2007年06月16日

動物の気持ちがわかる人

 テレビで、動物と心で会話している人を二人見たことがある。どちらも外国(アメリカだったかな)の女性で、番組のために日本に来て、ペットのことで悩んでいる人に、ペットの気持ちを通訳して大変に喜ばれていた。飼い主でさえ忘れていた犬の遊び道具なんかも、絵に描いてみせたりしていた。

 感動ものなのだけれど、テレビはどうにでも番組を作るし、などと思うと心底感動できなかったりする。それでいて、あの人たちは本当に動物の気持ちが分かっているような気もする。

 中村うさぎさんの「さすらいの女王」【週刊文春 2007年6月21日号】に、『動物感覚』(テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン/共著、NHK出版)という本のことが書いてある。

 著者は二人とも女性。テンプルは動物学者にして自閉症。キャサリンは、脳と神経精神病学を専門とする著述家である。テンプルは自閉症ゆえに――。


 その「他の人とは違う世界観」をフル活用して成功した。「自閉症をもつ人は動物がかんがえるようにかんがえることができる」と彼女は語る。「自閉症は、動物から人間にいたる道の途中にある駅のようなものだ」と。


 彼女は他の人間よりも動物の気持ちがよくわかり、通訳ができるそうだ。


 彼女は、その自閉症ならではの能力を仕事にし、牧場主や精肉工場の経営者を相手に家畜の扱い方のアドバイスをしたり、動物の視点で考えた人道的かつ効率的なシステムを考案したりして、社会的な成功を収めている。



 こんなことってあるんだ。あるのか? 私には「自閉症は、動物から人間にいたる道の途中にある駅のようなものだ」という部分からして理解できない。

 でももしこれが真実だとして、日本にはそういう人いないのかなあ? 
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2007年02月09日

昭和六十六年!?

 今年が平成何年かと聞かれて、即座に答えられない。エ〜ト、エ〜ト、と少し間があいてしまう。西暦だったら即答できるのに何故なんだろうと思った。昭和のころは、そんなことはなかった。だから、昭和○年生まれです、と聞けばすぐに年齢が計算できた。平成になってからは全然ピンとこない。昭和46年生まれと言われても、……ああ面倒臭い、何歳でもいいや、ってな感じ。ついでに自分の年齢も、このままあやふやにしちゃいたいくらいだ。

 中村うさぎさんの「さすらいの女王」【週刊文春 2007年2月15日号】に賞味期限切れの食べ物の話が出ていた。何度も繰り返した引越しのせいで、開封されないままのダンボール箱が、何十箱も放置されていたそうだ。意を決して開けてみたところ、15年前のクッキーなんかも出てきた。そればかりか、ご主人がもっとすごいものを発見した。

 見ると、その手に握られているのは、コショーの瓶だ。一見、何の変哲もないコショーに見えるが……。
「ね、この賞味期限、見て。昭和六十六年よ!」
 しょーわ、ろくじゅうーろくねん〜〜っ!? なんじゃ、そりゃーっ!
「ちょっと待ってよ。あり得なくない? 昭和は六十四年まででしょ」

 一瞬ビックリ。でも、コショーというところがミソ。作られてから賞味期限切れになるまでが年単位のものならば、こんなこともあり得るのだ。昭和の終わり頃に作られ、年号表記が昭和の場合、(結果的に)存在しない年が表記されてしまっている。

 元号が変わることによって、たぶん他にもいろいろと支障があったに違いない。コンピュータ社会になったことが一番の理由だろうけど、身の周りには西暦表示が増えたように思う。その分、平成何年ということを意識しないで暮らせるようになったのではないだろうか。私が、平成より西暦の方がピンとくるのは、そんなところに原因があるのかもしれない。ところで、このコショーの賞味期限を平成に直すと、平成3年で良いんですよね?
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2007年01月10日

裸足にシャネル

 近所のおばさんから「それ良いネエ」と着ていたセーターを褒められ、「これ、貰い物なんですよ〜」と嬉しそうに話したら、「黙ってれば分らないのにぃ…ギャハハ」と笑われた。

 たまに親戚から古着を貰うことがあって、とても重宝している。特にそのセーターはしっかりとしたつくりで、一度着たかどうかのうちにサイズが合わなくなってしまったとかで、こちらとしては新品を貰ったも同然だった。私としては得した気分なのだ。とても黙ってなんかいられない。

