林さんは、先頃亡くなられた作家の吉村昭氏のエッセイ『東京の下町』の「黒ヒョウ事件」の章や、当時の飼育係で『実録 上野動物園』の著者である福田三郎さんの記述も紹介し、補足している。
福田さんによれば、この黒ヒョウは、タイで捕らえられて間もなく日本に送られてきて、人間にも慣れていなかったそうだ。ノイローゼ状態だったとか。夜間、運動場に出られるようにしたのが災いしたらしく、翌早朝、ヒョウが居なくなっていることを発見して大騒ぎとなった。
吉村氏は上野動物園のとなりの町に住んでいたのだ。小学校4年生だったとか。子供心にどんなに怖かっただろう。朝から夕方までどんなに長く感じただろう。それにしても、そんな体験の無い私が、なぜあんな不思議な夢を見たのだろう。
読み始めた途端、私は子供のころ見た、奇妙な夢を思い出した。上野動物園からライオンが逃げたというニュースが流れてすぐに、獰猛なライオンが我が町に現れたのだ。そいつは人々に襲いかかった。逃げ切れなかった私は、あっという間に食べられてしまった。
ところが、ライオンのお腹の中は広々として、まるでヨーロッパの宮殿のような造りになっていた。大理石(らしき)ピカピカした床と太くて飾り彫りされた円柱があった。食べられたのは私だけではないようで、見知らぬ人たちも何人か居て、どうやったらここから抜け出せるかを相談していたのだった。
結末は思い出せない。目が覚めてから、ホッとしたことは覚えている。ただ、しばらくはそのショッキングな夢の恐怖感が消えなかった。
では、夢ではなく、現実に黒ヒョウが町中に逃げ出したら…。
小林さんは、先頃亡くなられた作家の吉村昭氏のエッセイ『東京の下町』の「黒ヒョウ事件」の章や、当時の飼育係で『実録 上野動物園』の著者である福田三郎さんの記述も紹介し、補足している。
福田さんによれば、この黒ヒョウは、タイで捕らえられて間もなく日本に送られてきて、人間にも慣れていなかったそうだ。ノイローゼ状態だったとか。夜間、運動場に出られるようにしたのが災いしたらしく、翌早朝、ヒョウが居なくなっていることを発見して大騒ぎとなった。
上野署から武装警官が百名以上、谷中署から応援が三十名、警視庁から特別警備隊一個中隊が、それぞれトラックで動物園に到着する騒ぎ(福田氏の記述)で、結局、夕方にマンホールにひそんでいるのをつかまえたのだが、吉村氏は
<……今にも戸をやぶってヒョウの黒い体が
とびこんでくるような予感におびえていた。>
と記す。
吉村氏は上野動物園のとなりの町に住んでいたのだ。小学校4年生だったとか。子供心にどんなに怖かっただろう。朝から夕方までどんなに長く感じただろう。それにしても、そんな体験の無い私が、なぜあんな不思議な夢を見たのだろう。
2006年01月29日
屋根がミシミシ
雪国は相変わらずの豪雪で、2月になっても平年もしくはそれ以上降ると、気象予報士が言っていた。それは恐怖の宣言のはずなのに、その割には大雪のニュースがだんだんと小さくなっている。ちゃんと報じてもらわないと、雪がめったに降らない地方に住んでいる人間には、雪の重ささえもピンとこない。小林信彦さんの「本音を申せば」【週刊文春 2月2日号】の雪おろしの話を読んで、少しばかりわかってきた。
夜、あたりが静まるので、一層よく聞こえるのでしょう。ゾッとする。自分の頭の上がミシミシって、心配で眠れないに違いない。雪おろしをしないわけにはいかないのだ。小林さんは、60年前、つまり戦後すぐの冬を新潟で暮らし、大人たちが雪おろしで苦労している様子を見ている。
過酷な戦地のほうがマシだというのだから、雪おろしとは、なんと辛い作業なんだろう。しかも今は高齢者が自宅を守るために雪と闘い、何人もの尊い命が奪われている。