 ところで、毎年流行に合わせてブランド品を買っている人は、古くなった衣類はどうしているのだろうと思っていたら、中村うさぎさんが「さすらいの女王」【週刊文春 2007年1月8日号】に書いていた。

 中古のブランド品を買い取る業者を呼んで、「ひと山いくら」みたいな形で売る。業者は、それらをあとでチェックするのだけれど、シミや破れなどで再販できないものもたくさん混じっている。それらは慈善団体に寄付され、アフリカ難民などに送られることもあるそうだ。

 こうしてアフリカでは、腹を空かした難民の女性がシャネルやディオールの服を着て裸足で歩いてる、みたいな不思議な光景が、日常的に見られるそうなのである。
 貧富の格差がどうこう、といったことよりも、「ステイタス」という唯一無二の記号性を失ったブランド品の末路を語る寓話みたいで、この話は面白い。

 その光景を想像しただけで、冷たく異様な絵を見たようなショックを受けてしまった。
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2006年04月21日

桜の花に怯える人

 決して嫌いではないけれど、桜の花は、私の心を緊張させる。他の花ではあり得ない気持ちになる。「綺麗だなあ」と思いながらも、心の片隅に何かがあって、手放しでその美しさを堪能できないでいる。特に夜桜は、たとえ写真でも怖い。何故なのか自分でも説明ができない。だが、実は、たまに同じようなことを感じる人がいる。

 中村うさぎさんの「さすらいの女王」【週刊文春 4月27日号】を読んだら、うさぎさんもその一人だった。(ここで女王様とは中村うさぎさん自身のことです)

 もしかしたら女王様は、桜が嫌いなのかもしれない。はらはらと舞い散る花びらを美しいとは思うけれども、同時に胸の底が冷え冷えと苦しい気分になるからだ。あんな憂鬱な樹の下で、わいわいと酒を酌み交わす気にはなれん。桜の花は、ひとり仏頂面で眺めるもんだと思っている。

 うさぎさんは、桜の花見について調べ、それが豊穣を祈る宗教的儀式の名残だと知る。それでも花見の宴を好きになれない。

 本当は、桜の樹におわす神は、豊穣の神ではなく、もっと怖ろしい神なのではないか。人は、その神が指し示す死と破滅の深淵から目を逸らすために、とことん乱痴気騒ぎを繰り広げ、背筋を這い上がってくる冷たい恐怖を紛らわせているのではないか。

 私が桜を怖く思う漠然とした感情と違って、うさぎさんには、もっと何かが見えているようだ。
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2006年01月30日

美容整形と心の解放

 作家の中村うさぎさんは、昨年の12月30日にまぶたの美容整形をしている。老化によって垂れたまぶたを引き上げたのだ。それから二週間後、「さすらいの女王」【週刊文春 2月2日号】によれば、うさぎさんも周囲も、以前の顔を忘れつつあるらしい。たしかに人の記憶はその程度のものかもしれない。しかも、うさぎさんの場合は手術したことを公言している。むしろ手術したことを隠すほうが、周囲が昔の顔を忘れないのだそうだ。

 整形がバレるのではないか、あるいは、整形に失敗したと思われるのではないか、という周囲の視線に対する恐怖が本人の心の重荷となり、その重荷が態度や表情に滲み出ると、今度は周囲がそれに反応してヒソヒソと囁き交わしたり腫れ物に触るような扱いをするようになって、ますます本人は自意識の袋小路に追い詰められてしまうのだ。そうすると、放っておけば以前の顔なんか忘れてくれる人々も、なかなか忘れてくれなくなる。

 そもそも人の視線が気になるから手術をするのだろうに、それを公言する勇気がないと、また別の意味で周囲の視線を気にしなくてはならないとはなんたることだろう。美人でも美男でも表情が悪くては何にもならない。だからといって、口に出すのはなかなか出来そうで出来ないだろう。本当にコンプレックスから解放されて心から晴れやかになるのであれば、手術をするというのも1つの手段かもしれない。ただ、術後の心のあり方をちゃんと考えておかないと、かえって惨めな気持ちになる。つまり、手術がすべてを解決すると過信しないほうが良いということだと思う。

 ちょっと話は逸れるけど、中高年の女性に圧倒的な人気を誇っている綾小路きみまろさんが、お客さんに向って「よくいらっしゃいました。そのようなお顔で…」などと言っても、皆さん大笑いする。自分のことだと思っているのか、いないのか、ともかく大ウケだ。「若くないから平気なんだろう」と思われるかもしれないが、女心はそんなものではない。ああいった状況でなければ傷つく言葉だ。ただ、年数を経て自分というものを受け入れているというのはあるかもしれない。