以前も書いたけれど、(低コストで)屋根の雪を溶かす方法はないものだろうか。部屋の暖房は行き届いているそうなので、その熱を利用するとか…。(それだと部屋が寒くなってしまうのかなぁ)もちろん私ごときが考えても、何の足しにもならないのはわかっているけれど、技術大国の日本で雪おろしだけは昔のままだなんて、どうにも納得できないのだ。
おりしも今日のニュースで、建物の屋根が崩落したポーランドの事故を報じていた。何百人もの人々が下敷きになってしまい、まだ救出活動中らしい。積もった雪の重さに耐えかねて屋根が落ちたのではないかと見られているそうだ。
とにかく、毎日、雪が降る。夜中になると、その重みでミシミシという音がする。放っておくわけにはいかないのだ。
夜、あたりが静まるので、一層よく聞こえるのでしょう。ゾッとする。自分の頭の上がミシミシって、心配で眠れないに違いない。雪おろしをしないわけにはいかないのだ。小林さんは、60年前、つまり戦後すぐの冬を新潟で暮らし、大人たちが雪おろしで苦労している様子を見ている。
ラバウル島帰りの親戚の者に「白米だけはいくらでも食べさせるから雪かきをして欲しい」と手紙を書くと、米軍のチーズやバターで肥った、精力あふれる復員者がやってきた。
「さあ、やりましょう」
と勢い込んでいたが、二日ほど仕事をしただけで、筋肉疲労がはげしく、
「これじゃ、ラバウルの地下壕にかくれていた方が楽だった」
と言い残して、帰京した。白米(当時は珍しかった)どころではないとも言った。そのくらい疲れるのである。
過酷な戦地のほうがマシだというのだから、雪おろしとは、なんと辛い作業なんだろう。しかも今は高齢者が自宅を守るために雪と闘い、何人もの尊い命が奪われている。
以前も書いたけれど、(低コストで)屋根の雪を溶かす方法はないものだろうか。部屋の暖房は行き届いているそうなので、その熱を利用するとか…。(それだと部屋が寒くなってしまうのかなぁ)もちろん私ごときが考えても、何の足しにもならないのはわかっているけれど、技術大国の日本で雪おろしだけは昔のままだなんて、どうにも納得できないのだ。
おりしも今日のニュースで、建物の屋根が崩落したポーランドの事故を報じていた。何百人もの人々が下敷きになってしまい、まだ救出活動中らしい。積もった雪の重さに耐えかねて屋根が落ちたのではないかと見られているそうだ。
2005年08月26日
助かるほうが不思議
ゆうべ関東を襲った台風11号が太平洋に抜けて、交通機能など徐々に元に戻りつつあるようだ。こわいものとして昔から「地震、雷、火事、おやじ」と言うけれど、なぜ台風は入っていないのだろう。恵の雨をもたらす利点もあるからなのかな。
もうすぐ9月1日「防災の日」がやってくる。大正12年9月1日の関東大震災に由来していることは知っていても、その日のことを詳しく知らないことに気づいた。数字の資料をみるだけでも、その恐怖を知る手がかりになるかもしれない。
小林信彦さんの「本音を申せば」【週刊文春 9月1日号 P.66】によると、(資料によっても異なっているそうだが)、東京大震災のときの東京の震度は7だったようだ。震度3くらいまでしか経験したことがないので、想像が難しい。
どこかにつかまろうにも建物も地面も何もかも揺れて、崩れてたり倒れてくるわけで、道は波打ち割れるところもあるだろう。だったら水道管やガス管は? 地下街に居たらどうなるの? 倒壊した建物が道を塞いで、火の手も上がるかも。その巨大なうねりの中で、いったい何ができるのだろう。
今、災害時に東京の会社から郊外の自宅に歩いて帰宅するための地図がベストセラーになっているけれど、会社のビルが倒れても、自分だけはそこを逃れて、しかも大したケガもせず歩いて帰れるくらい元気だと思っているということになる。まあ、そう思っていないと生きていけませんね。
ただ「本音を申せば」のこの部分を読むと、大災害の中では生きているほうが不思議な気がしてきてしまった。
地震発生時刻が昼食時だったので火を使っている家が多かったことが火災被害を大きくしたということは有名だけど、ちょうど能登半島付近に位置していた台風の影響で関東に強風が吹いていたというのは今調べて初めて知った。つまり地震と火事と台風という三重苦の災害だったわけだ。
実際そこに自分が居たと仮定して、いったい何が出来るかと考えてみた。まず運良く建物の倒壊から逃れられる確率はどれくらいか。歩けるくらい元気な状態で助かったとしても、いくら歩いても歩いても周り中から火の手があがっていたら、もうただただ人の流れに押されるばかりでなすすべもないに違いない。関東大震災での死者・行方不明者は合わせて約14万2千800人と言われている。
今の時代に置き換えてみたら、この人数も桁違いになるのではないかしら。とても自分だけ助かるなんて思えない。いつ、どこで、どんな状態で迎えるかわからない大地震。やはり一番こわいのは「地震」だと思った。
【追記 9/8】
関東大震災の死者・行方不明者数について、次のようなニュースがありましたので訂正します。
もうすぐ9月1日「防災の日」がやってくる。大正12年9月1日の関東大震災に由来していることは知っていても、その日のことを詳しく知らないことに気づいた。数字の資料をみるだけでも、その恐怖を知る手がかりになるかもしれない。
小林信彦さんの「本音を申せば」【週刊文春 9月1日号 P.66】によると、(資料によっても異なっているそうだが)、東京大震災のときの東京の震度は7だったようだ。震度3くらいまでしか経験したことがないので、想像が難しい。
どこかにつかまろうにも建物も地面も何もかも揺れて、崩れてたり倒れてくるわけで、道は波打ち割れるところもあるだろう。だったら水道管やガス管は? 地下街に居たらどうなるの? 倒壊した建物が道を塞いで、火の手も上がるかも。その巨大なうねりの中で、いったい何ができるのだろう。
今、災害時に東京の会社から郊外の自宅に歩いて帰宅するための地図がベストセラーになっているけれど、会社のビルが倒れても、自分だけはそこを逃れて、しかも大したケガもせず歩いて帰れるくらい元気だと思っているということになる。まあ、そう思っていないと生きていけませんね。
ただ「本音を申せば」のこの部分を読むと、大災害の中では生きているほうが不思議な気がしてきてしまった。
倒壊した家々から上がった火が街をなめ尽くし、東京市の六十五パーセントが被害を受け、横浜市は全滅に近かった。
(中央区年表によれば)東京市内百数十か所から発生した火災は、九月二日、三日にかけて延焼した。
東京市内でもっとも悲惨だったのは、本所横網町の陸軍被服廠(ひふくしょう)あとの空地で、多くの人々がそこに逃げ込んだが、強風のために火がつむじ風となり、三万八千人が死んだ。逃げようもなかった。
地震発生時刻が昼食時だったので火を使っている家が多かったことが火災被害を大きくしたということは有名だけど、ちょうど能登半島付近に位置していた台風の影響で関東に強風が吹いていたというのは今調べて初めて知った。つまり地震と火事と台風という三重苦の災害だったわけだ。
実際そこに自分が居たと仮定して、いったい何が出来るかと考えてみた。まず運良く建物の倒壊から逃れられる確率はどれくらいか。歩けるくらい元気な状態で助かったとしても、いくら歩いても歩いても周り中から火の手があがっていたら、もうただただ人の流れに押されるばかりでなすすべもないに違いない。関東大震災での死者・行方不明者は合わせて約14万2千800人と言われている。
今の時代に置き換えてみたら、この人数も桁違いになるのではないかしら。とても自分だけ助かるなんて思えない。いつ、どこで、どんな状態で迎えるかわからない大地震。やはり一番こわいのは「地震」だと思った。