「最近はなんでもかんでも”可愛い”と言う」と、眉をひそめる向きもあるけれど、私は世間の”かわいい”の範囲が広いほど生きやすいように思う。確かにボキャブラリー不足だとは思うけれど、いろんな人や動物、あるいは物までも肯定的に見るという意味では、”可愛い”で良いと思う。強面のおじさんがちょっと照れくさい顔をしただけでも「可愛い」、しわくちゃ顔のおばあちゃんも笑うと「可愛い」と言われる。顔がぺしゃんこな犬だって「可愛い〜!」とナデナデされる。三枚目のタレントさんたちも売れてくるとそれなりに良い顔に見えてくる。目鼻立ちだけではなく、表情やしぐさを認める傾向は、周りの存在を幅広く受け入れる優しさかもしれない。

 それなのに、たいてい誰もが、特に若い時ほど自分の容姿には手厳しい。あとはいかに自分自身を受け入れられるかにかかっている。受け入れてしまえばラクになるのに…。
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2005年12月18日

三つ子の魂百まで

 自分が三歳のころ何を考えていたのだろうか。中村うさぎさんの「さすらいの女王」【週刊文春 12月22日号】を読んで、ふとそんなことを思った。お母様の記憶にある、うさぎさんの3歳当時の様子が描かれているからだ。ちなみに文中の「女王様」はうさぎさんのことです。

 朝ご飯が終ると縁側にゴロリと手枕で横たわり、そのまま何時間も漫然と庭を眺めているような、まるで寝たきり老人のごときガキであったという。
 昼過ぎになって、家事をひととおり済ませた母親が、寝そべっている女王様の背中に向って「買い物に行ってくるね」と声をかけると、面倒くさそうに「うん」と答える。普通の幼児であれば母親と一緒に出かけたがるものではないかと訝りつつも、母親はひとりで買い物に出かけ、夕方近くに帰宅してみると、幼き女王様は出かける前とまったく同じ姿勢・・・…すなわち縁側に手枕というスタイルで、横着にゴロ寝を決め込んだままなのであった。
「あんたには、生きる気力ってものがなさそうだった」
 母親は、当時の女王様を振り返って語っている。


 うさぎさんは、当時の自分が何を考えていたのかと不思議に思っている。しかも少なくとも小学生時代はずっと落ち着きが無い子供だったそうだし、その後も人一倍エネルギッシュに驀進して現在に至っているのだから、読んでいるこちらも不思議に思う。食も細かったようなので、もしかしたら体力的に何かが足りなかったのかなあと、私なりに考えてみたが、いや、もしかしたら、幼きうさぎさんは空想の世界で遊んでいたのかもしれない、と思い当たった。

 作家になる才能は、たぶん生まれついてのものだろう。そうでなくても子供の頃は、空想遊びをすることがよくある。大人では思いもつかない物語を頭で作り出すことができるのだ。「ここで妖精が出てきて、こうなって、ああなって」などとファンタジーの世界と現実の世界が矛盾無く混在しているストーリーを描ける。そんなことをしていたら、何時間だってすぐ経ってしまう。途中で声を掛けられたら、現実に引き戻されたようで、”面倒くさそうに”答えてしまうことだろう。そこで無理矢理「もっと子供らしく遊びなさい」とか押し付けなくて良かったと思う。そのころ彼女の心の中で何かが育まれていただろうからだ。うさぎさんは、「縁側で寝転んでた私は今どこにいるんだろう」と書いているが、今もうさぎさんの中に居て、創作活動に役立っているような気がする。

 それにしても、中村うさぎさんは、今お疲れなのだろうか。「さすらいの女王」について当ブログでは一度も感想を書いたことはなかったが、いつも面白く読んでいた。初めのうちは借金まみれの自転車操業の様子をハラハラしながらだったけれど、だんだんこちらまで「なんとかなるさ」という気がしてきたものだ。そこにはうさぎさんの圧倒的な生命力と運の強さみたいなものが溢れていたからだ。ところが、今週の「さすらいの女王」はあきらかにトーンがいつもと違い、読後しんみりしてしまった。読むこちら側の問題なのか、いつも突っ走っていたうさぎさんがちょっとひと息ついただけなのか。だったらいいのだけれど。
のり at 15:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中村うさぎ