【追記 9/8】
関東大震災の死者・行方不明者数について、次のようなニュースがありましたので訂正します。
関東大震災の死者、行方不明者
10万5000人だった
80年ぶり下方修正
関東大震災(1923年)の死者・行方不明者数が、
定説だった「14万2000人余り」より実際は約3万
7000人少ない「10万5000人余り」だったことが、
鹿島建設の研究者の調べでわかった。従来の数は
死者と行方不明者を重複して数えていた。これを
受けて「理科年表」も11月発行の2006年版で、
80年 ぶりに数字を修正する。
=読売新聞 平成17年9月8日(木)=
2005年08月19日
軽演劇を観てみたい
「軽演劇」と言われても具体的に何かが思い浮かぶわけでもなく、実際はその定義もわかっていないのだけれど、「粋でコミカルな劇」というイメージを勝手に描いている。ともかく何だか耳に心地良い。
「本音を申せば」【週刊文春 8月25日号 P.64】の小林信彦さんは、「伊東四朗一座〜急遽再結成公演」を観て大いに笑ったそうだ。そもそも軽演劇とはどういうものなのだろう。
と、小林さんは言う。「軽さ、いいかげんさ、面白さ」というのがキーワードのようだ。『大辞林』によれば、「(本格的な芸術としての演劇に対して)軽い娯楽と風刺に富んだ大衆劇。昭和初年からの用語。」とある。やはり昭和の匂いのする言葉なのかな。
伊東四朗さんは、その昭和の匂いを持っている人に思えるし、もちろん「軽さ、いいかげんさ、面白さ」は兼ね備えている。その伊東四朗座長以外の出演者は、三宅裕司、渡辺正行、小倉久寛、春風亭昇太、東貴博、ユンソナ(娘役は日替わり)といった面々だったそうだ。
これを聞いただけで「ああ、観たい〜」と思った。「面白さ」にもいろいろあるけれど、この舞台はたぶん「とぼけた面白さ」じゃないかなあ、と想像してしまう。生で観たい。
でも今年の公演はもう終わってしまったそうだ。伊東四朗一座は来年も公演してくれるのだろうか。チェックしておこう。あるいは、他にも軽演劇の公演はないのだろうか。志村けんさんなんて、出来そうな気がするけど、違うのかなあ。
「本音を申せば」【週刊文春 8月25日号 P.64】の小林信彦さんは、「伊東四朗一座〜急遽再結成公演」を観て大いに笑ったそうだ。そもそも軽演劇とはどういうものなのだろう。
「軽演劇」は、夏の夕方か、年の終わりにフラッと観て、ケッケッケと笑って、あとはさっぱり忘れてしまえるのがいい。
出演者でいえば、益田喜頓、有島一郎、三木のり平、八波むと志といった人たちが出ていた東宝ミュージカルス(東京宝塚劇場)の軽さ、いいかげんさ、面白さが、戦後の「軽演劇」の華だった。
と、小林さんは言う。「軽さ、いいかげんさ、面白さ」というのがキーワードのようだ。『大辞林』によれば、「(本格的な芸術としての演劇に対して)軽い娯楽と風刺に富んだ大衆劇。昭和初年からの用語。」とある。やはり昭和の匂いのする言葉なのかな。
伊東四朗さんは、その昭和の匂いを持っている人に思えるし、もちろん「軽さ、いいかげんさ、面白さ」は兼ね備えている。その伊東四朗座長以外の出演者は、三宅裕司、渡辺正行、小倉久寛、春風亭昇太、東貴博、ユンソナ(娘役は日替わり)といった面々だったそうだ。
これを聞いただけで「ああ、観たい〜」と思った。「面白さ」にもいろいろあるけれど、この舞台はたぶん「とぼけた面白さ」じゃないかなあ、と想像してしまう。生で観たい。
でも今年の公演はもう終わってしまったそうだ。伊東四朗一座は来年も公演してくれるのだろうか。チェックしておこう。あるいは、他にも軽演劇の公演はないのだろうか。志村けんさんなんて、出来そうな気がするけど、違うのかなあ。
